第四部 東京 二〇一五〜二〇二二
一
二〇一五年、四月。
三鷹の、古いマンションの三階に住むことになった。
晴美が、前の年に見つけておいた部屋だった。駅から歩いて十二分。南向きのベランダから、隣の小学校の校庭が見えた。
結は、来年、その小学校に入る。この春からは、近くの保育園に通うことになった。
保育園の初日の朝、結は、新しい黄色い帽子をかぶったまま、玄関で振り返った。
「パパ、今日は、どこにも行かんと?」
「行かない」
「明日も?」
「明日も」
結は、疑わしそうな顔をした。
それから、晴美の手を引いて、出ていった。
アメリカの会社は、三月で辞めた。
二十三年勤めた。
最後の日、東京の支店に、知っている顔はほとんど残っていなかった。
システム部の奥の、窓のない部屋は、もうなかった。フロアごと、別のビルに移っていた。
人事の女性が、名札を回収した。
一九九二年の、目を閉じた写真の名札ではなかった。何度も作り替えられた、最後の一枚だった。
「お疲れさまでした」
「お疲れさまでした」
箱は、一つもなかった。
持って帰るものが、何もなかった。
五月から、日本橋の小さな会社で働き始めた。
契約社員として。
外資の銀行で相場を張っていた三人が、十年前に作った会社だった。自分たちの金で、株と先物を、ものすごい速さで売り買いする。
社員は、四十人に満たなかった。平均年齢は、三十を少し超えるくらいだった。
面接をした創業者の一人が、履歴書を見ながら言った。
「ロンドンと、モスクワの取引所接続を、一から作った」
「はい」
「うちでは、それを、もっと速くしてほしい」
「どのくらい」
創業者は、少し考えて、言った。
「速ければ速いほど」
二
仕事の単位が、変わった。
東京では、秒だった。
ロンドンでは、ミリ秒だった。
ここでは、マイクロ秒だった。百万分の一秒。
取引所から相場が届いてから、こちらの注文が取引所に着くまで。
その往復を、どこまで縮められるか。
会社のサーバーは、取引所のすぐ隣に置いてあった。取引所のデータセンターの中の、金を払って借りる、棚一つ分の場所だった。
隣の棚にも、その隣の棚にも、同じような会社のサーバーが並んでいた。
「ケーブルの長さは、どの棚も同じにしてあるんです」
案内してくれたのは、真木という若い技術者だった。二十八歳。大学院で、半導体の回路を研究していた。
「近い棚だけ速いと、不公平なので。取引所が、全員のケーブルを、わざと同じ長さに巻いてあるんです」
床下に、ケーブルが、何重にも巻かれて束ねられていた。
近い者も、遠い者も、同じ長さの道を通る。
「公平ですね」
「公平です。だから、ケーブルの外で勝負するしかない」
真木の仕事は、発注の処理を、ソフトウェアから電子回路そのものに落とし込むことだった。
普通のプログラムは、コンピューターの頭脳が、一行ずつ読んで動かす。
真木は、それを、専用の回路の配線そのものにしてしまう。
読む必要がない。電気が通れば、答えが出る。
「プログラムは、考える。回路は、考えない。だから速い」
真木は、少し得意そうに言った。
最初の一か月、真木の横に座って、画面を見ていた。
回路の設計図は、読めなかった。
読めたのは、取引所との接続の電文だった。
取引所の独自の、数字の詰まった短い電文。項目の名前はなく、何バイト目から何バイト目までが何、という決まりだけがある。
その流れの中に、見覚えのある形があった。
中身のない電文。
決まった間隔で、送られてくる。
「これは」
「生存確認です。取引所から、何秒かおきに来ます」
「秒ですか」
「秒です」
真木は、少し笑った。
「僕らは、マイクロ秒を削ってるのに、生きてるかどうかの確認は、何秒かに一回なんです。変ですよね」
変ではない、と思った。
「心臓は、速くならないので」
真木は、きょとんとした顔をした。
仕事は、面白かった。
面白いと思っていいのか、少し迷うくらいに。
取引所との接続の、自分たちの側を、一から書き直した。
余計な処理を削った。電文の組み立て方を変えた。回路と、プログラムの受け渡しの部分を、何度も作り直した。
往復の時間が、少しずつ縮んでいった。
十マイクロ秒。
八。
六。
創業者たちは、数字を見て、満足そうだった。
それで、売り買いの勝率が、少しだけ上がった。
少しだけ上がった勝率が、一日に何十万回と繰り返されて、利益になった。
ある晩、帰りの中央線で、ダニーの父親のことを思い出した。
鉄を作っていた人。
工場が閉まって、十年、家でテレビを見ていた人。
記憶が抜け落ちても、製鉄所の話だけは覚えていた人。
親父は鉄を作ってた。俺は、何も作ってない。
今の自分の仕事は、百万分の一秒を、六つ削ることだった。
何も作っていない。
誰かより早く、誰かの前に並ぶだけ。
ノートに書いた。
何も作らない仕事が、ここまで速くなった。
少し考えて、書き足した。
速くなっても、何も作らないことは、変わらない。
三
二〇一六年、六月二十四日。
朝、ロンドンから、ダニーのメッセージが届いていた。
Leave won. I voted Leave. Call me when you can.
