第二節「前内大臣、薨去」
1179年9月1日(治承三年閏七月二十八日)
京・吉水
4年前。
湧き水で知られる東山の吉水に、一人の僧が庵を結んだ。
叡山で『智慧第一』と讃えられながら、栄達の道を捨て隠遁。
僧は隠遁後も厳しい戒律を守り続けていたが、それを自慢とせず、他者を見下す事もなかった。
『己は救い難い凡夫である』という強烈な自覚と絶望。
それが、解脱を求めて誰よりも己を厳しく律しながらも阿弥陀仏にすがる境地に至らしめた。
それ故に、その僧は救いを求める相手が誰であっても拒まなかった。
その僧は権力者・富裕者による寺院の建立や寄進は所詮『雑行』に過ぎずと断じ、我が身一つだけで阿弥陀仏を信心し『南無阿弥陀仏』と唱え続ければ、血統・生業・性別・犯さざるを得ない悪行に関係なく、人が決して逃れられない死の先で「必ず悟りを得て成仏できる」と説いた。
現世での差別や格差が死後も続くとされる、平安時代の固定化された社会で生き続けるしかない人々にとって、その僧の教えは世界の全てが崩れ落ちる程の衝撃だった。
しかし、1179年当時の吉水草庵に居るのは、その僧と少数の弟子だけであった。
有明の月が微かに姿を見せる中、吉水草庵からは、今日も変わらず称名念仏が絶え間なく聞こえてくる。
高く無く、低くも無く、早く無く、遅くも無く、川の流れや木々の間を通る風のように自然なそれは、鳥獣や虫すらも驚かす事が無く、まるで鳥の囀りや虫の音と共に唱和している様であった。
しかし、この日は、その妙なる調和を破る人と馬の喧騒が吉水草庵に迫っていた。
草庵が視界に入ると、先頭を駆ける馬上の男は右手で無地の蝙蝠扇を掲げ、
「止まれ!」
と付き従う郎党達に命じた。
粗末な草庵には門や塀など無く、所々に腰の高さ程しかない生垣があるのみである。
一団は、その生垣から七丈程(約21メートル)も離れた処で止まると、一斉に下馬した。
一団を率いる無地の狩衣を着た初老の男は、同じく無地の直垂を着た若者一人を従えて草庵に向かって歩んだ。
近付いていた人馬の音が止むと、師と弟子は称名念仏を静かに終えた。
弟子は、師が修行の邪魔と怒る様を一度も見聞きした事がなかった。
いつもの様に師弟は訪問者を出迎えに立ち上がった。
「恐れながら、法然房に申し上げまする。某は小松の右少将殿(平維盛)に仕えております、伊藤忠清と申します。この度は、我が君の使いとして参上いたしました」
忠清は深々と頭を下げた。
「実は、前内大臣入道殿の御不例重く、最早、頼み少なき御事に⋯⋯」
忠清は言葉を詰まらせ、後ろに控える若者も身を震わせた。
「⋯⋯小松入道殿には、日頃より深く阿弥陀如来に帰依されて極楽浄土への往生を願われ、最後の刻には是が非でも法然房を善知識にと望んでおられました。我が君からも、専修念仏の御教をもって極楽にお導き戴ける様、伏してお願いするよう申しつかりました」
両名はあらためて平伏した。
「どうか、どうか小松第までお渡りいただきます様、伏してお願い申し上げまする」
聞き終えた法然は、即座に答えた。
「お言葉、しかと承りました。前内大臣入道殿の御不例、誠に痛ましく存じます。臨終正念こそ極楽往生への要でございます。その最後の刻に、この身を善知識と頼みにしてくださる事は、仏弟子としてこれに勝る本懐はございません。謹んでお受け申し上げます。急ぎ参りましょう」
法然の承諾を得て、重責を果たした伊藤忠清は心から安堵し涙を流した。
「上人のお言葉、誠にかたじけなく存じます。恐れながら、火急にてお迎えの御馬を控えさせております。某が御馬の轡をとりますので、何卒、御海容くだされ。忠綱」
「は」
若者は短く答えると即座に表へ走った。
当時の人々の死生観や臨終行儀は『往生要集』に強く倣うものであった。
晩年の法然はこれを絶対的なものとせず、更に自身の臨終に於いて明確に否定した。
