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鼓動(ハートビート)  作者: RSakamoto


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第三部 モスクワ 二〇〇九〜二〇一四

一


二〇〇九年、一月。


シェレメチェヴォに着いたのは、夕方の四時だった。


外は、もう夜だった。


飛行機の扉が開いたとき、空気が顔に当たって、痛かった。


寒い、という言葉では足りなかった。


空気そのものが、固かった。


タクシーの窓の外を、雪の壁が流れていった。道路の両側に、押しのけられた雪が、人の背丈ほどに積み上がっていた。その向こうに、同じ形の高い集合住宅が、何十棟も並んでいた。


ロンドンの家は、ひとつずつ壁で隔てられていた。


ここでは、何百という窓が、一つの壁に並んでいた。


窓の半分に、灯りがついていた。


どの灯りの下にも、何人かの人間がいるのだろうと思った。


何人かは、わからなかった。


会社は、街の中心から少し外れた、新しいビルの中にあった。


受付の女性は、英語を話さなかった。


名札の写真を撮られた。


フラッシュは、なかった。


「サワタリさん」


後ろから、英語で呼ばれた。


振り返ると、痩せた男が立っていた。


年は、三十代の後半に見えた。髪は薄い茶色で、少し長く、耳にかかっていた。セーターの肘に、穴が開いていた。


片手に、古い魔法瓶を持っていた。


「イリヤ・ソコロフ。あなたと一緒に、接続を作ります」


握手をした。


手が、ひどく冷たかった。


「外から来たんですか」


「いえ。ずっと中にいました。私の手は、いつも冷たい」


イリヤは、自分の手を見た。


「血の巡りが、悪いんです。父もそうでした」


それから、こちらの顔を見て、言った。


「サワタリさん。出身は、トヤマですね」


「どうして」


「履歴書に、書いてありました」


イリヤは、少し首をかしげた。


「トヤマは、薬売りの町でしょう。十七世紀から、薬を箱に入れて、日本中の家に置いて回った。使った分だけ、次に来たときに代金をもらう」


言葉が、出なかった。


「先に置いて、後で払う。信用の商売です。とても面白い」


イリヤは、魔法瓶の蓋を回した。


「あなたの家も、それをやっていましたか」


「祖父の代から」


「そうですか」


イリヤは、満足そうにうなずいた。


湯気が、蓋の隙間から立ちのぼった。


紅茶の匂いがした。


「では、あなたは、信用の家の人です」


その夜、会社が用意したアパートで、メールを開いた。


福岡から、一行だけ届いていた。


生きとる?


