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鼓動(ハートビート)  作者: RSakamoto


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その後 二〇三五

一


二〇三五年、十月。


富山の兄が死んで、二年がたっていた。


実家は、空き家になっていた。


兄の妻は、兄が死んだ翌年、大阪の息子の家の近くの、施設に移った。


兄の二人の子どもは、東京と大阪で、それぞれの家族と暮らしていた。


どちらも、富山には戻らないと言っていた。


十六年前の、母の葬式のときにも、そう言っていた。


晴美と、結と、三人で、富山に行った。


家を、片づけるためだった。


それから、墓の相談をするためだった。


北陸新幹線の窓の外を、稲刈りの終わった田んぼが流れていった。


田んぼの半分に、何も植わっていなかった。


草が、伸びていた。


結が、窓の外を見ながら言った。


「耕作放棄地。この県の、この十年の数字、ひどかよ」


結は、二十六歳になっていた。


大学院を出て、人口の研究所で働いていた。


晴美の口癖と、自分の口癖と、統計の言葉が、同じ口から、混ざって出てくる娘だった。


家の鍵は、兄の息子から、郵便で送られてきていた。


玄関を開けると、湿った匂いがした。


十六年前、母の通夜の夜に、兄の妻と並んで皿を拭いた台所が、そのまま残っていた。


流しの上の棚に、湯呑みが、きちんと並んでいた。


座敷の仏壇は、空だった。


位牌は、兄の息子が、大阪に持っていったのだった。


晴美が、台所の窓を開けた。


風が、入ってきた。


結が、座敷の畳の上に座って、あたりを見回していた。


「パパは、ここで育ったと?」


「ここで」


「どこに座っとった?」


少し考えた。


座敷の、床の間の手前。兄の隣の、少し後ろ。


「そこです」


結は、その場所に、座り直した。


それから、台所のほうを見た。


晴美が、流しの前に立って、湯呑みを新聞紙で包んでいた。


「ママのおる場所は?」


「ママは、どこにでもいました」


結は、笑った。


「知っとる」


納戸の奥から、木の箱が出てきた。


手のひらより少し大きい、引き出しのついた箱だった。


表に、墨の字で、屋号が書いてあった。


置き薬の箱だった。


祖父の代から、この家が、北陸じゅうの家に置いて回っていた箱。


引き出しを開けると、中は空だった。


薬は、とっくに捨てられていた。


箱だけが、残っていた。


「これ、なに?」


結が訊いた。


「薬の箱です。先に置いて、後で払ってもらう」


「後で?」


「使った分だけ。次に来たときに」


結は、箱をひっくり返して、底を見ていた。


「信用の商売やね」


言葉が、止まった。


二十六年前、モスクワで、イリヤが同じことを言った。


先に置いて、後で払う。信用の商売です。とても面白い。


結は、その話を、ノートで読んでいたのかもしれなかった。


あるいは、自分で、そう思ったのかもしれなかった。


どちらでも、よかった。


箱を、一つだけ、持って帰ることにした。


ほかの家財は、業者が片づける。


家は、取り壊すことになっていた。


土地は、国に引き取ってもらう手続きを、兄の息子が進めていた。使い道がなければ、そのまま草地になる。


この町だけで、同じような家が、百軒以上あると、町役場の若い職員が言った。


「毎年、増えます」


職員は、申し訳なさそうに言った。


「誰も、悪くないんですけど」


二


墓は、山の斜面の、同じ場所にあった。


墓石の横に、名前が並んでいた。


祖父、祖母、曾祖父。父。母。


兄。


二年前に、兄の名前が加わった。


兄の妻の名前は、まだ、赤い字で彫られていた。


生きている者の名前は、赤で彫る。


死んだら、赤を落とす。


その赤が落ちたあと、この墓に、次の名前が入ることはない。


兄の息子が、電話で、そう言っていた。


墓じまいを、したい。


先祖の骨は、寺の合同の墓に移す。


大阪から、年に一度、富山まで墓参りに来ることは、できない。


寺の住職は、七十を過ぎた人だった。


本堂の脇の、狭い座敷で、茶を出してくれた。


「このあたりでは、もう珍しくありません」


住職は、静かに言った。


「去年は、うちの檀家だけで、十一軒が墓じまいをしました。今年も、同じくらいでしょう」


「家を継ぐ人が、いなくなった」


「継ぐ家が、なくなった、と言うべきかもしれません」


住職は、湯呑みを両手で包んだ。


「長男は、東京に出て、東京で家を作る。東京の家には、仏壇を置く場所がない。墓を守る人間が、いない」


住職は、少し笑った。


「誰も、悪くないんです」


町役場の職員と、同じことを言った。


山を下りながら、晴美が訊いた。


「私らは、どうする?」


十六年前、母の骨を納めた日に、晴美が同じことを訊いた。


私らは、どこに入ると?


