第二節「治天の君」(二)
車寄せでは、体格逞しい牛飼い童や車副が地にひれ伏していた。
後白河法皇はそれに気が付くと、直接声をかけられた。
「おお、今日は猫丸か。先だっての双六場の物見は面白かったの」
「はい。院の思し召され候はば、またいつでも御案内仕りまする」
基房は扇で嫌悪により引き攣った顔を隠しながら、院と牛飼い童たちのやり取りを見ていた。
『また院は、かような下郎と親しく話をされる。世に心得ぬ、奇怪の至なり』
暫し談笑すると、猫丸は院に近づき基房には聞こえない小声で囁いた。
「ところで、お耳に入れたい事が。
清水寺や祇園社の双六で賭事している前内大臣の家人達の話を立聞きした下人や神人が言うには、いよいよ危ういと」
「何と。西八条第はどうかの」
「はい、家人どもが馬で激しく行き来しております」
「然らば間違いないの。後で女房から褒美を授ける程に。
そちがこと、これより後も頼もしく思うぞよ」
「ははっ」
猫丸は頭を地に擦り付けた。
後白河法皇は、現代の人権感覚や平等思想とは全く違うが、絶対的な自信が他者への寛容となる稀有な人であった。
それは、浄土宗開祖の法然が『己は救い難い凡夫である』という強烈な自覚と絶望から全てを救う専修念仏に至った道筋とは真反対であるが、通じるものがある。
後白河法皇は相手が遊女であろうと気になる者とは直接話をし、夜に市井へでかけて下人と一緒に揉みくちゃになりながら祭りや田楽を観るのも日常茶飯時であった。
その為、京の下層社会やアウトロー達の間で後白河法皇はよく知られた存在であり、強欲で残虐なならず者達も、お忍びで市中を出歩く院を敬い、手出しは一切しなかった。
特に、鴨川の河原で暮らす屠児(革職人達)・山水河原者(作庭や土木工事を請け負う者)・傀儡子・遊女・白拍子たちは、鴨川のすぐ側にある法住寺殿にも出入りして後白河法皇と日常的に接しており、院を神の如くに崇めていた。
その固い絆は、史実では後に行われる木曽義仲と後白河法皇の「法住寺合戦」で、多くの河原者が院に加勢し討ち死にする悲劇をもたらすことになる。
この後白河法皇の身分制度を無視した行いと優れた目利きは、社会から差別されている下人や河原者たちから、能狂言・歌舞伎・日本庭園・生け花といった、世界に誇る日本の伝統文化が生まれる土台となった。
後白河法皇が日本文化に与えた影響と功績はまさに極大であり、どれ程言葉を尽くしても尽くしきれないものだ。
法住寺殿で院に仕える女房や下人たちも、後白河法皇の常識外れな生活に振り回されながらも、院と親しく接して他では決して得られない楽しさから、院を心より慕っていた。
この様に、後白河法皇の強烈な個性は、公卿や寺社といった伝統的な権門・特権階級からは蛇蝎の如くに忌み嫌われていた。
しかし、後白河法皇は洛中洛外の下層社会やアウトロー達の中で、公卿や平氏も持ち得ない独自のネットワークを広く深く築いていたのである。
重盛亡き後の清盛や平氏一門をどの様に扱うか。
八条院御所に向かう牛車の中で、後白河法皇は思いにふけっていた。
院は平氏を必要以上に追い詰めたり、追討の院宣を発して滅ぼすつもりは全くない。
しかし、縁が深いほど一度縺れた糸は解こうとするほどに絡まり、最早、尋常な方法では関係を戻すことはできなかった。
『同じ双六でも本双六と大和双六では趣が違うが、賽と駒を使うのに変わりは無し。清盛や平氏が朕を楽しませるなら、世を変えても些かも苦しうせず。されど、駒の人が操りなすは許し難き事なり』
不意に院は建春門院を思い出し、涙ぐんだ。
『東御方(建春門院・平滋子)が生きておられたら……ああ、今一度、東御方にお会いできるものならば……』
院は暫く俯いていたが、涙を拭うと虚空を睨んだ。
「東御方の為にも、(我が子である)主上と、(我が孫である)東宮を守り奉らねばならぬ。主上と東宮を清盛が駒にはさせじ。
……そうじゃ、平氏や源氏も当てにならぬなら、新たに臣籍降下させて別の者に武士を束ねさせれば良いか!
北面の武士も増やさねばならぬ。さて、どうしたものかの……」
牛車に揺られながら思案を巡らすうちに、後白河法皇は眠りに落ちていた。




