第二節「伊豆」
1179年9月中旬(治承三年八月中旬)
伊豆国・伊豆山権現
頼朝は、伊豆・相模・駿河・遠江・甲斐・信濃・武蔵・安房・下総・上総の十カ国が見渡せるという十国峠や伊豆山権現からの眺めが好きだった。
何時間見ても見飽きる事がなく、日が沈んだ後も月夜に照らされた海原や山並みを楽しんだ回数は数え切れない程だ。
それに比べて、幼少期の思い出にある京の風景は、暗くて辛い。
楽しかった記憶を思い出そうとしても、いつも思い浮かぶのは、身内からの体罰を伴った厳しい躾と、夜討ちにされた館から舞い上がる炎だけだった。
「まことに、京はおぞましいところよ」
「佐殿(源頼朝)、いかがされましたか」
伊豆山権現の参道を登る源頼朝に、後ろから藤原邦通が気遣って声をかけた。
「藤内殿(藤原邦通)、なんでもありません。
佐殿はここを登る度に、京は、京は、と嘆かれるのですよ」
頼朝が答えるよりも先に、安達盛長が答えた。
「そなたは、主を敬わんのか」
頼朝は苦々しく愚痴をこぼした。
「藤内も、何れここが良き所と思うようになるぞ」
「確かに、この景色は京で見られませぬなあ。
お、よい今様を思い出しましたぞ。
波の〜下なる〜砂なれば〜よせては〜かへり〜かへりては〜よする〜」
邦通のド下手な今様に、頼朝と盛長は一瞬きょとんとすると爆笑した。
笑いが止まらぬ二人は、怪訝な顔の邦通と共に密厳院へと入って行った。
密厳院で頼朝が日課である法華経千部供養を終えると、律師の僧位である覚淵が現れた。
「佐殿、本日も素晴らしくお声が通っておりました」
「これは聞養房。誠に恐れ入ります」
頼朝、盛長、邦通は揃って平伏した。
「千部供養も半ば近くとなり、これも聞養房のお導きのお陰にて御礼申し上げまする」
覚淵はかぶりを振った。
「いいえ、佐殿のご精進ゆえにございます。
法華経千部供養による功徳は、必ず回向いたしましょう。
姫君もお健やかとの事で、なによりでございます。
今年、二歳になられましたか」
頼朝は相好を崩した。
「然様です。
病にかかることもなく息災ではありますが、落ち着かなくていけませぬ。
少し目を離すと、姿が見えなくなるほど動き回りまする。
この前は、入り込んだいぼむしり(カマキリ)と目競べ(睨めっこ)しておりました」
一同に、柔和な笑みと和やかな雰囲気が広がった。
暫く談笑して、頼朝は居住まいを正した。
「ところで聞養房、京の様子をご存じでしょうか」
「前内大臣殿の薨去でありましょう。
園城寺(三井寺)と東寺から急ぎの文が届きまして、七月二十九日に薨去されたとか」
「典薬大夫殿(三善康信)からの文も同じでございます。
前内大臣殿が薨去されてからは、主上が度々御悩なされるともございました」
覚淵は深く頷いた。
「さすがは典薬大夫殿ですな。
朝廷の内向きの事は、典薬大夫殿よりも知り得る者はおりますまい」
覚淵は少し間を置き、声をひそめた。
「これは、東寺からの文のみ書かれておりましたが、
『相国入道殿、御不例にて西八条第からお出にならず』とか」
「それは、誠に痛ましい事でございます」
頼朝は軽く頭を下げた。
「子に先立たれた親の悲しみは、今の頼朝にはよく分かりまする。
相国入道殿も、さぞかし御心痛でありましょう」
頼朝の後ろで、安達盛長と藤原邦通は素早く視線を交わした。
暫くして頼朝一行は密厳院を辞すると、浜でぼんやりと海原を見ていた。
夕陽が照らす時分になり、それまで押し黙っていた頼朝が口を開いた。
「先程の話、藤九郎と藤内は如何に思うか?」
安達盛長と藤原邦通は顔を見合わせ、盛長は先に邦通から答えるように勧めた。
勧めに従い、邦通は頼朝に答えた。
「恐れながら申し上げます。
前内大臣薨去の喪が明けた後、来春の除目が節目になると考えまする。
院と平氏のどちらが我を通せるか、それで院と平氏の行く末を占う事になろうかと。
たしか、相国入道殿は来年御歳六十あまり三つと聞き及んでおります。
前内大臣が薨去された今、来春の除目で平氏の勢いが下り坂となれば、巻き返しは難しいかもしれませぬ」
頼朝は顎髭をしごきながら頷いた。
「なるほどな。藤内はその様に考えるか」
頼朝は盛長に顔を向けた。
「藤九郎はどうか?」
「は。左馬頭様(源義朝)がお勝ちになっておられましたら、平氏の世よりも良い世になっていたでしょうか?」
邦通は驚き声を上げかけたが、頼朝は無表情なまま暫く考えると
「それは無い」
と言い切った。
「あの清盛でさえ苦労しているのだ。
父君ではどうにもならないだろう。
更に酷い世になっていても、驚きはない」
「佐殿……」
邦通は絶句した。
しかし、盛長は頼朝の答えを予想していたのか、至って普通に問いを重ねた。
「では、佐殿ならばどの様に成されますか?」
頼朝は含み笑いしつつ盛長を見ると
「それ、それ。その面よ。先の聞養房と同じよ」
とからかった。
頼朝と盛長は大笑いした。
邦通が一人唖然とする中、ひとしきり大笑いした後に頼朝は真顔に戻ると、二人に相対した。
「要は、何方から始めるかであろうな。
上からか、下からか。外からか、内からか。
そこが難しい」
「始め方、でありますか……」
「さて、話の続きはまたの機会にいたそう」
「佐殿、そろそろお戻りになりませんと。ここは伊東の所領からも近く、危のうございます」
「うむ。では、戻ろうか」
頼朝は盛長の言葉に頷くと馬に跨った。
邦通は頼朝と盛長の後に続きながら、得も言われぬ高揚感に包まれていた。