返した。


生きてる。寒い。


翌朝、目を覚ますと、また一行来ていた。


生きとる。つわり。


笑った。


モスクワに来て、初めて笑った。


二


イリヤは、変わった男だった。


最初の一週間で、それがわかった。


朝は、昼近くに来た。夜は、誰よりも遅くまでいた。


昼飯は、ほとんど食べなかった。一日中、魔法瓶の紅茶を飲んでいた。砂糖を三つ入れた。


コードを書く前に、必ず紙に書いた。方眼の入った、学校のノートだった。


鉛筆で、小さな字で、びっしりと。


書き終わると、それをしばらく眺めて、それから一気に画面に打ち込んだ。


打ち込んだものは、たいてい、一度で動いた。


「どうして、紙に書くんですか」


「紙は、嘘をつかないので」


「画面も、嘘はつかないでしょう」


「画面は、消せます」


イリヤは、ノートの端を指で叩いた。


「消せるものは、信用できません」


仕事は、ロンドンのときより、ずっと面倒だった。


モスクワには、取引所が二つあった。


株と債券の大きな取引所と、先物とオプションの取引所。


大きなほうは、FIXの窓口を開けたばかりだった。


先物のほうは、自分たちの流儀の、独自の接続方式しか持っていなかった。


「ロンドンでは、世界中がFIXになると言われました」


「世界中は、なりません」


イリヤは、紙のノートに、先物取引所の接続の手順を図にしていた。


「ここでは、まず自分たちのやり方を作る。外のやり方は、後から、翻訳して入れる」


「翻訳」


「ロシアは、ずっとそうでした。ピョートル大帝のときから」


イリヤは、鉛筆を止めずに言った。


「船の作り方も、軍隊の作り方も、外から持ってきて、中で作り直した。作り直すと、元のものとは、少し違うものになる」


「良くなるんですか、悪くなるんですか」


「違うものに、なるんです」


先物取引所の接続にも、生存確認の電文があった。


名前は違った。間隔も違った。


それでも、形は同じだった。


中身のない電文を、決まった間隔で送り続ける。来なくなったら、相手を疑う。


画面の上で、最初の一行が流れたとき、イリヤに言った。


「ハートビートです」


「知っています」


イリヤは、画面を見たまま、ロシア語で何か言った。


「何と言ったんですか」


「心臓の鼓動。ロシア語では、長い言葉です。セルドツェビエーニエ」


イリヤは、ゆっくり繰り返した。


「英語の、倍くらい長い」


「はい」


「長いほうが、心臓らしいと思いませんか」


どう答えていいかわからなかった。


イリヤは、答えを待っていなかった。


博識、という言葉では足りなかった。


イリヤは、何でも知っていた。


ビザンツ帝国の皇帝の名前を、順番に全部言えた。


日本の江戸時代の、藩の石高を、いくつか覚えていた。


ロンドンの地下鉄が、世界で最初に開通した年と、その最初の区間の駅の名前を知っていた。


チェーホフの短編を、ロシア語で暗唱した。


芭蕉の句を、ロシア語訳で三つ暗唱して、そのうちの一つの訳は間違っている、と言った。


「どこが間違っているんですか」


「蛙が、一匹なのか、たくさんなのか。原文ではわからない。ロシア語では、決めなければならない。訳者は、たくさんにした」


「一匹だと思います」


「私もそう思います」


イリヤは、満足そうに紅茶を飲んだ。


「でも、わからない、というのが、一番正しい」


ある夜、何でそんなに知っているのかと訊いた。


「子どものころ、町に、本しかなかったので」


イリヤは、それだけ言った。


それ以上は、言わなかった。


三


三月の終わり、雪が少し緩み始めた。


道路の雪の壁が、灰色に汚れて、低くなった。


その週、先物取引所との接続が、初めて本番で動いた。


夜、イリヤに誘われて、グルジア料理の店に行った。


地下の、天井の低い店だった。壁に、ぶどうの蔓の絵が描いてあった。


チーズの入った、舟の形のパンが出てきた。


イリヤは、ワインを一杯だけ飲んだ。


二杯目は、断った。


「酒は、父が飲まなかったので」