しかし、1179年頃の法然は『往生要集』を肯定的に捉えていた。
平重盛の容態は悪化と寛解を繰り返していたが、清盛との会合の数日後、急激に悪化した。
食事中に突然激しい腹痛に襲われて吐血。
下血も繰り返し、高熱を発して動けなくなった。
高熱と夥しい発汗の中で数日悶え苦しんだ重盛は、「法然房をここへ」と繰り返し意識を失った。
今、重盛は右脇臥し、その眼前には灯明に照らされた阿弥陀仏像が置かれている。
阿弥陀仏像の手には五色の糸が結ばれ、重盛の手へと繋がっている。
法然と弟子の信空、心寂、感西は、卯の刻から重盛の枕元で休むことなく念仏を唱え続けていた。
日が変わり丑の刻となった頃、法然は重盛の呼吸が是迄と違い整っている事に気がついた。
「小松入道殿、入道殿。御仏が見えますか」
「⋯⋯はっきりと見えまする。ああ、やつがれを御仏が⋯⋯南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏⋯⋯南無⋯⋯阿弥陀仏⋯⋯」
治承三年閏七月二十九日未明。
前内大臣平重盛は、安らかに息を引き取った。
現代において『中治り』と言われる現象は、当時の人々にとって故人が極楽往生した確かな証拠である『瑞相』とされた。
法然は、重盛が姿を見たり声を聞けば現世への未練になるとして、臨終の場から遠ざけられていた小松家の人々を集めると、重盛が臨終の直前に意識を取り戻し称名念仏した事を伝えた。
それは、『瑞相』で最も尊いとされていたものであった。
別室で音も立てず、ひたすら主人の極楽往生を願っていた小松家の人々は、法然の話を聞くと随喜の涙を流し、憚ることなく歓喜の声をあげた。
前内大臣平重盛の薨去は、直ちに西八条第の平清盛と、法住寺殿の後白河法皇に伝えられた。
関白松殿基房・太政大臣藤原師長・左大臣大炊御門経宗・右大臣九条兼実らには、夜明けを待って口上の使者が送られた。
東山の鳥辺野一帯は公家などの高位者も荼毘に付される葬送地であったが、庶民の遺体も遺棄される場所だった。
1179年当時は、大極殿と京市街の三分の一が焼け落ちて、高倉天皇や関白松殿基房も焼け出された1177年の『安元の大火(太郎焼亡)』による犠牲者の遺骨が、まだ山肌に散らばる凄惨な状況だった。
鳥辺野一帯の中で、皇族、公卿、高僧が荼毘に付される特別な場所とされた鳥戸野にも、密かに捨てられた遺骸が散乱していた。
重盛の荼毘は、陰陽師の占定に従い、翌日の日没後に遺族のみで行われた。
月もない暗闇の中、東山小松第から出棺。
鳥戸野の麓にある車止めで牛車から降ろされた座棺は、散乱する遺体や骨を急いで取り除いた狭い山道を、松明に照らされながらゆっくりと登って行く。
やがて鳥辺山(阿弥陀ヶ峰)に火が灯った。
後白河法皇は、法住寺殿の北側に位置する七条殿から、鳥辺山(阿弥陀ヶ峰)で燃え盛る荼毘の炎を扇越しに見つめていた。
「清盛も見ているかの、中納言(源資賢)よ」
「はい。おそらくは」
源資賢は恭しく頭を下げた。
清盛は重盛薨去の報を受けると慣習に従い荼毘には参列せず、広大な西八条第の持仏堂に籠り追善供養の読経をしていた。
「又舍利弗。極樂國土、衆生生者、皆是阿鞞跋致。其中多有、一生補處。其數甚多、非是算數所能之知、但可以無量無邊阿僧祇説。舍利弗。衆生聞者、應當發願、願生彼國。所以者何。得與如是諸上善人、倶會一處。舍利弗。不可以少善根福徳生彼國。舍利弗。若有善男子、善女人、聞説阿彌陀佛、執持名號。若一日、若二日、若三日、若四日、若五日、若六日、若七日、一心不亂。其人臨命終時、阿彌陀佛、與諸聖衆、現在其前。是人終時、心不顛倒、即得往生阿弥陀仏極樂國土⋯⋯」
不意に読経が止まり、合掌の手が下ろされた。
「我等は何して老いぬらん……思えばいとこそあはれなれ……
……今は西方極楽の弥陀の誓いを念ずべし⋯⋯重盛、重盛⋯⋯重盛⋯⋯」
清盛は項垂れると顔を覆い、慟哭した。