イギリスが、ヨーロッパから離れることを、国民投票で決めた日だった。
その夜、画面でダニーと話した。
ダニーは、ロンドンにいなかった。三年前から、リーズに住んでいた。父親が施設で死んだあと、母親の近くにいたいと言って、北へ戻ったのだった。会社の仕事は、ほとんど家からやっていた。
画面の向こうのダニーは、髪が薄くなっていた。
後ろに、本棚と、窓と、雨が見えた。
「驚いたか」
「少し」
「ロンドンの連中は、みんな驚いてる。俺の元の同僚は、全員、残留に入れた」
「ダニーは、どうして」
ダニーは、しばらく黙っていた。
「理由は、いろいろある。全部は、うまく言えない」
「うまく言わなくていいです」
ダニーは、少し笑った。
「お前は、いつもそう言う」
ダニーは、シェフィールドの話をした。
製鉄所の跡地が、何に変わったか。スーパーと、駐車場と、倉庫。
同級生の半分が、町を出ていった。残った半分の何人かが、四十代で死んだ。
父親が、施設で最後まで話していた、工場の話。
「ロンドンの数字では、この国は豊かになってる。平均では」
「はい」
「でも、その平均に、シェフィールドは入ってない。入ってても、薄められて、見えない」
ダニーは、画面のこちらを見た。
「お前の、あのロシアの友達の町と、同じだよ。統計に載ってない町」
言葉が、出なかった。
イリヤの町の話を、ダニーにしたのは、何年も前の一度だけだった。
覚えていたのだと思った。
「離れたら、良くなるって、本気で思ってるわけじゃない」
ダニーは、窓の外の雨を見た。
「たぶん、もっと悪くなる。俺の仕事にも響く。わかってる」
「では」
「でも、誰かに、数えてほしかったんだ。俺たちの町を」
画面を閉じたあと、長いあいだ、ノートを開けずにいた。
ダニーの一票が、正しかったのか、間違っていたのか。
それは、自分が決めることではなかった。
ロンドンの同僚たちが、残留に入れた理由も、たぶん、同じくらい本当だった。
どちらの理由も、全部では、なかった。
ノートを開いて、ダニーの言葉だけを、書いた。
誰かに、数えてほしかった。
それから、ずっと前のページをめくった。
二十三年前の一行。
数字を出さなくなった国。
七年前の一行。
数字の中に、最初からいなかった町。
その下に、書き足した。
平均の中で、薄められた町。
晴美は、その年から、新大久保の日本語学校で教えていた。
生徒の大半は、ベトナムとネパールから来た若者だった。昼間は学校に通い、夜は、コンビニや弁当工場で働いていた。
夕飯のとき、晴美が、生徒の話をした。
「今日、ネパールの子が、国のお母さんに仕送りしよるって。弟が三人おって、一番上の自分が稼がないかんって」
「家を建てる?」
「なんでわかると?」
「ロンドンで、ポーランドの兄弟が、同じことを言っていました」
晴美は、箸を止めた。
「家に帰るために、家を出てきた人たち」
「はい」
晴美は、少し考えてから、言った。
「日本は、あの子たちの、ロンドンなんやね」
結が、横で、茶碗を持ったまま、二人の顔を見比べていた。
「ロンドンって、パパがおったとこ?」
「そう」
「ママも、おった?」
「おったよ。パパと、そこで会うたとよ」
「銀行の、行列で」
結は、それを何度も聞かされていた。
「数えよった人」
「数えよった人」
晴美が、笑った。
四
二〇一八年、一月。
日本橋の会社での契約が、三年目の終わりに近づいていた。
兜町の中堅の証券会社から、声がかかった。
自分の会社の金で相場を張る、自己売買の部門を、新しく立ち上げる。その売買のシステムを、作ってほしい。
声をかけてきたのは、香坂という男だった。四十代の半ば。外資の銀行で、長く日本株のトレーダーをしていた。
兜町の古いビルの、会議室で会った。
窓の外に、東証の建物の屋根が見えた。
「三年前まで、ここは、ただの国内の証券会社でした」
香坂は、コーヒーの紙コップを、両手で持っていた。
「社長が、変わりたいと言っている。お客さんの注文を取り次ぐだけじゃなく、自分たちで、市場の中で稼げる会社に」
「部門の規模は」
「最初は、トレーダーが五人。システムは、あなたと、あと二人」
「速さは、どのくらいを狙いますか」
香坂は、少し笑った。
「日本橋の会社と同じことを訊く」
「同じことを訊かれたので」
「正直に言います。日本橋の会社ほどは、無理です。うちには、ソフトウェアを回路にまで落とし込めるような技術者もいないし、あそこまでの金もない。でも、今の十倍は、速くしたい」
「今は、どのくらいですか」
香坂は、一枚の紙を出した。
測定の結果が、印刷してあった。
取引所から相場が届いてから、注文が取引所に着くまで。
数百マイクロ秒。
日本橋の会社の、百倍近かった。
契約した。
二月から、兜町に通い始めた。
最初の一週間で、なぜ遅いのかは、わかった。
社内のどの注文も、取引所に届く前に、一つの大きなパッケージを通っていた。
外部のベンダーが作った、注文の管理と、取引所への接続と、その後の処理を、全部まとめて引き受ける製品だった。
株も、先物も、オプションも、全部そこを通る。
お客さんの注文も、自己売買の注文も。
十五年前に入れて、それから一度も、中身を入れ替えたことがない、という話だった。
「このパッケージが、全部の注文を、何段階も確かめてるんです」
チームに入った若い技術者の一人、佐伯が説明した。
「発注の上限、銘柄の制限、お客さんごとの枠、法令の確認。それを全部通って、やっと取引所に出る。一つ一つは、ちゃんとした確認なんですけど」
「重ねると、遅くなる」
「重ねると、遅くなる。しかも、中身を僕らは触れない。ベンダーのものなので」
一か月かけて、計画を書いた。
自己売買の注文だけは、パッケージを通さずに、取引所に直接つなぐ。
発注の前の確認は、自分たちで作り直す。必要なものだけを、速い形で。
モスクワで、信用の枠を確かめる仕組みを一から作った。ロンドンでも、東京でも、取引所との接続を何本も作ってきた。
作れる、と思った。
一年あれば。
五
計画を、社内の会議に出した。
会議室の長いテーブルの、向かいの真ん中に、一人の男が座っていた。
嶋田、と名乗った。
システム部の部長だった。五十代の後半。この会社に、三十年以上いる。
白髪をきれいに撫でつけて、紺の背広を、きちんと着ていた。
嶋田は、計画の資料を、最初から最後まで、黙って読んだ。
一ページずつ、指で押さえながら。
読み終わると、資料を閉じて、言った。
「よくできた計画です」
「ありがとうございます」
「沢渡さんは、この会社のシステムが、一日止まったら、何が起きるかご存じですか」
「お客さんの注文が、出せなくなります」
「それだけではありません」
嶋田は、静かに言った。
「お客さんの中には、年金で暮らしている人がいます。退職金を全部、うちに預けている人もいる。その人たちが、売りたいときに売れない。その日に、その人の老後が、少し減る」
「はい」
「私がこの会社に入ったとき、最初の上司に言われました。うちの仕事は、儲けることではない。止めないことと、壊さないことだ、と」
入社した日のことを、思い出した。
窓のない部屋で、野々村が言った。
最初の一年は、とにかく壊さないこと。
ハーパーも、同じことを言った。
Don't break anything.
