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鼓動(ハートビート)  作者: RSakamoto


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終章 二〇二三〜二〇二五

一


二〇二三年、春。


渋谷の会社で、コードを書くのが、人間だけではなくなった。


画面の横の小さな窓に、やりたいことを日本語で書く。


数秒で、コードが返ってくる。


最初は、短い関数だった。


夏には、ひとまとまりの機能になった。


秋には、試験のコードまで、一緒に書いて返してくるようになった。


若い技術者たちは、夢中になった。


一週間かかっていた仕事が、一日で終わった。


久住が、ある朝、全員を集めて言った。


「使い方の、決まりを作ります。沢渡さんに、手順書をお願いしたい」


「どうして、私に」


会議のあと、久住に訊いた。


久住は、少し考えてから、言った。


「沢渡さんは、この会社で一番、手で書く人なので」


机の上の、方眼のノートを指さした。


「AIに一番遠い人に、AIの決まりを作ってほしい」


最初の一か月は、何も書かなかった。


若い技術者たちが、AIとどう仕事をしているかを、横に座って見ていた。


一九九二年の春、窓のない部屋で、野々村の横に座って画面を見ていたのと、同じように。


AIが書くコードは、よくできていた。


読みやすく、きれいに整っていて、たいていは、一度で動いた。


イリヤの、紙のノートから打ち込んだコードのように。


ただ、イリヤは、紙に書いてから打ち込んだ。


消せるものは、信用できないので。


AIのコードは、消せた。


何度でも、一瞬で、書き直せた。


十月の終わりに、小さな障害が起きた。


お客さんの出金の上限を、一日ごとに区切って数える処理だった。


若い技術者が、AIに書かせたものだった。


AIは、処理と一緒に、その試験も書いていた。


試験は、全部通っていた。


本番に出して、三日目の朝、お客さんから問い合わせが来た。


夜の九時に出金しようとしたら、まだ上限に達していないはずなのに、止められた。


調べると、処理は、一日の区切りを、日本時間の零時ではなく、世界標準時の零時で数えていた。


日本時間の、朝の九時。


そこで、日付が変わっていた。


試験も、同じ区切りで書かれていた。


同じ前提で書かれた処理を、同じ前提で書かれた試験が、確かめていた。


だから、全部、通った。


若い技術者は、青い顔をしていた。


「AIに、試験も書かせたんです。全部通ったので、大丈夫だと思って」


アントンの顔を、思い出した。


確認しました。確認済みって、書いた。


「書いたことは、本当です」


若い技術者は、顔を上げた。


「試験は、確かに、全部通っていた。ただ、全部ではなかった」


「全部では」


「処理を書いた者と、試験を書いた者が、同じでした」


少し考えて、付け加えた。


「実行する者と確認する者が同じだと、誰も気がつかない」


若い技術者は、しばらく黙っていた。


「誰の言葉ですか」


「二十八年前に、ロンドンから来た上司が、潰れた銀行の話をしたときに。私が、ノートに書いた一行です」


その週末、手順書を書いた。


三鷹の家の、居間のテーブルで。


最初は、画面に書こうとした。


うまく書けなかった。


方眼のノートを開いて、鉛筆で書いた。


一。実行する者と、確認する者を、同じにしない。


AIが書いたコードを、同じAIに確かめさせない。確かめるのは、別のAIか、人間。できれば、両方。


二。確かめたことが本当でも、全部とは限らない。


何を確かめなかったかを、書く。


三。まず、書く。


AIに何を頼み、何が返ってきて、それをどう使ったか。全部、記録に残す。なぜかは、後で考える。


四。何も起きなかったことも、書く。


四つ目を書いてから、しばらく鉛筆を置いていた。


ロンドンの大晦日の夜。


ダニーの声。


何も起きなかったことも、書くのか。


起きなかったことも、起きたことなので。


アントンのノートの、最後の一行。


Nothing else happened.