「ロシアの人は、みんな飲むのかと思っていました」


「みんな飲みます。父は、飲まなかった。父の町の男たちも、あまり飲まなかった」


「どうしてですか」


イリヤは、パンの端をちぎった。


「頭を使う仕事をしている人たちの町でしたから」


それから、少しずつ話した。


イリヤが生まれたのは、カザフスタンの草原の中の町だった。


ソ連の時代、その町には名前がなかった。


あったのかもしれない。ただ、地図には載っていなかった。


郵便の宛先は、遠く離れた別の都市の名前に、番号をつけただけのものだった。


「モスクワの何番、とか。セミパラチンスクの何番、とか。時代によって、変わりました」


「どういう町だったんですか」


「科学者と、軍人と、その家族の町です」


草原の、ずっと向こうに、核の実験場があった。


イリヤの父親は、そこで働く物理学者だった。


「実験が、何回もありました。子どものころは、地上でも。私が生まれたころには、地下で」


イリヤは、それを天気の話のように言った。


「地面が、少し揺れる。窓のガラスが鳴る。それで、今日は実験の日だとわかる。母は、棚の皿を押さえていました」


「町には、何でもありました」


イリヤは、少しだけ楽しそうに言った。


「モスクワと同じくらい、物がありました。オレンジも、チーズも。外の町には、ないものが」


「秘密の町だから」


「秘密の町だから。科学者を、不満にさせてはいけなかった」


「学校は」


「とても良い学校でした。先生も、みんな大学を出ていた。両親の友だちが、みんな物理学者か、数学者か、技術者でした」


イリヤは、ワインのグラスを回した。


「子どもが遊ぶ場所は、あまりなかった。草原と、図書館だけ」


「本しかなかった、というのは」


「本しかなかった。図書館には、何でもありました。外の町の図書館には、ない本も」


イリヤは、少し笑った。


「だから、私は変わり者になりました」


「その町は、今は」


「あります」


イリヤは、パンを置いた。


「名前も、できました。有名な物理学者の名前です。地図にも、載りました」


「よかった」


「人は、いなくなりました」


一九九一年の夏の終わりに、実験場は閉じられた。


同じ年の暮れに、ソ連がなくなった。


カザフスタンは、別の国になった。


町の科学者たちの多くは、ロシア人だった。


「給料が、来なくなりました。最初は遅れて、それから、来なくなった」


一年のうちに、半分の家族が、ロシアへ帰った。


「帰る、というのも、変な言葉です。私はあの町で生まれた。父も、ロシアに家があったわけではない。でも、みんな、帰る、と言った」


イリヤの一家が町を出たのは、一九九三年の春だった。


「私は、二十歳。モスクワの大学にいました。夏休みに帰ったら、もう荷造りが始まっていました」


「二〇〇四年に、一度だけ、見に行きました」


イリヤは、上着の内ポケットから、財布を出した。


財布の中に、小さな写真が一枚、挟んであった。


五階建ての、灰色の集合住宅。


窓のほとんどに、ガラスがなかった。


三階の一つの窓から、細い木が、外に向かって枝を伸ばしていた。


「私の部屋です。三階の、左から二番目」


「木が」


「部屋の中から、生えています。床に、土がたまって。十年あれば、木は育ちます」


イリヤは、写真を財布に戻した。


「町の半分は、そういう建物です。残りの半分に、まだ人が住んでいる。研究所も、少しだけ残っている」


「お父さんは」


「一九九八年に、死にました。モスクワで。心臓でした」


一九九八年。


ロシアが、支払いを止めた年だった。


東京の、夜間当番の画面を思い出した。


一晩で紙くずに近づいていった、ロシアの国債の値段。


同じ年に、同じ国のどこかで、イリヤの父親の心臓が止まっていた。


画面の数字と、その心臓は、どこにもつながっていなかった。


少なくとも、あの部屋の中では。


帰り道、雪の上を歩きながら、訊いた。


「その町の人口は、統計に載っていたんですか」


イリヤは、立ち止まった。


それから、声を上げて笑った。


笑い声が、凍った通りに響いた。