二十六年前に、自分が教わった言葉だった。
今、それを言っているのは、テーブルの向こうの人間だった。
「十年ほど前に、うちで、誤発注がありました」
嶋田は、続けた。
「お客さんの注文の、桁を一つ、間違えた。確認の仕組みの、一段が、たまたま外されていた。システムの入れ替えの、途中でした」
嶋田は、テーブルの上で、両手を組んだ。
「会社が、潰れかけました。それから、うちは、確認を一段も外さないと決めた。パッケージの中身も、触らないと決めた。触れば、どこかの一段が外れるかもしれないので」
「自己売買の注文だけを、別の道に」
「別の道を作れば、道が二つになります。二つの道を、同じように確かめ続けられますか。十年、二十年」
答えられなかった。
嶋田の言っていることは、筋が通っていた。
ベアリングスの話を、思い出していた。
実行する人間と確認する人間が同じだと、誰も気がつかない。
嶋田は、確認する側に、三十年いた人間だった。
会議は、結論を出さずに終わった。
嶋田は、最後に、こう付け加えた。
「もう一つ、問題があります。沢渡さんの計画は、取引所への入口だけを見ている」
「はい」
「入口のあとに、何があるか、ご覧になりましたか」
その晩から、三週間、パッケージの後ろを調べた。
注文が取引所で約定したあと、その約定の記録が、どこへ流れていくのか。
方眼紙を、机に広げた。
モスクワで、イリヤが紙のノートに接続の図を描いていたのと、同じように。
鉛筆で、線を引いていった。
株は、約定した日から、何営業日か後に、代金と株を実際に受け渡す。
取引所で約定しただけでは、まだ何も動いていない。約定の記録が、清算機関に送られ、相手方との照合があり、受け渡しの予定が立ち、当日に、株と代金が、実際に動く。
現物の株だけなら、まだ単純だった。
この会社には、信用取引があった。お客さんに金や株を貸して、売り買いさせる。貸した分の残高を、毎日、管理する。
貸株があった。持っている株を、他人に貸し出す。
自己売買の注文も、その同じ帳簿の中で、お客さんの取引と一緒に、管理されていた。
先物は、もっと複雑だった。
先物には、夜の取引があった。夕方から、翌朝の早い時間まで。
夜のうちに約定した取引は、暦の上ではその日の夜でも、次の営業日の取引として数える。
取引の日と、暦の日が、ずれている。
先物は、毎日、その日の値段で、損と得を計算し直す。持っている建玉の値段を、毎日、付け直す。損が出れば、その日のうちに、差額を払い込む。
証拠金が、毎日、動く。
清算機関に、毎日、報告する。
オプションには、権利を使うかどうかの判断がある。満期の日には、また別の処理がある。
三週間後、方眼紙は、五枚になった。
線を、数えた。
取引所との接続は、一本だった。
その一本の後ろに、社内の帳簿や、清算機関や、受け渡しの仕組みや、お客さんへの報告書や、当局への届け出に向かう線が、四十本以上、伸びていた。
その四十本の全部が、パッケージの中を通っていた。
パッケージは、入口ではなかった。
家だった。
取引所との接続は、その家の、玄関にすぎなかった。
玄関だけを替えようとすると、廊下の向きが変わる。廊下の向きが変われば、四十の部屋の扉が、全部合わなくなる。
十五年かけて、この家は、この玄関の形に合わせて、増築されてきたのだった。
香坂に、方眼紙を見せた。
香坂は、五枚を並べて、長いあいだ見ていた。
「一年、と言ってましたね」
「言いました」
「今は」
「二年。うまくいって。それも、先物の夜の取引と、信用取引の帳簿を、全部、自分たちで作り直す覚悟があれば」
香坂は、方眼紙の一枚を指で叩いた。
「嶋田さんは、三年、と言ってました」
「嶋田さんのほうが、正しいかもしれません」
香坂は、苦笑した。
「あなた、どっちの味方なんですか」
「どちらでもないです」
少し考えてから、付け加えた。
「嶋田さんは、この家を、三十年守ってきた人です。私は、よそから来て、玄関を替えたいと言っている」
「それで」
「それで、この家の中のことは、嶋田さんのほうが、よく知っている。それだけです」
計画は、保留になった。
パッケージの後ろの四十本の線を、少しずつ整理して、何年かかけて、道を分けられるようにする。それまでは、今のままで行く。
それが、会社の結論だった。
自己売買の部門は、パッケージを通したまま、売り買いを始めた。
最初の三か月は、そこそこ勝った。
市場の動きがゆっくりだった日には、数百マイクロ秒でも、間に合った。
その年の秋、ノートに書いた。
玄関を替えるには、家を建て直すことになる。
少し考えて、書き足した。
家を守る人がいて、家を出ていく人がいる。
二十三年前に書いた一行を、めくり返した。
人は、自分の育った家の形しか、作れないのかもしれない。
会社も、同じだと思った。
嶋田のシステム部は、この会社の本家だった。
三十年、同じ家を守ってきた。長男のように。
香坂の部門は、新しくできた、席の決まっていない次男だった。
自分は、よそから来た、契約の人間だった。
どの席にも、座っていない。
六
二〇一九年、二月。
富山の兄から、電話があった。
「母さんが、入院した」
兄の声は、十三年前と同じように、落ち着いていた。
落ち着かせているのが、わかった。
「肺炎。年やから、長くはないかもしれんって」
「帰る」
「うん。晴美さんと、結ちゃんも、来られるなら」
「来ます」
電話を切ってから、自分が迷わずにそう答えたことに、気づいた。
十三年前、ロンドンで、クレアに「来なくていい」と言った。
今度は、訊かなかった。
晴美が、隣の部屋から出てきた。
「行くよ。三人で」
晴美も、訊かなかった。
母は、三日後に死んだ。
最期の日、病院のベッドで、母は、ほとんど話せなかった。
