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赤紫の道  作者: 了無一物
第一部「平清盛」 第二章「打ち松」

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第三節「信濃国」

1179年9月中旬(治承三年八月中旬)

信濃国・府中


水と森の信濃国は、古代から農産物と森林資源に恵まれ、馬の大産地でもあった。

山や川で区切られた地勢に培われた独立独歩の気風が強く、信濃国全体を一つにまとめる地場の政治勢力は存在しなかった。

その為、信濃国は常に周辺勢力から侵攻を受ける立場であった。


信濃国における大宗教勢力である諏訪大社と善光寺も、京の各勢力に組み込まれていた。

諏訪大社は八条院や堂上平氏と関係が深く、当時の善光寺は反平氏勢力である後白河院と繋がる園城寺(三井寺)の末寺であった。


しかもこの複雑な情勢は、これで終わりではない。

院政期に爆発的拡大した領域型荘園と、それを支配管理する本家・領家・預所・荘官・在地領主といった荘園の階層的・複合的な体制が、京での政争と密接に絡み合っていた。


つまり中央での政治闘争とは、地方での(武力を伴った)経済戦争でもあった。


信濃特有の複雑さと荒れ狂う時流に翻弄されながらも、生き残りをかけて日々相争う信濃国の在地領主達は、信濃国を糾合し他国から自分たちの利益を守ってくれる政治・武装勢力が出現するのを密かに渇望していた。



その日、井上光盛の呼びかけによる会合が、府中の国衙で行われた。

集まったのは、井上光盛・中原兼遠・村山義直・栗田禅師寛覚である。

井上は、佐久郡の義光流信濃源氏である平賀義信にも呼びかけたが、素気なく断られた。


井上光盛

信濃源氏。

現在の須坂市井上を中心とした北信一帯の大勢力である。

朝廷の統治機構である国衙の在庁官人筆頭も務める。


中原兼遠

一族が京の官人を代々務めていた中で、地方に定着した中原の支族。

重要な交通路と豊富な森林資源を有する信濃国木曽谷を支配する。

老練な在地領主であり国衙在庁官人の重職。

源義賢の遺児である駒王丸(木曽義仲)を養育する。


村山義直

井上氏の一族。

現在の長野市村山付近を勢力圏とする。

北信の平氏方勢力圏に最も近い源氏方勢力の一つ。


栗田禅師寛覚

信濃村上氏の一族。

善光寺周辺を勢力圏とし、善光寺の運営にも深く関与。堂衆(僧兵)を束ねる。



「実は、中納言殿(源資賢)より、密かに院の思し召しが伝えられた」

一同は耳を疑い驚愕した。


漸く、栗田禅師寛覚がおそるおそる口を開いた。

「まさかとは思いますが、院宣でありましょうか?」


「院宣ではありませぬ。中納言殿からの消息(私文)ですが、内容は院のご意向と考えて間違いないでしょう」


「掃部助(かもんすけ)殿。何故そのようにお考えを?」


村山の問いに、井上は溜息をついた。

「同じくして、院の倉預殿(藤原兼盛)から国衙に御教書(みぎょうしょ)が届いたのだ。

書かれていた事は中納言殿からの消息と全く同じ。

太田荘(平盛子の死後、後白河院に事実上接収された近衛家の大荘園)の件での御指図であった」


村山と寛覚は目を見張った。

「掃部助殿!中野と笠原を太田荘から追い払えと言う話ではありませぬな?」

「それはお門違いですぞ、掃部助殿!」

「我らは倉預殿の下人ではありませぬ! 

何故に、此の様な事で我らの命をかけねばならないのですか!!」

「分かっておる!!!」


井上は声を荒げて場を鎮めた。


「⋯⋯分かっておる。何を意味するのか、よう分かっておる。

中野や笠原と矛を交えるとは、つまり、平氏に弓引くのと同じ。

京の連中は、いつも勝手に我らの命を秤にかけおる。

まことに恨めしき輩よ」


それまで黙然としていた中原は、大きく息を吐いた。

「思わぬ前内大臣殿の薨去で、院の周りが昂ぶっておられるのでしょう。

この信濃まで御指図をされるとは、他の国にも御指図ありと考えてよろしいかと」


「それでは、遂に院が御謀反を……」


「かもしれませぬ。然りとて……」

中原は黙り込んだ。


「負けますか」


井上の言葉に、中原は頷いた。

「まだ、時節ではありませぬ」


「まだ、と木曽殿は言われるか」


中原は大きく頷いた。


「然れども」

中原は両手をついて井上に頭を下げた。


「諸国で平氏憎しの思いが満ちれば、この信濃でも、源氏が北信四郡(水内郡・高井郡・更級郡・埴科郡)を抑え、高名(功名)をあげましょう。

それまでは、どの様な御指図でも動かぬが上策。

然れば、気がかりは善光寺でございます」


栗田禅師寛覚は顔をしかめた。


「木曽中三殿のご懸念は、市(市原)ですな。

弥生(3月)の天火(落雷)で焼け落ちた善光寺再建の為に、市庭銭(市場での税)を増やしたところ、これが市に出入りしている笠原党と騒動になっておりまする。

今では、衆徒と笠原党の喧嘩は日常茶飯時の有様に……」


井上、村山、中原は揃って唸った。


「御本山(園城寺)は何と?」


「再建に助力をお願いしておりますが、いまだご返答は⋯⋯」


「ここは何としても、衆徒には堪えてもらうしかありませぬな」


「拙僧も、力及ぶ限り鎮めてまいりまする」


井上は村山を見据えた。

「七郎殿。中納言殿と倉預殿には何とか言い紛らわすが、弓矢の手入れは怠りなきようにな」


「心得ましてございます」


井上はあらためて一同に頭を下げた。


「禅師、木曽中三殿。その時は、どうか井上党にご助力をお願い申し上げまする」


兼遠と寛覚も両手をつき頭を下げた。

「相分かり申した。掃部助殿に必ずや合力致しまする」


盟約を交わした四人だが、高揚感は些かも無かった。

その胸の内には、大乱・大禍の予感が渦巻いていた。

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