「載っていません」


「一度も」


「一度も。私の町は、統計の中には、存在しなかった」


イリヤは、また歩き出した。


「ソ連の統計は、嘘ばかりだと言われます。私は、そうは思わない。嘘ではなかった。ただ、全部ではなかった」


「全部ではない」


「書いてあることは、だいたい本当です。書いていないことが、たくさんあった。私の町とか」


その夜、部屋に戻って、ノートの最初のページを開いた。


十六年前に書いて、毎年書き写してきた一行があった。


数字を出さなくなった国。


その下に、書き足した。


数字の中に、最初からいなかった町。


鞄の中から、古い方眼紙の束を出した。


一九九三年に、神保町で買った年鑑を見ながら描いた、ソ連の乳児死亡率の線。


途中で途切れて、空白になって、また続いている線。


あの空白の中に、何があったのかは、わからない。


ただ、あの国の数字の外側に、名前のない町がいくつもあって、そこで子どもたちが生まれて、図書館で本を読んでいたのだと思った。


一人の子どもは、窓のガラスが鳴る日に、母親が皿を押さえるのを見ていた。


その子どもは、今、セルドツェビエーニエ、と言った。


四


五月の休日に、イリヤの家に呼ばれた。


地下鉄の終点に近い駅から、バスで十分。


五階建ての、古い集合住宅だった。エレベーターはなかった。


階段の壁は、緑色のペンキで塗られていた。


四階の扉を開けたのは、イリヤの母親だった。


小柄で、白髪をきちんとまとめていた。


ロシア語で、何か言われた。


イリヤが訳した。


「靴を脱いでください。スリッパはこれ。あなたは、痩せすぎている」


部屋は、二つしかなかった。


台所と、居間と、寝室。寝室は、居間をカーテンで仕切ったものだった。


そこに、イリヤの母親と、イリヤと、イリヤの妻のカーチャと、七歳の娘のソーニャが住んでいた。


「ずっと、ここに?」


「父が死んでから、ずっと。この部屋は、母の名義です」


「別に住もうとは」


イリヤは、不思議そうな顔をした。


「どうして」


昼には、もっと人が来た。


イリヤの弟の、ミーシャ。その妻と、息子が二人。


イリヤの母親の妹。その夫。


居間のテーブルを、壁から引き出して、広げた。椅子が足りなくて、台所から持ってきた。それでも足りなくて、ソーニャは祖母の膝の上に座った。


テーブルの上に、料理が隙間なく並んだ。


ビーツのサラダ。ニシンの酢漬け。肉の入った小さな餃子。ピクルス。黒いパン。


十一人。


二部屋の、テーブル一つ。


「いつも、こうですか」


隣に座ったミーシャに、英語で訊いた。


ミーシャの英語は、イリヤよりずっと下手だった。


「日曜日は、いつも。母の家で。みんなで」


ミーシャは、グラスを持ち上げて、言った。


「母の家は、みんなの家」


乾杯が、何度もあった。


乾杯のたびに、誰かが短い演説をした。


死んだ父親に。遠くから来た客に。子どもたちに。


イリヤの母親は、テーブルの端に座っていた。


座っていた。


料理を運ぶのは、カーチャと、ミーシャの妻と、ミーシャ本人だった。


イリヤは、皿を下げて、台所で洗っていた。


母親は、ときどき何か短く言った。


そのたびに、誰かが立って、何かを持ってきた。


誰も、母親に逆らわなかった。


母親の言葉が、この部屋の法律だった。


食事が半分ほど進んだころ、カーチャが、英語で訊いてきた。


「サワタリさん、奥さんは?」


「日本にいます」


財布から、写真を出した。


福岡の区役所の前で、晴美が笑っている写真だった。


写真は、テーブルを一周した。


イリヤの母親のところで、止まった。


母親は、写真を目から遠ざけて、長いあいだ見ていた。


それから、ロシア語で何か言った。


イリヤが訳した。


「どうして、一緒に来なかったのか、と」


「妻は、妊娠しています。夏に生まれます」


イリヤが訳すと、テーブルの上で、小さな声がいくつも上がった。


ミーシャが、グラスを持ち上げた。


誰かが、何かを叫んだ。


また乾杯になった。