結が、母の手を握っていた。
九歳の手が、八十を過ぎた手を、両手で包んでいた。
母は、結の顔を見て、何か言った。
声にならなかった。
口の形だけが、動いた。
晴美が、それを読んだ。
「電話、って。電話、かけられんくなるね、って」
通夜も、葬式も、十三年前と同じ形で進んだ。
喪主は兄だった。挨拶も、兄がした。
自分は、兄の隣の、少し後ろに座っていた。
隣に、晴美が座っていた。
その隣に、結が座っていた。
通夜のあと、晴美は、台所に立った。
兄の妻と、近所の女の人たちと並んで、湯呑みを洗って、明日の朝の握り飯の米を研いだ。
一時間ほどして、晴美は手を拭いて、座敷に戻ってきた。
こちらの隣に、座った。
「お義姉さんに、座っとってって言われた」
「座っていていいです」
「うん。でも、また行く」
晴美は、しばらく座っていた。
それから、また台所に戻っていった。
台所と座敷のあいだを、晴美は、自分で決めて、行き来していた。
夜中、台所に行った。
兄の妻が、一人で、流しの前に立っていた。
「修さん。何か要るけ」
「手伝います」
兄の妻は、驚いた顔をした。
十三年前にも、同じ場所で、同じことを訊かれた。
あのときは、座っていろと言われて、座敷に戻った。
「皿を、拭きます」
兄の妻は、しばらく黙っていた。
それから、布巾を一枚、渡してきた。
「ほんなら」
モスクワの、イリヤの台所を思い出した。
では、拭いてください。
二人で、黙って、皿を拭いた。
兄の妻が、ぽつりと言った。
「お母さんね、晴美さんのこと、よう褒めとられたよ。あの人は、どっちにも自分で行く人やって」
「はい」
「私は、こっちにしか、おられんかったけど」
兄の妻は、流しの水を止めた。
「それも、私が決めたことやから」
葬式の翌日、母の骨を、山の斜面の墓に納めた。
墓石の横に、名前が並んでいた。
祖父、祖母、曾祖父。父。
そこに、母の名前が加わる。
いつか、兄の名前が。兄の妻の名前が。
兄の子どもは、二人とも、東京と大阪に出ていた。
どちらも、富山には戻らないと言っていた。
墓の前で、晴美が、小さな声で訊いた。
「あんたの名前は、ここには入らんと?」
「入りません。次男なので」
「ほんなら、私らは、どこに入ると?」
少し、考えた。
十三年前、父の骨を納めたときには、考えなかったことだった。
次男は、自分で墓を作る。
あるいは、作らない。
線の外側にいる、ということは、そういうことだった。
「一緒に、決めませんか」
晴美は、こちらを見た。
「二人で」
「二人で」
晴美は、うなずいた。
それから、結の手を取った。
「結も、大きくなったら、入れちゃろうか。会議に」
結は、何の話かわからずに、うなずいた。
東京に戻った最初の晩。
夕方の六時に、晴美の携帯電話が、鳴らなかった。
十年間、毎日、その時刻に鳴っていた電話だった。
孫は元気か。晴美さんは食べとるか。
台所で夕飯を作っていた晴美が、手を止めて、電話を見た。
結が、テーブルで宿題をしながら、言った。
「おばあちゃんの電話、来んね」
誰も、答えなかった。
六時を、一分過ぎた。
五分過ぎた。
三十秒ごとの一行のことを、思い出していた。
来るか、来ないか。
来ないことだけが、確かに起きていた。
その夜、ノートを開いた。
18:00 着信なし。
それだけ書いて、ペンが止まった。
十三年前、ロンドンの夜中に、兄からの電話で父が倒れたと聞いたときも、一行だけ書いて、止まった。
今度も、同じだった。
少しして、書き足した。
毎日、電話をかける人がいた。
それが、母にできる、ただ一つのことだった。
七
二〇一九年、七月。
日本の株の決済が、約定の三営業日後から、二営業日後に変わった。
兜町の会社でも、その対応に、半年追われていた。
パッケージの後ろの、四十本の線の、ほとんど全部に、手を入れなければならなかった。
ベンダーが来て、嶋田のシステム部が立ち会って、何度も試験をした。
切り替えの週末、嶋田は、会社に泊まり込んだ。
月曜日の朝、最初の約定が、新しい決済日で流れた。
エラーは、一件もなかった。
嶋田が、システム部の部屋の奥で、背広の上着を脱いで、椅子にもたれていた。
一晩、眠っていない顔だった。
「おめでとうございます」
声をかけると、嶋田は、少し驚いた顔をした。
「沢渡さん。何か」
「いえ。見に来ただけです」
嶋田は、しばらくこちらを見ていた。
それから、少しだけ笑った。
「止めずに、済みました」
「はい」
「壊さずにも」
その夜、モスクワのイリヤに、メッセージを送った。
日本の株も、二日後の決済になりました。
時差で、返事は翌朝に来ていた。
六年遅れ。でも、翻訳は正確です。
もう一行、続いていた。
母が、あなたの家族は元気かと訊いています。母は、最近、少し弱りました。日曜日のテーブルは、今は九人です。
返した。
元気です。三人とも。
少し考えて、書き足した。
富山の母が、二月に亡くなりました。毎日、電話をかける人でした。
一日たって、返事が来た。
母に伝えました。母は、泣きました。それから、あなたに伝えなさい、と。電話をかける人は、いい母親だった、と。
秋になると、自己売買の部門の成績が、落ち始めた。
市場の動きが速い日が、増えていた。
速い日には、数百マイクロ秒では、間に合わなかった。
注文が取引所に着くころには、もう、ほかの誰かが、同じ値段で先に並んでいた。
日本橋の会社のような、ソフトウェアを回路にまで落とし込める会社が。
香坂は、毎朝、前日の成績を印刷して、机の上に置いた。
数字は、少しずつ、下がっていった。
方眼紙に描いた、乳児死亡率の線とは違う。
下がってほしくない線だった。
十二月。
香坂が、夜遅く、自分の席に来た。