一緒に、決めませんか。


二人で。


あれから、何度か、話していた。


結論は、出ていなかった。


「木の下が、いいです」


晴美が、足を止めた。


「木?」


「東京の、郊外に、墓石を立てずに、木の下に骨を埋める墓地があります。名前を書いた小さな札が、木の根元に並ぶだけの」


晴美は、しばらく黙っていた。


「イリヤさんの、窓の木みたいな」


「はい」


晴美は、うなずいた。


「よかね。それ」


それから、結のほうを振り返った。


「結は、どう思う?」


結は、少し考えてから、言った。


「会議に入れてくれるって、言いよったもんね。十歳のとき」


「言いました」


「賛成。一票」


晴美が、笑った。


「全会一致やね」


三


結の仕事は、人口の数字を、AIに読ませることだった。


国じゅうの、町ごとの、出生と死亡と、転入と転出。


それを、何十年分も並べて、この先の町の形を予測する。


結の研究所では、予測のモデルのほとんどを、AIが作っていた。


人間の仕事は、モデルが何を見落としているかを、探すことだった。


「パパのノートね、全部、読み込ませたと」


富山から戻る新幹線の中で、結が言った。


「三十冊を」


「三十四冊。二〇二五年から、また四冊増えとったけん」


結は、手元の端末に、何かを表示させた。


画面の上に、年表のようなものが出ていた。


一九九三年から、二〇三五年まで。


赤い点と、青い点が、散らばっていた。


「パパが、赤と青の鉛筆で印つけとったやろ。あの人の考えと重なるところと、ずれるところ」


「はい」


「あれ、AIにも、同じことやらせてみたと。パパのノートの一行ずつに、あの人のモデルで予測したら、どうなるか」


「どうなりましたか」


結は、画面を指でなぞった。


「赤は、だいたい、AIも赤。モデルで説明できる」


「青は」


結は、少し笑った。


「青は、AIが、全部、外れ値って言うと」


「外れ値」


「平均から、遠すぎて、数えられんって」


結は、画面を消した。


「でもね。研究所の、うちのボスが、そのデータ見て、言いよった。この外れ値を集めたデータセットは、めったにないって」


「どうしてですか」


「普通の統計は、平均を取るために、外れ値を捨てるけん。パパのノートは、外れ値だけを、三十年、拾い続けとる」


結は、窓の外を見た。


「ダニーおじさんのお姉さん。クレアさん。イリヤさんのお母さん。ママの、隠居屋のおばあちゃん。アントンさん。嶋田さん」


結は、指を折りながら、名前を言っていった。


イリヤの指が、草原を走る車の中で、七本、折れていったのと、同じように。


「全部、名前がついとる外れ値」


「ソーニャさんと、共同研究することになったと」


結が、付け加えた。


「アルマトイの大学で、数学やっとる。中央アジアの人口の、これからの予測。向こうのデータと、うちのモデル」


「ソーニャと」


「覚えとらんけどね。四歳のとき、モスクワで、一緒に遊んだって、ママが言うけん」


結は、少し照れたように笑った。


「画面で初めて話したとき、向こうも、覚えとらんって言いよった。でも、カーテンの向こうで笑っとったのは、覚えとるって」


四


十一月。


渋谷の会社に、一日だけ、顔を出した。


六十七歳になっていた。


二年前に、シニア・アーキテクトの職を、若い技術者に譲った。


今は、月に一度、相談役として、呼ばれて行くだけだった。


久住は、会社の社長になっていた。


「沢渡さん。見てほしいものがあります」


久住が、画面を一つ、見せた。


会社のシステムの、今の全体図だった。


取引所の心臓部も、その周りの仕組みも、お客さんの口座も、通貨の保管も。


そのほとんどを、AIが書き、AIが動かし、AIが直していた。


人間の技術者は、十年前の三分の一になっていた。


「AIが書いたコードを、別のAIが確かめて、さらに別のAIが、その確かめ方を確かめています」


久住は、画面の端の、小さな文書を開いた。


AIの運用の決まりをまとめた、何百ページもある文書だった。


その、最初のページ。


四行だけが、書いてあった。


一。実行する者と、確認する者を、同じにしない。


二。確かめたことが本当でも、全部とは限らない。


三。まず、書く。


四。何も起きなかったことも、書く。


十二年前、三鷹の居間のテーブルで、方眼のノートに鉛筆で書いた四行だった。


「この四行だけは、誰も書き換えていません」


久住が言った。


「AIにも、書き換えさせていません。何度か、もっといい書き方がある、と提案してきましたけど」


「どんな書き方ですか」


久住は、少し笑った。


「長くて、正確で、読みにくい書き方です」


帰る前に、会社の監視の画面を、一つだけ見せてもらった。


取引所と、外の世界との、接続の一覧だった。


国内の取引所。海外の取引所。銀行。決済の網。


何十本もの線が、並んでいた。


その一本一本の横で、小さな数字が、三十秒ごとに一つ、増えていた。


生存確認の、電文の数だった。


「まだ、三十秒なんですね」


久住が、うなずいた。


「規格は、何度も新しくなりました。でも、生きてるかどうかの確認だけは、昔のままです。誰も、変える理由がないので」


「心臓は、速くならないので」


久住は、不思議そうな顔をした。


二十年前、日本橋の会社で、真木がしたのと、同じ顔だった。


帰りの電車の中で、端末に、一行が届いた。


アントンからだった。


年に一度の、新年の挨拶の季節には、まだ早かった。


Still writing everything down about Shanghai, Mumbai, Dubai etc.


写真が、一枚ついていた。


見知らぬ監視の画面だった。


接続の一覧が、並んでいた。


メッセージの都市の名前は、読めた。


画面の上の、線の行き先の名前は、読めなかった。


ロシア語と、中国語と、見たことのない文字が、混ざっていた。


西へではなく、東へ、南へ、伸びている線だった。


管は、向きを変えていた。


その一本一本の横で、小さな数字が、三十秒ごとに、一つずつ、増えているのだろう。


その夜、ノートを開いた。


三十四冊目の、最後のほうのページだった。


家は、終わった。誰も、悪くない。


箱は、一つ、持って帰った。


四行は、まだ、書き換えられていない。


管は、向きを変えた。心臓は、同じ速さで打っている。

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