乾杯が終わると、母親が、また何か言った。


「それなら、なおさら。どうして、夫のそばで産まないのか、と」


言葉を、探した。


新聞で読んだ、ロシアの病院の話が、頭の中にあった。


九〇年代の話。ロンドンのどこかの記事。どこまで本当で、どこまで古い話なのか、自分にもわからない話。


晴美が、先に言ってくれた言葉。


モスクワで産むとは、ちょっと怖か。


それを、ここで言うことはできなかった。


この部屋で。このテーブルで。


この国の女の人たちが、子どもを産んできた、この国の真ん中で。


言えば、この部屋の全員に、あなたたちの国は妻に子どもを産ませられる場所ではない、と言うことになる。


カーチャが、写真をもう一度手に取りながら言った。


「ソーニャは、この近くの病院で生まれたの。いい病院だった。先生も、みんな親切だった」


「そうですか」


母親が、うなずいていた。


誇らしそうだった。


「日本では」


口を開いてから、何を言うのか、まだ決めていなかった。


「日本では、妻の実家で産む習慣があるんです」


イリヤが訳した。


「実家、というのは、妻の両親の家です。里帰り、と言います。お産の前後の何か月か、妻は自分の母親のところに帰る」


イリヤが訳すのに、ずいぶん時間がかかった。


ロシア語には、ちょうどいい言葉がないらしかった。


母親が、眉を寄せた。


「妻の母親のところで? 夫の家ではなく?」


「はい」


「夫の母親は、何をするの」


少し考えた。


「電話をかけます」


イリヤが訳すと、テーブルが笑った。


ミーシャが、一番大きな声で笑った。


母親だけが、笑わなかった。


首を振りながら、ロシア語で何か言った。


イリヤは、訳さなかった。


今度は、訳してくれとは言わなかった。


里帰りは、本当のことだった。


晴美の母親は、全部うちがやる、と言った。


嘘は、ついていなかった。


それでも、胸のどこかが、重かった。


台所に、皿を運んだ。


イリヤが、流しの前に立っていた。


「手伝います」


「客は、座っていてください」


「日本では、客も座っていろと言われます。でも」


イリヤは、振り返った。


「でも?」


「ロンドンで、座っていろと言われて座っていた人間のことを、責めた人がいました」


イリヤは、少し考える顔をした。


それから、布巾を一枚、渡してきた。


「では、拭いてください」


二人で、皿を洗って、拭いた。


窓の外に、同じ形の集合住宅が、何棟も並んでいた。


どの窓の下にも、日曜日のテーブルがあるのだろうと思った。


帰り際、イリヤの母親が、玄関で何か言った。


イリヤが訳した。


「また来なさい。一人で食べるのは、体に悪い」


「ありがとうございます」


母親は、もう一言、何か言った。


イリヤは、少し困った顔をした。


「何と」


「奥さんのことは、わかった。では、あなたのお母さんは、と。息子が一人で、こんなに遠くにいて、泣いていないのかと」


言葉を、探した。


「母は、昔から、好きにしろ、と言っています」


イリヤが訳した。


母親は、首を振って、ロシア語で短く言った。


イリヤは、訳さなかった。


「何と言ったんですか」


「訳さないほうがいいと思います」


「訳してください」


イリヤは、少し間を置いた。


「そんな母親は、いない、と」


帰りのバスの中で、ノートを出した。


チャリング・クロス・ロードの本の、地図の最後の色のことを考えた。


親と、結婚した息子たちが、みんな一緒に暮らす。


財産は、兄弟で等しく分ける。


イリヤの母親の部屋は、たぶん、いつかイリヤとミーシャのものになる。


二人で、等しく。


そして、そのとき、二人はまた、同じテーブルに座る。


ロンドンでは、全員が次男だった。


富山では、兄だけが長男で、自分は次男だった。


ここでは。


ダニーの声を思い出した。


向こうじゃ、全員が長男なんだろうな。たぶん。


適当に言った、とダニーは言った。


ノートに書いた。


ここでは、全員が、家に残る。


そして、一番上に、母がいる。