「来年、嶋田さんに、もう一度、置き換えの話を出します」
「はい」
「今度は、二年でも三年でも、やらせてくれ、と。このままだと、部門がもたない」
香坂は、窓の外の、東証の建物の屋根を見ていた。
灯りが、ほとんど消えていた。
「嶋田さんは、何と言うと思いますか」
少し考えた。
「止めないことと、壊さないこと」
香坂は、苦笑した。
「あなたも、そう思いますか」
「私が最初に教わったのも、その言葉だったので」
香坂は、しばらく黙っていた。
「来年は、いい年になるといいですね」
「はい」
年が明ければ、二〇二〇年だった。
八
二〇二〇年、三月。
テレビの画面の右上に、毎日、数字が出るようになった。
その日の感染者の数。
亡くなった人の数。
東京の数。日本の数。世界の数。
ニュースの時間になると、国じゅうが、その数字を見た。
前の日より多いか、少ないか。
先週の同じ曜日より、多いか、少ないか。
誰もが、グラフの線の傾きを、気にするようになった。
二十七年間、方眼紙に線を描いてきた。
誰にも理由を説明できない趣味だった。
それが、一か月で、国じゅうの日課になった。
数字を、見なくなった。
見ないことにしたのではなかった。
気がつくと、見ていなかった。
テレビの右上の数字は、千人の話だった。
一人の話では、なかった。
その一人が、誰かの母親で、誰かの父親で、毎日、決まった時刻に電話をかけていた人かもしれない。
それを知っていて、線の傾きを見るのが、うまくできなかった。
三月の半ば、市場が崩れた。
世界中の株が、毎日、見たことのない幅で動いた。
速い日だった。
毎日が、速い日だった。
兜町の自己売買の部門は、その月、部門ができてから一番大きな損を出した。
注文が取引所に着くころには、もう値段が変わっていた。
変わった値段で、約定していた。
ほかの誰かが、先に並んで、よい値段を取っていった。
香坂は、毎朝、前日の成績を印刷して、机の上に置いた。
四月からは、机が家の食卓になった。
印刷は、しなくなった。
画面の共有で、数字を見せた。
家の中に、三人がいた。
晴美の日本語学校は、授業を画面越しに切り替えた。ベトナムの生徒も、ネパールの生徒も、狭い寮の二段ベッドの上から、画面に顔を出していた。
結の小学校は、休みになった。
十歳の結は、居間のテーブルで、プリントの宿題をしていた。
一つのテーブルに、三人が座って、それぞれの画面を見ていた。
昼になると、晴美が、三人分の焼きそばを作った。
「パパ、今日も、どこにも行かんと?」
結が訊いた。
五年前の、保育園の初日の朝と、同じ言葉だった。
「行かない」
「明日も?」
「明日も」
結は、今度は、少しうんざりした顔をした。
夜、イリヤから、一行が届いた。
生きています。モスクワは、町が空っぽです。母は、ダーチャに移りました。畑を、信用しているので。
ダニーからも、一行が届いた。
Alive. Mum's fine. Leeds is quiet. Everyone's counting.
みんな、数えている。
ノートに書いた。
国じゅうが、数え始めた。
自分は、数えるのをやめた。
九
二〇二〇年、十月一日。木曜日。
朝の七時過ぎ、香坂から電話があった。
「取引所が、おかしい」
「何が」
「相場が、来ない。気配も、何も」
兜町の会社に、久しぶりに出た。
取引所の建物は、窓の外に、いつもどおり立っていた。
画面の上に、何も来ていなかった。
九時。
取引が、始まらなかった。
九時を過ぎても、全銘柄の値段が、前の日の終わりのまま、動かなかった。
フロアの全員が、黙って、画面を見ていた。
一九九二年、窓のない部屋で、三時十二分から、何も来ない画面を見ていたことを、思い出した。
エラーを吐いているうちは、まだいい。
黙ったものが、いちばん危ない。
昼前に、取引所が発表した。
売買のシステムの中の、記憶装置の一つが壊れた。
壊れたときには、予備の装置に自動で切り替わるはずだった。
切り替わらなかった。
その日は、終日、全銘柄の取引を止める。
世界で三番目か四番目に大きな株式市場が、一日、黙った。
午後、システム部の部屋の前を通った。
嶋田が、部屋の奥で、テレビの記者会見を見ていた。
取引所の役員たちが、並んで頭を下げていた。
嶋田は、背広の上着を着たまま、腕を組んで、じっと画面を見ていた。
こちらに気づいて、少しだけ、会釈をした。
それから、また、画面を見た。
何も言わなかった。
何も言わなくても、わかった。
取引所でさえ、止まる。
予備があっても、切り替わらないことがある。
翌日、取引は、何事もなかったように再開した。
画面の上に、また数字が流れ始めた。
その翌週、香坂が、置き換えの計画を、もう一度、会議に出した。
今度は、三年の計画だった。
嶋田は、前と同じように、最初から最後まで、黙って読んだ。
一ページずつ、指で押さえながら。
読み終わると、資料を閉じた。
「先週、取引所が、一日止まりました」
「はい」
「あれほどの設備と、あれほどの人間を揃えて、それでも、止まりました。切り替えの、たった一つの設定で」
嶋田は、資料の表紙に、手のひらを置いた。
「今は、変える時期ではありません」
十二月の初め、会社は、自己売買の部門を閉じると決めた。
三年だった。
最後の日、兜町のフロアの、部門の一角を片づけた。
トレーダーたちが、机の中のものを、紙袋に入れていた。
箱を抱えている者は、いなかった。
もともと、持ってきたものが少なかった。
香坂は、机の上の、使っていなかった卓上カレンダーを、紙袋に入れた。
「リーマンのときは、箱を抱えて出ていく連中を、テレビで見ていた」
香坂は、紙袋の口を折った。
「今度は、紙袋一つ」
「はい」
「軽いもんですね」