翌週、久住に、ノートのページを写して見せた。


久住は、四つの項目を、指で押さえながら読んだ。


嶋田が、置き換えの計画を読んだのと、同じ読み方だった。


「短いですね」


「短いです」


「もっと、細かい決まりも、要りますよね」


「要ります。それは、若い人たちに書いてもらいます。AIに下書きさせてもいいです」


久住は、少し笑った。


「で、その下書きは、別の誰かが確かめる」


「はい」


久住は、ノートのページを、しばらく見ていた。


「この四つは、AIとは関係ない気がします」


「はい」


「人間同士でも、同じですね」


「はい。三十年、同じことを書いてきただけです」


二


二〇二四年、一月一日。


午後四時過ぎ、三鷹の家が、ゆっくり揺れた。


長い揺れだった。


晴美が、台所の棚の皿を、両手で押さえていた。


イリヤの母親のことを、思い出した。


実験の日には、窓のガラスが鳴った。母は、棚の皿を押さえていました。


揺れが収まって、テレビをつけた。


画面の上に、日本地図が映っていた。


北陸の海岸線が、赤と黄色の線で縁取られていた。


津波の警報だった。


アナウンサーの声が、いつもより、ずっと速かった。


にげて、と、画面が言っていた。


能登。


それから何日も、テレビは、同じ半島を映し続けた。


崩れた家。燃えた町並み。


黒い瓦の、奥行きの長い家が、何軒も、潰れていた。


どの家も、同じ形をしていた。


十九年前、ロンドンのカフェで、クレアが話していた家の形だった。


祖父母と、長男夫婦と、その子どもが三人。


最初は、何人住んでいるのかわからなかった。


一月の五日、夜。


知らない宛先からのメールが、届いていた。


件名は、英語だった。


Noto


クレアだった。


十七年ぶりだった。


Osamu,


I don't know if this address still works. I found it in an old notebook.


I've been watching the news for five days. The town where I taught is on it every night. I can't find out anything. I don't know who to ask.


The house across from my flat. The grandmother who gave me vegetables. Her daughter-in-law, who never sat down.


Are they all right? You're the only person I know who might understand why I'm asking.


Claire


長いあいだ、画面を見ていた。


晴美が、後ろに立っていた。


クレアのことは、結婚する前に、話してあった。


名前も。能登のことも。別れた理由も。


晴美は、画面の英語を、ゆっくり読んだ。


晴美の英語は、ロンドンの十年で、クレアの日本語より、ずっと上手になっていた。


「返事、書くと?」


「何を書けばいいのか、わかりません」


晴美は、少し考えていた。


「わからんって、書いたらよか」


「はい」


「それから、あんたが、あの人から何ば教わったかも」


驚いて、振り返った。


晴美は、こちらの顔を見ていた。


「あんたが、お義母さんのお葬式で、お義姉さんと皿拭きよったの、見とったよ」


「はい」


「あれ、誰に教わったと?」


言葉が、出なかった。


晴美は、少しだけ笑った。


「ちゃんと、書いてあげ」


返事を書くのに、三日かかった。


何度も書いて、何度も消した。


消せるものは、信用できないので。


最後は、方眼のノートに、鉛筆で書いてから、打ち込んだ。


Claire,


I'm OK. Are you?


I don't know about the family across from your flat. I don't know how to find out. I'm sorry.


I want to tell you something I should have told you seventeen years ago.


You were right. The lightness I was so proud of was standing on other people's shoulders. The women in the kitchen. I didn't see them because I was always sitting in the other room.


When my mother died, five years ago, my wife stood in the kitchen, and then she came and sat next to me, and then she went back. She decided each time. I went into the kitchen at night and dried dishes with my brother's wife. She told me she had chosen to stay in the kitchen all her life. I had never asked her.


I learned to ask from you.


If I find out anything about the town, I'll write.


Osamu


送信を押した。


送信に、三分もかからなかった。


十九年前、ロンドンの、あの七月の朝のメッセージのことを思い出した。


I'm OK. Are you?


あのとき、先に書いたのは、クレアだった。


今度は、自分が先に書いた。


二週間後、クレアから、返事が来た。


短かった。


Thank you. And thank your wife.


もう一段落、続いていた。


One of my old students found me online. She's in her forties now. She says the family is alive. The house is gone. The grandmother died years ago. The daughter-in-law is in her seventies now. She's in an evacuation centre.


My student sent me a photo. She's standing at the big pot, making soup for everyone.


She's still standing. I don't know whether to laugh or cry.