書いてから、二行目を少し見ていた。


地図の本には、父の家、と書いてあった気がした。


イリヤの家では、父は、もういなかった。


モデルが、少しだけ、ずれていた。


翌日の夜、イリヤは魔法瓶の蓋を回しながら、画面を見たまま言った。


「昨日の、里帰りの話」


「はい」


「本当ですか」


「本当です。日本の習慣です」


「それだけですか」


手が、止まった。


イリヤは、紅茶を蓋に注いで、ゆっくり飲んだ。


答えを急がせなかった。


「半分です」


「もう半分は」


「ロシアの病院が、よくわからなかった。ロンドンの新聞で、いろいろ読んでいたので。九〇年代の話とか」


言いながら、自分の声が小さくなっていくのがわかった。


「妻も、怖いと言いました。私は、妻がそう言ってくれて、ほっとしました。自分では、言えなかったので」


「昨日も、言えなかった」


「はい。あのテーブルでは」


イリヤは、しばらく黙っていた。


それから、少し笑った。


「嘘ではなかった。ただ、全部ではなかった」


顔を上げた。


イリヤは、画面を見たままだった。


「ソ連の統計と、同じです」


「はい」


「悪いことではありません。全部を言わないことで、守れるものもある。昨日、あなたは母の誇りを守った」


イリヤは、蓋を魔法瓶に戻した。


「私が同じ立場でも、そうします。九三年の、あの町から出てきた家族なら、なおさら。私の母も、本当は知っています。九〇年代のモスクワの病院が、どうだったか」


「では、どうして」


「だから、ソーニャの病院を自慢するんです。良くなったから」


イリヤは、鉛筆を手に取った。


「病院は、良くなりました。でも、人の記憶は、病院より遅く良くなる。外国の新聞は、もっと遅い」


イリヤは、それだけ言って、紙のノートに向かった。


その夜、ノートを開いた。


嘘ではなかった。ただ、全部ではなかった。


書いてから、その一行を、しばらく見ていた。


十六年前、ジュリアンの話を聞いた日から、数字を出さない国のことを、ずっと考えてきた。


隠すのは、悪くなっているからだ。


自分も、昨日、隠した。


悪くなっていたのは、何だったのだろう。


ロシアの病院ではなかった。


たぶん、自分の中の、古い地図だった。


福岡から、一行が届いていた。


生きとる。お腹、ちょっと出てきた。


返した。


生きてる。日曜日、十一人で昼ご飯。


五


二〇〇九年、七月。


朝の五時に、電話が鳴った。


晴美の母親だった。


「生まれたよ。女の子。二人とも元気」


「はい」


それしか、言えなかった。


「はい、って。あんた、もうちょっと何か言いんしゃい」


晴美の母親は、笑っていた。


受話器の向こうで、細い泣き声が聞こえた。


生まれて、まだ一時間の声だった。


その日のうちに、飛行機を取った。


サイモンは、ロンドンから電話で、十日休め、と言った。


イリヤは、何も言わずに、魔法瓶の紅茶を一杯、蓋に注いで渡してきた。


それから、紙のノートの端を破って、ロシア語で何か書いて、差し出した。


「何と書いてあるんですか」


「飛行機の中で、辞書を引いてください」


福岡の病院は、晴美の実家から車で十五分の、小さな産院だった。


廊下の突き当たりの部屋で、晴美は眠っていた。


横の小さなベッドに、赤ん坊が寝ていた。


顔が、赤かった。


握った手が、自分の親指の先くらいしかなかった。


晴美が、目を開けた。


「生きとる?」


「生きてる」


晴美は、笑った。


「毎日、それ、言いよったね」


十日間、晴美の実家にいた。


役に立つことは、何もなかった。


晴美の母親が、全部やった。


おむつを替えて、風呂に入れて、晴美の食事を作って、夜中に泣く赤ん坊を抱いて、廊下を行ったり来たりした。


近所に住む、晴美の母親の姉が、毎日やってきた。


その娘も、来た。


家の中は、女の人たちの声でいっぱいだった。


晴美の父親は、居間の隅で新聞を読んでいた。


ときどき、新聞の端から、赤ん坊のほうをのぞいていた。