帰り際、嶋田が、エレベーターの前にいた。
偶然ではないようだった。
「沢渡さん」
「はい」
嶋田は、少し間を置いた。
「私は、止めないことを選びました」
「はい」
「その代わりに、あなたたちを、止めました」
嶋田は、頭を下げた。
深くではなかった。
浅くでも、なかった。
言葉を探した。
嶋田のほうが、正しかったのかもしれない。
香坂のほうが、正しかったのかもしれない。
どちらも、本当だった。
どちらも、全部ではなかった。
「どちらも、間違っていなかったと思います」
それしか、言えなかった。
嶋田は、顔を上げた。
少しだけ、笑った。
「沢渡さんは、どちらの味方でもないんですね」
「はい」
「それは、たぶん、楽ではないでしょう」
エレベーターの扉が開いた。
その夜、三鷹の家で、ノートを開いた。
二年前の秋に書いた一行が、あった。
家を守る人がいて、家を出ていく人がいる。
その下に、書き足した。
家は、残った。出ていく人が、出ていった。
少し考えた。
どちらの家族も、間違っていなかった。
十
二〇二一年、四月。
渋谷の、暗号資産の取引所で働き始めた。
システムの全体を設計する、シニア・アーキテクトとして。
面接をしたのは、久住という三十代の技術責任者だった。外資のネット企業から移ってきた男だった。
「沢渡さんの経歴は、全部、国家の通貨の世界ですね」
久住は、履歴書から顔を上げた。
「株と、債券と、先物と、為替と」
「はい」
「うちは、国家のいらない通貨を扱っています」
「知っています」
「どう思いますか」
少し考えた。
「国家がいらないかどうかは、わかりません」
久住は、眉を上げた。
「ただ、取引所は、いります。取引所は、預かる場所なので。預かる場所は、信用がいります」
久住は、しばらく黙っていた。
それから、笑った。
「採用です」
会社は、若かった。
技術者の平均年齢は、三十を少し超えるくらい。日本橋の高速取引の会社と、同じだった。
違うのは、取引の相手だった。
日本橋の会社は、取引所の中で、ほかの会社と速さを競っていた。
ここは、取引所そのものだった。
何万人ものお客さんから、注文と、通貨を、預かっていた。
最初の一か月、システムの全体を見て回った。
注文を突き合わせる仕組みは、単純だった。
売りたい値段と、買いたい値段を並べて、合ったものから約定させる。
どこの取引所でも、ここは単純だった。
一九九二年の東京でも、ロンドンでも、モスクワでも。
複雑なのは、その周りだった。
お客さんの口座。本人の確認。入金と出金。
そして、預かった通貨を、どこに、どう保管するか。
この会社は、預かった通貨の大部分を、ネットワークから切り離した場所に置いていた。
出し入れするには、何人もの人間が、それぞれ別の鍵を持ち寄らなければならない。
一人では、開けられない。
業界では、何年か前に、ネットにつながったまま置いていた通貨を、まとめて盗まれた取引所があった。
それから、国の決まりが、厳しくなった。
久住に、一枚の図を見せた。
方眼紙だった。
「これは」
「この会社の、線です。注文が入ってから、約定して、帳簿に載って、通貨が動いて、報告書になるまで」
線は、三十本ほどだった。
兜町の、四十本より少なかった。
「兜町では、四十本の線が、一つの大きな製品の中を通っていました。入口を替えられなかった。家ごと建て直すことになるので」
久住は、方眼紙を見ていた。
「ここも、同じようになりますか」
「まだ、なっていません。でも、五年たてば、なります。十年たてば、確実に」
「どうすれば」
「玄関と、廊下と、部屋を、別々に建てておくことです。どれかを建て替えても、ほかの扉がずれないように」
久住は、方眼紙を手に取った。
「最初から、建て替えることを前提に、建てる」
「はい」
「家を、守るためじゃなくて、替えるために、建てる」
少し考えた。
「替えても、止めないために、です」
同僚たちが、ときどき訊いた。
「沢渡さんは、何を持ってるんですか」
通貨のことだった。
「何も」
「一枚も?」
「一枚も」
「どうしてですか。ここで働いてるのに」
「預かる側なので」
若い同僚は、不思議そうな顔をした。
それ以上は、説明しなかった。
説明しようとすれば、ずっと前の、富山の置き薬の話から始めなければならなかった。
先に置いて、後で払わせる。
置いた側は、箱の中の薬を、自分では飲まない。
十一
二〇二一年、十一月。
イリヤから、電話があった。
メッセージではなく、電話だった。
画面に、イリヤの名前が出たとき、手が止まった。
イリヤが電話をかけてくるのは、十年前の冬、広場の抗議の夜以来だった。
「母が、死にました」
イリヤの声は、落ち着いていた。
落ち着かせているのが、わかった。
「十月の終わりに、熱が出ました。病院に入って、三週間。昨日の朝でした」
「イリヤさん」
「モスクワは、今、ひどいです。病院は、いっぱいです。母は、ワクチンを、打っていなかった」
イリヤは、少し黙った。
「打つように、何度も言いました。母は、国の言うことは、信用しないと言った。畑は信用するけれど、と」
言葉が、出なかった。
「葬式は、明後日です。来られないのは、わかっています。国境が、まだ」
「はい」
「ソーニャが、画面で、つないでくれると言っています。見ますか」
「見ます」
二日後の、日本時間の夕方。
居間のテーブルに、パソコンを置いた。
晴美と、結が、隣に座った。
結は、十二歳になっていた。
八年前、モスクワのイリヤの家のカーテンの向こうで、ソーニャと笑っていたことを、覚えていないと言った。
画面が、つながった。
モスクワの、郊外の墓地だった。
雪が、薄く積もっていた。
ソーニャの持つ電話の画面が、揺れながら、人々を映した。
