第四十章 自分で決めた未来 弟side
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「ねえねえ、これ見て!」
リビングに響く、弾んだ声。
ソファに沈みながら、スマホをいじっていた手を止める。
視線を向けると、
妻が、キラキラした目でテレビを指さしていた。
「この人、今めっちゃ人気なんだよ!演技すごくてさ!」
画面には、
見慣れた顔。
——いや、“知っている”顔。
「……へぇ」
短く返す。
それ以上でも、それ以下でもない。
妻は気づかない。
いや、気づくはずもない。
俺にとってその人が、
どういう存在かなんて。
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テレビの中の彼は、
完璧だった。
感情の揺れ。
視線の使い方。
声の抑揚。
全部が自然で、
だからこそ、引き込まれる。
「ほら、このシーンやばくない!?」
隣で、妻が興奮気味に話す。
身を乗り出して、
画面に釘付けになっている。
「……確かに、上手いな」
そう言いながら、
少しだけ目を細める。
(……すごい人だな)
それは、素直な感想だった。
血が繋がっているとか、
そういうのを抜きにしても。
ただ一人の俳優として、
純粋に、そう思う。
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「ね、今度映画も観に行かない?」
「んー、いいよ」
軽く頷く。
妻は嬉しそうに笑う。
その顔を見ていると、
それでいいと思える。
(……これでいい)
何も変わらない。
俺の居場所は、
ここだ。
この家で、
この人と過ごす日常。
それが全部だ。
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夜。
風呂上がり。
リビングの電気は落とされていて、
間接照明だけが、柔らかく部屋を照らしている。
妻は、ソファで寝落ちしていた。
テレビはまだついている。
さっきのドラマの再放送。
小さくため息をつきながら、
リモコンに手を伸ばす。
その瞬間、
画面の中の彼と、目が合った気がした。
——演技なのに。
こっちを見ているような錯覚。
思わず、動きが止まる。
(……似てるって、言われるのかな)
ふと、そんなことを考える。
鏡で自分の顔を見る時、
たまに思うことがある。
知らない誰かに似てるような、
そんな違和感。
でも、
それを深く考えたことはなかった。
考える必要もなかった。
「……」
リモコンを持ったまま、
しばらく画面を見つめる。
(……親父、か)
心の中でだけ、
そう呼んでみる。
口には出さない。
これからも出すことはない。
でも、
完全に無関係とも思えない。
その曖昧な距離が、
今の自分にはちょうどよかった。
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テレビを消す。
静けさが戻る。
妻の寝息が、
小さく聞こえる。
毛布をかけてやりながら、
ふと、思う。
(……言う必要、ないよな)
この人に、
真実を話すこと。
その選択肢が、
ないわけじゃない。
でも、
必要性は感じない。
今の関係に、
それが何かを足すとも思えない。
むしろ、
余計なものになる気がする。
「……うん」
小さく頷く。
自分の中で、
答えはもう決まっている。
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翌日。
通勤途中。
駅のホーム。
広告ポスター。
そこにも、
彼がいた。
大きく引き伸ばされた顔。
堂々とした佇まい。
その前を、
人が行き交う。
誰もが知っている存在。
でも、
俺にとっては違う。
「……遠いな」
ぽつりと呟く。
物理的な距離じゃない。
もっと、根本的なもの。
世界が違う。
生きてきた時間も、
選んできた道も。
だからこそ、
無理に交わる必要もない。
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スマホが震える。
メッセージ。
送り主は、姉ちゃん。
【写真、送ったよ】
短い一文。
開くと、
そこには、
俺と妻の結婚式の写真。
——あの日の。
タキシード姿の自分。
隣で笑う妻。
(……送ったのか)
誰に、とは聞かなくてもわかる。
少しだけ、
胸の奥が揺れる。
でも、
嫌じゃない。
むしろ、
それでいいと思う。
(……見てるのかな)
ふと、考える。
あの人が、
この写真を見ている姿を。
何を思うのか。
想像はできない。
でも、
一つだけ確かなことがある。
(……俺は、ここでいい)
それだけは、
揺るがない。
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夜。
帰宅。
「おかえりー!」
妻の声。
エプロン姿で、
笑っている。
その光景を見た瞬間、
全部が、どうでもよくなる。
血の繋がりとか、
過去とか、
そういうの全部。
「ただいま」
自然と、笑って返す。
それが、
俺の答えだ。
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食卓を囲みながら、
妻がまた言う。
「ねえ、この前の俳優さんさ!」
「またかよ」
思わず笑う。
「だって好きなんだもん!」
無邪気な顔。
その様子に、
肩の力が抜ける。
(……ほんと、平和だな)
箸を動かしながら、
静かに思う。
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画面の向こうの人。
現実の自分。
交わらないまま、
それぞれの場所で生きている。
それでいい。
それがいい。
「……まぁ、応援くらいはするか」
誰にも聞こえないくらいの声で、
ぽつりと呟く。
ただの視聴者として。
それ以上でも、
それ以下でもなく。
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そして今日も、
テレビの向こうで、
彼は演じている。
俺はそれを、
ただ静かに見ている。
——それが、
ちょうどいい距離だった。