晴美に、見せた。


晴美は、長いあいだ、画面を見ていた。


それから、言った。


「その人も、自分で決めて、立っとるとよ。たぶん」


「はい」


「そうじゃなかったかもしれんけど」


晴美は、画面から目を離した。


「それは、うちらが決めることやないけんね」


その夜、ノートに書いた。


十七年前、ロンドンで、表にクレアの行を打ちかけて、消した。


人は、表の行には入らない。


少し考えて、書き足した。


入らない人から、一番多くを教わった。


三


二〇二四年、十二月。


土曜日の午後、吉祥寺の書店に寄った。


結の参考書を買うついでだった。


新刊の棚の前を、通り過ぎようとした。


一冊の本の表紙が、目に入った。


フランス語から訳された、厚い新刊だった。


足が、止まった。


理由は、わからなかった。


手に取った。


裏返した。


著者の写真が、小さく載っていた。


白髪の、年配の男だった。


眼鏡を、かけていた。


名前を読む前に、それだけが目に入った。


眼鏡をかけてたと思う。


フランス人の学者は、大抵眼鏡をかけてる。


アークヒルズの地下の蕎麦屋。


伸びた蕎麦。


割り箸を二回割り損ねたジュリアン。


自分の眼鏡を、中指で押し上げた手。


三十一年前だった。


名前を、読もうとして、やめた。


代わりに、本を開いた。


ページを、ぱらぱらとめくった。


真ん中あたりに、地図が一枚あった。


ヨーロッパの地図だった。


国境ではない線で、塗り分けられていた。


書斎の棚の、色の褪せた薄い本の表紙と、同じ塗り分けだった。


棚の前で、動けなくなった。


チャリング・クロス・ロードの、地下の古本屋。


一ポンド五十ペンス。


表紙の著者の名前は、読まなかった。


読んだのかもしれないが、覚えていない。


リバプール・ストリート駅の、書店の平台。


フランス人が書いた、アメリカについての本。


電車の時間が迫っていた。


手に取らなかった。


蕎麦屋で、名前を忘れたと言われた学者。


名前を読まずに買った、薄い本。


手に取らずに通り過ぎた、平台の本。


同じ人かもしれない、と思った。


確かめれば、すぐにわかることだった。


表紙を一枚めくれば、書いてある。


確かめれば、説明がついてしまう気がした。


三十一年分の、全部に。


名前は、読まなかった。


地図だけで、十分だった。


本を、買った。


家に帰っても、すぐには開かなかった。


先に、ノートを開いた。


最初の一冊から。


一九九三年の手帳から、毎年書き写してきたノートは、三十冊を超えていた。


書斎の棚から、全部出して、居間のテーブルに積んだ。


晴美が、驚いた顔をした。


「どうしたと」


「読み返します」


「全部?」


「全部」


晴美は、何も訊かずに、紅茶を淹れてくれた。


砂糖を、三つ入れて。


イリヤの話を、覚えていたのだった。


三日かかった。


赤い鉛筆と、青い鉛筆を、手元に置いた。


自分が書いてきたことのうち、あの人の考えと、重なるところに、赤。


ずれるところに、青。


数字を出さなくなった国。


赤。


人は、自分の育った家の形しか、作れないのかもしれない。


赤。


ここでは、全員が次男。


赤。


ここでは、全員が、家に残る。そして、一番上に、母がいる。


赤と、青。


父の家のはずが、母がいた。


日本も、一色ではない。自分の家の色で、国を塗っていた。


青。


数字が、変わっている。自分のモデルが、古くなっている。


青。


平均の中で、薄められた町。


赤。


三日目の夜、全部のノートに、印をつけ終わった。


赤は、思ったより多かった。


三十年前、名前も知らない人の考えを、自分は、ずっと、なぞってきたのかもしれない。


青は、赤より少なかった。


でも、青のほうが、目についた。


青をつけた行を、一つずつ、読み返した。


どの行にも、顔があった。


実家の二軒隣に住んで、毎日、親の様子を見に行っていた、ダニーの姉。


表の行に入らなかった、クレア。


父のいない家で、テーブルの一番上に座っていた、イリヤの母親。


隠居屋の話をして、そげなの、家によるったい、と笑った、晴美。


九〇年代を覚えていないと言った、アントン。


止めないことを選んだ、嶋田。


どの顔も、地図の色に、きれいには塗れなかった。


それから、本を読んだ。


一週間かけて。


赤い鉛筆で、線を引きながら。


頷くところが、あった。


自分がこの三十年、ノートに書いてきた行と、同じ形の文が、何度も出てきた。


頷けないところも、あった。


結論のいくつかは、自分には、確かめようがなかった。


どちらが正しいのかは、わからなかった。


自分が見てきたのは、そういうものではなかった。


割れたテーブルと。


薄められた町と。


統計に載らない町と。


一日一行と。


最後のページを読み終えて、本を閉じた。


ノートの、新しいページを開いた。


長いあいだ、何も書けなかった。


それから、一行だけ、書いた。


結論は、借りない。


少し考えて、書き足した。


問いだけ、もらった。三十一年前に。蕎麦屋で。


その夜、ジュリアンのことを、少しだけ調べた。


苗字を、覚えていなかった。


ジュリアン、という名前だけだった。


パリの本社に帰った、債券のクオンツ。


眼鏡の。


それだけでは、何も見つからなかった。


ジュリアンは、今、どこにいるのだろう。


あの話をしたことを、覚えているだろうか。


たぶん、覚えていない。


覚えていないほうが、いいような気もした。


三十一年前、送別会の夜に、そう思ったのと、同じように。


四


二〇二五年、春。


アルマトイのイリヤから、写真が一枚、届いた。


雪の残る、山だった。


その手前に、新しい集合住宅が並んでいた。


窓の半分に、灯りがついていた。


写真の下に、一行。


生きています。ソーニャが、こちらの大学院に入りました。数学です。


もう一行。


あの町には、まだ行っていません。でも、今年の秋には、行こうと思います。窓の木は、きっと、もう大きい。


返した。


生きています。三人とも。


少し考えて、書き足した。


秋に、写真を送ってください。木の。


リーズのダニーからも、一行が届いた。


Still alive. Still counting. Still voting the wrong way, according to my old mates.