ミーシャがいた。
カーチャがいた。
七年前、同じテーブルで、声を荒らげて言い争った二人が、並んで立っていた。
ミーシャの手が、カーチャの肩に置かれていた。
イリヤが、棺の前に立っていた。
痩せた背中が、少し丸くなっていた。
誰かが、ロシア語で、長く話していた。
意味は、わからなかった。
晴美が、画面の前で、手を合わせた。
結も、それを見て、手を合わせた。
葬式のあと、ソーニャが、電話をイリヤに渡した。
イリヤの顔が、画面いっぱいに映った。
目が、赤かった。
「来てくれて、ありがとう」
「いえ」
「ハルミさん。ユイ。ありがとう」
晴美が、画面に向かって、頭を下げた。
イリヤは、少し笑った。
「サワタリさん。覚えていますか。七年前の、日曜日のテーブル」
「はい」
「ミーシャとカーチャが、喧嘩をした。母が、テーブルを叩いた」
「はい」
「このテーブルでは、食べなさい」
イリヤは、少し間を置いた。
「テーブルを叩ける人が、いなくなりました」
画面が切れたあと、長いあいだ、誰も話さなかった。
結が、晴美の袖を引いた。
「あのおばあちゃん、パパのこと、知っとったと?」
晴美は、うなずいた。
「知っとったよ。ママのことも。結のことも」
「結のことも?」
「結は、あのおばあちゃんのうちで、ソーニャちゃんと遊んだとよ。四歳のとき」
「覚えとらん」
「そうやね」
晴美は、結の髪を撫でた。
「でも、あのおばあちゃんは、覚えとったと思う」
その夜、ノートを開いた。
七年前の夏に書いた一行が、あった。
一番上に、テーブルを叩ける人がいる。
その人がいなくなったら、どうなるのだろう。
あのとき、消そうとして、やめた一行だった。
その下に、書いた。
いなくなった。
ミーシャの手が、カーチャの肩にあった。
十二
二〇二二年、二月二十四日。
朝、ニュースで、知った。
ロシアの軍が、ウクライナに入った。
画面の上で、見覚えのある形の集合住宅が、燃えていた。
どこの国の建物なのか、一瞬、わからなかった。
モスクワの郊外の、緑色のペンキの階段の建物と、同じ形をしていた。
同じ国の中で、同じ形に建てられた建物だった。
三十年前までは。
その週のうちに、西側の国々が、制裁を次々に重ねた。
ロシアの大きな銀行が、国際的な送金の網から外された。
中央銀行の、外国にある資産が、凍結された。
モスクワの取引所は、株の取引を止めた。
一か月近く、止まったままだった。
渋谷の会社にも、仕事が来た。
制裁の対象になった個人や団体と、その関係者の口座や、送金先の宛先を、洗い出す。
見つかった口座は、止める。
対象の宛先への送金は、受け付けない。
国の当局から、暗号資産の取引所に、要請が来ていた。
国家のいらない通貨だと、みんな言っていた。
国家は、すぐに来た。
仕組みそのものは、難しくなかった。
送金の依頼が来る。
宛先を見る。
制裁の一覧と、突き合わせる。
当たれば、止める。
止めるときに、画面に表示する一行を、書かなければならなかった。
法務部から、文案が来た。
長かった。
八年前の、モスクワと同じだった。
画面の前で、しばらく考えた。
Address restricted.
宛先は、制限されています。
誰が、なぜ、とは書かない。
書いてあることは、本当だった。
全部では、なかった。
試験の送金を、流した。
画面の上で、送金は、ネットワークに出る前に止まった。
Address restricted.
一行。
八年前、モスクワで、イリヤが後ろから画面を見ていた。
紅茶の匂いがした。
これは、壁ではありません。フィルターです。水は、まだ通る。
でも、フィルターは、目が細かくなっていくものです。
イリヤに、メッセージを送った。
生きていますか。
返事は、来なかった。
翌日も、送った。
生きていますか。
来なかった。
一週間、毎日、送った。
来なかった。
既読の印も、つかなかった。
三十年前、窓のない部屋で、野々村が言った。
エラーを吐いてるうちは、まだいいんだよ。
一番怖いのは、黙るやつ。
十三
二〇二二年、四月。
知らない差出人から、メールが届いた。
件名は、英語で、一行だけだった。
Your connection.
アントンだった。
私用のアドレスから、送ってきていた。
サワタリさん
お元気ですか。アントンです。
会社が、ロシアから撤退することを決めました。ロシアの拠点は、ロシアの会社に売られます。私は、その会社に移ることになると思います。父と母が、ここにいるので。
撤退の前に、モスクワ取引所との、会社の接続を、全部閉じます。
あなたとイリヤさんが作った接続は、まだ動いています。十三年間、動き続けました。二〇一四年の十月の夜のあとで、一度も、時刻で切れたことはありません。
金曜日の、モスクワ時間の十八時四十五分に、ログアウトします。
あなたは、知っておくべきだと思いました。
アントン
金曜日。
モスクワの十八時四十五分は、東京の、深夜の零時四十五分だった。
晴美も、結も、眠っていた。
居間のテーブルに、一人で座っていた。
ノートを開いていた。
画面は、何もつないでいなかった。
つなぐ権限は、もう、なかった。
七年前に会社を辞めたとき、全部、返していた。
それでも、頭の中に、画面があった。
三十秒ごとに、一行。
中身のない電文。
生きている、と言っているだけの。
零時四十四分。
一行。
零時四十四分三十秒。
一行。
零時四十五分。
頭の中で、最後の電文を、組み立てた。
ログアウト。
五番の電文。
理由の欄に、何と書くのか。
アントンが、何と書くのか。
法務部の長い文案を、アントンも、削ったのだろうか。
Instrument restricted.
Address restricted.
