第三十六章 未来へ Sside
靴音が、静かに砂利を踏む。
一歩、また一歩と進むたびに、
かすかな音が、やけに耳に残る。
風はやわらかく、
空はどこまでも高かった。
(……いい天気だな)
場違いな感想だと分かっていながら、
そんな言葉が浮かぶ。
でも、きっと——
あの人なら、同じことを思う。
そう思えた。
手に持った花を、
少しだけ持ち直す。
向日葵。
あの頃、何気なく「好きだ」と笑っていた花。
理由なんて聞かなかった。
ただ、その笑顔が好きで、
それで十分だったから。
(……今なら、聞くのにな)
ふと、そんなことを思う。
どうして好きだったのか。
どんな気持ちで見ていたのか。
どんな未来を思い描いていたのか。
あの頃の自分は、
そこまで踏み込もうとしなかった。
(……余裕、なかったな)
苦くもなく、
ただ、静かな実感として落ちてくる。
目の前に、墓石が見える。
足が、自然とゆっくりになる。
ここに来るたびに、
ほんの少しだけ、時間の流れが変わる。
過去と今が、
静かに重なる場所。
花を供え、
そっと手を合わせる。
目を閉じると、
不思議と、あの頃の空気がよみがえる。
笑い声。
少しだけ拗ねた顔。
何気ない会話。
触れられなかった未来。
(……来たよ)
心の中で呟く。
それだけで、
十分な気がした。
ゆっくりと目を開ける。
墓石の向こうに広がる空は、
変わらず穏やかだった。
「……君に会いに来たよ」
声に出す。
少しだけ低く、
でも、やわらかい声。
「君の子は、きちんとまっすぐに進んでいるよ」
言葉にすると、
胸の奥に、じんわりと広がるものがある。
誇らしさとも、
安堵とも違う。
もっと静かで、
確かな感情。
(……見てたら、きっと笑うだろうな)
あの人の顔が浮かぶ。
優しくて、
少しだけ意地の強い笑い方。
「……時間は、あっという間だ」
ぽつりとこぼれる。
本当に、そう思う。
気づけば、
こんなにも遠くまで来ていた。
戻れない時間。
取り戻せない選択。
それでも——
「……未来は、続いてる」
そう言い切れる自分がいる。
それが、少しだけ不思議だった。
昔の自分なら、
きっと、どこかで立ち止まっていた。
でも今は、
前を向けている。
「……君は、どんな未来を描いてたのかな」
問いかけるように、空を見上げる。
答えは、当然返ってこない。
それでもいい。
もう、
無理に答えを求めることはしなくなった。
(……きっと)
自分が見ているこの景色も、
あの人の描いていた未来の一つなんだろう。
そう思えるから。
しばらく、
何も言わずに立つ。
風が、静かに吹き抜ける。
向日葵の花びらが、
わずかに揺れる。
その様子を、
ただ、見つめる。
「……まだまだ、夢が続いてるよ」
ふと、言葉がこぼれる。
仕事のこと。
ここまで来た道のり。
これから先のこと。
全部をひっくるめて、
そう思えた。
「……君のところには、まだ行けないけど」
少しだけ、苦笑する。
軽く肩の力が抜ける。
「その時まで、見守ってて」
静かに、
でも、はっきりとした声で言う。
それは、
お願いでもあり、
約束でもあった。
そして——
ほんの少しだけ、
あの頃の自分に戻る。
「……そっちでは、逃げないでくれよ?」
くすっと、わずかに笑う。
「たっぷり、話すことがあるんだからさ」
言いながら、
胸の奥がじんわりと熱くなる。
伝えられなかったこと。
聞けなかったこと。
全部、残っている。
でも——
それでいい。
全部、
その時に話せばいい。
そう思えるくらいには、
時間が、優しくなっていた。
手を合わせる。
静かに、深く。
目を閉じる。
風の音だけが、耳に残る。
(……じゃあ、また来るよ)
心の中で呟く。
今度は、
ちゃんと前を向いたまま。
顔を上げると、
空は変わらず広がっていた。
その青さに、
少しだけ背中を押されるような気がして、
俺は、
ゆっくりと歩き出した。
もう、振り返ることはなかった。