モスクワのアントンからは、年に一度、新年の短い挨拶が来た。


С Новым годом. Everything is written down.


全部、書いてあります。


四月。


結が、高校に入った。


十五歳だった。


ある晩、居間のテーブルで、結が、棚から出しっぱなしになっていたノートの一冊を、手に取っていた。


一番古い、一九九〇年代の手帳だった。


表紙が、擦り切れていた。


結は、最初のページを開いて、声に出して読んだ。


「数字を、出さなくなった国」


それから、顔を上げた。


「これ、なに?」


「ノートです」


「見ればわかる」


二十一年前、ロンドンのアパートで、クレアに、同じことを言われた。


見ればわかる。


「パパが、ずっと書いてきた」


「ずっとって、いつから」


「一九九三年から」


結は、目を丸くした。


「三十年以上?」


「三十二年」


「なんで」


少し、考えた。


一九九三年の、丸ノ内線の中を、思い出した。


理由は、わからない。


書いておかないと、気持ちが悪かった。


「最初は、理由がありませんでした」


「今は?」


「今は」


言葉を、探した。


「話すと、長いです」


結は、ノートを両手で持ったまま、椅子に座り直した。


晴美に、よく似た目をしていた。


「長くてよか」


晴美が、台所から顔を出した。


「なんの話?」


「パパのノートの話。三十二年分」


晴美は、少し笑った。


それから、紅茶を三人分、淹れ始めた。


砂糖を、一つずつ。


一つだけ、三つ。


話し始めた。


アークヒルズの地下の、蕎麦屋から。


フランス人の同僚の、割り箸と、伸びた蕎麦。


赤ん坊の、統計。


数字を出さなくなった国。


結は、途中で、何度も質問をした。


なんでそれが気になったと?


その人は、今どこにおると?


ロシアのおばあちゃんって、どんな人やったと?


一つずつ、答えた。


答えられないものは、わからない、と言った。


結は、わからない、と言われるたびに、少し不満そうな顔をした。


それから、また次の質問をした。


十二時を過ぎたころ、晴美が言った。


「続きは、明日にしんしゃい。結、明日、学校」


結は、まだノートを抱えていた。


「このノート、借りていい?」


「いいです」


「全部?」


「全部」


結は、ノートを胸に抱えて、自分の部屋に入っていった。


扉が閉まる前に、振り返った。


「パパ」


「はい」


「ノートの最初の人、フランス人なんやろ。名前、知っとる?」


「ジュリアン」


「苗字は?」


少し考えた。


「忘れた」


結は、目を丸くした。


「なんそれ。三十年以上、ノート書いとって?」


「眼鏡を、かけていたと思う」


「それだけ?」


「それだけ」


結は、不満そうな顔をした。


それから、少し笑った。


「変な人やね」


扉が、閉まった。


居間の天井を、しばらく見ていた。


忘れた。


眼鏡をかけてたと思う。


三十二年前、蕎麦屋のカウンターで、ジュリアンは、そう言って肩をすくめた。


名前を忘れられた学者の話を、名前を忘れられた男から聞いた。


その男の名前を、今度は、自分が半分忘れている。


それでも、話は、渡っていった。


名前がなくても、渡るものがある。


居間に、晴美と二人で残った。


晴美が、自分の紅茶を、ゆっくり飲んでいた。


「あの子、たぶん、全部読むよ」


「はい」


「あんたに似とる。変な人になるよ」


「はい」


晴美は、笑った。


それから、窓の外を見た。


中央線の最終電車が、通っていった。


「生きとる?」


晴美が、訊いた。


十六年前、福岡空港の出発口で、毎日一行、と言ったときの声だった。


「生きてる」


晴美は、うなずいた。


「うちも」


その夜、書斎で、一冊だけ残ったノートを開いた。


一番新しいノートだった。


最初のページに、三十二年分の書き写しがあった。


数字を出さなくなった国。


遠くなる。


一日一行、送る。


その下に、書いた。


渡した。


終章 了

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