二つの一行が、頭の中に並んでいた。
零時四十五分を、過ぎた。
零時四十五分三十秒。
来ない。
一分。
来ない。
来ないことだけが、確かに起きていた。
月曜日、アントンから、もう一通、届いた。
本文は、なかった。
添付の画像が、一枚だけあった。
ログの、最後の数行を、画面ごと写したものだった。
見慣れた形の行が、並んでいた。
等号でつながれた数字と値が、縦棒で区切られて。
35=0
35=0
35=0
三十秒ごとの、心臓の鼓動。
それから、一行。
35=5 | 58=Session terminated by member.
会員の側から、接続を終了します。
その下に、取引所からの返事の一行。
35=5
理由の欄は、空だった。
それで、終わりだった。
その下には、何もなかった。
画像は、もう一枚、あった。
一通目のメールには、なかったものだった。
紙の、ノートの写真だった。
方眼の入った、学校のノート。
イリヤが、二〇一四年の春に、アントンに渡した一冊だった。
アントンの字で、ロシア語と、英語で、書いてあった。
英語のほうだけ、読めた。
18:45:00 Logout sent.
18:45:00 Logout received.
Session closed.
Nothing else happened.
何も起きなかった。
二十二年前の、ロンドンの大晦日の夜を、思い出した。
何も起きなかったことも、書くのか。
ダニーが、ノートを覗き込んで、そう訊いた。
起きなかったことも、起きたことなので。
アントンは、それを、誰から教わったのだろう。
イリヤからだ、と思った。
イリヤは、それを、自分から聞いた。
自分は、それを、誰からも教わらなかった。
研究室の、古いワークステーションが、何度も落ちたから。
ノートを開いた。
最初のページに、二十九年分の書き写しがあった。
数字を出さなくなった国。
遠くなる。
一日一行、送る。
その下に、書いた。
接続を、閉じた。
書いたのは、アントン。
少し考えて、書き足した。
何も起きなかった。
アントンに、返事を書いた。
長くは、書けなかった。
ありがとう。
まず、書いてくれて。
十四
イリヤからは、夏になっても、何も来なかった。
毎日、一行を送り続けた。
生きていますか。
既読の印は、つかなかった。
晴美は、何も言わなかった。
夜、ときどき、こちらの画面をのぞいて、送った一行を見て、黙って台所に戻っていった。
九月の終わり、ロシアで、予備役の兵士を集める動員が始まった。
国境の検問所に、車の長い列ができている映像が、ニュースに流れた。
南へ。ジョージアへ。
東へ。カザフスタンへ。
列の長さを、ニュースは、キロで伝えていた。
数えなかった。
十月の半ば、朝、一行が届いていた。
イリヤだった。
生きています。
もう一行。
カザフスタンにいます。
その夜、イリヤと、画面で話した。
イリヤは、知らない部屋にいた。
壁は白く、窓の外に、山が見えた。
「アルマトイです。南の、山の近くの町」
イリヤは、少し痩せていた。
髪が、耳の下まで伸びていた。
「連絡しなくて、すみませんでした」
「いえ」
「ロシアの電話を、止めました。いろいろな理由で。新しい電話に、あなたの番号を移すのを、忘れていました」
イリヤは、少し笑った。
「嘘です。忘れていたのではありません。何を書けばいいのか、わからなかった」
「生きています、で、よかったのに」
「そうですね」
イリヤは、画面の外の、何かを見た。
「ハルミさんの言うとおりです。中身は、なくてよかった」
イリヤは、長くは説明しなかった。
ソーニャのこと。仕事のこと。家族で話し合ったこと。
どれも、短く、少しずつ言った。
どちらが正しいとか、間違っているとかは、一度も言わなかった。
「カーチャとソーニャも、一緒です。ミーシャは、モスクワに残りました。母の部屋に」
「テーブルは」
「母の部屋のテーブルは、今は、ミーシャの家族だけです」
イリヤは、少し黙った。
「十一人のテーブルが、二つの国に、割れました」
「あの町に、行きましたか」
イリヤは、首を振った。
「まだです。ここから、飛行機で二時間。でも、まだ」
「どうして」
イリヤは、窓の外の山を見た。
「空港で、九年前と同じことを訊かれました。ここで生まれたのに、どうしてロシア人なのか、と」
「何と答えたんですか」
イリヤは、少し笑った。
「帰る、というのも、変な言葉です、と」
それから、笑うのをやめた。
「今度は、本当に、そう思いました」
十一月。
海外の、大手の暗号資産の取引所が、潰れた。
預かっていたはずの、お客さんの通貨が、なかった。
会社の中で、別のことに使われていた。
実行する人間と、確認する人間が、同じだった。
渋谷の会社にも、朝から、出金の依頼が殺到した。
お客さんたちが、自分の通貨を、手元に引き上げようとしていた。
画面の上に、出金の依頼が、一行ずつ積み上がっていった。
国内の取引所は、決まりで、お客さんの資産を、会社の資産と分けて管理していた。
出金は、止まらなかった。
一件ずつ、処理されていった。
それでも、依頼は、積み上がり続けた。
夜、家に帰ると、晴美が訊いた。
「どうやった、今日」
「行列ができました。画面の上に」
晴美は、少し笑った。
「数えよると?」
十五年前の、ムーアゲートの歩道で聞いた言葉だった。
「数えています。今度は、仕事なので」
「何人?」
「わかりません。まだ、終わっていないので」
晴美は、台所に戻りかけて、振り返った。
「国家のいらんお金でも、人は並ぶとやね」
「はい」
「信用がいらんって、言いよったとに」
「預ける場所には、信用がいります」
晴美は、少し考えてから、言った。
「銀行の人に、向いとらんって、言うたっけ。うち」
「言いました」
「取り消す」
晴美は、笑って、台所に戻っていった。
年の暮れ、ノートを開いた。
一年分の、ページをめくった。
いなくなった。
Address restricted.
接続を、閉じた。
何も起きなかった。
十一人のテーブルが、二つの国に、割れた。
最後のページに、書いた。
信用がいらないはずの場所でも、人は並ぶ。
並ぶのは、誰も、大丈夫だと言わないから。
十五年前、ロンドンで、サイモンが言った言葉だった。
窓の外で、中央線が通っていった。
結の部屋から、音楽が小さく聞こえていた。
十三歳だった。
第四部 了