「抱いてみんしゃい」


晴美の母親が、赤ん坊を渡してきた。


軽かった。


軽いのに、腕が、ひどく緊張した。


赤ん坊は、目を閉じたまま、口を少し動かした。


胸が、小さく上下していた。


十六年前の、丸ノ内線の向かいの席を思い出した。


眠っている赤ん坊を抱いた、若い母親。


あのとき、目をそらした。


今度は、そらさなかった。


名前は、晴美が決めた。


結。


「結ぶ、の結」


「いい名前です」


「あんた、東京、ロンドン、モスクワって、あっちこっち行くやろ。どこにおっても、ほどけんように」


晴美は、そう言って、赤ん坊の頬を指でつついた。


夜中、みんなが眠ったあとで、赤ん坊の寝ている布団の横に座っていた。


胸が、上下していた。


止まらないかと、ときどき、顔を近づけた。


息の音を、聞いた。


来るか、来ないか。


三十秒ごとに一行。


それよりずっと速い間隔で、赤ん坊は、息をしていた。


十六年間、方眼紙に線を描いてきた。


赤ん坊が、一歳になる前に死ぬ数。


日本の数字は、千人あたり、二人と少しだった。


世界で、いちばん低い部類の数字だった。


その数字を、何百回も見てきた。


千人のうちの、二人。


千人のうちの、九百九十八人。


どちらの中に、この子が入るのか。


数字は、何も教えてくれなかった。


数字は、千人のことしか知らない。


一人のことは、知らない。


ノートを開いて、書こうとした。


何も、書けなかった。


代わりに、イリヤの紙切れを、ノートの間から出した。


飛行機の中で、辞書を引いて、訳してあった。


子どもの最初の一年は、親の心臓が二つになる一年だ。


ロシアの、古いことわざだと、イリヤは言っていた。


本当にそういうことわざがあるのかどうかは、わからなかった。


イリヤが、自分で作ったのかもしれない。


どちらでもよかった。


晴美の母親が、朝ご飯のときに言った。


「あんたのお母さんから、昨日も電話があったよ」


「すみません」


「なんで謝ると。毎日かかってくるとよ。孫は元気か、晴美さんは食べとるか、って」


晴美の母親は、笑った。


「富山のお母さんは、電話の係やね」


イリヤの母親の顔を、思い出した。


夫の母親は、何をするの。


電話をかけます。


あのとき、テーブルは笑った。


笑い話では、なかったのかもしれない。


富山の母は、毎日、電話をかけていた。


それが、母にできる、ただ一つのことだった。


モスクワに戻る日、福岡空港で、晴美が結を抱いて見送った。


「毎日、一行」


「はい」


「今度からは、二人分」


「はい」


保安検査の列から振り返ると、晴美が、結の小さな手を持って、振らせていた。


モスクワに着いた夜、アパートでメールを開いた。


福岡から、一行が届いていた。


生きとる。二人とも。


返した。


生きてる。


少し考えて、書き足した。


三人とも。


六


夏の終わり、イリヤの家族のダーチャに行った。


モスクワから、電車で二時間。


小さな木の家が、畑の中に何十軒も並んでいた。どの家も、手作りで、どの家も少しずつ傾いていた。


イリヤの母親は、着いてすぐ、畑に入った。


じゃがいも。きゅうり。いちご。


「ソ連の時代、ここが、家族の食べ物の半分でした」


イリヤが、麦わら帽子をかぶりながら言った。


「九〇年代には、ここが、家族の食べ物の全部でした」


「全部」


「給料が来ないとき、じゃがいもだけは来ました」


イリヤは、鍬を肩に担いだ。


「ロシア人は、国を信用していません。畑を信用しています」


夕方、ダーチャの縁側で、イリヤと二人で紅茶を飲んだ。


遠くで、誰かの家のラジオが鳴っていた。


イリヤが、急に言った。


「サワタリさん。あなたは、統計が好きでしょう」


「どうして」


「机の引き出しに、年鑑が入っている。日本語の。国の数字の本」


見られていたらしかった。


「趣味です」


「私も、昔、同じ本を読んでいました。ロシア語のですが」


イリヤは、畑のほうを見ていた。


「ロシアの数字は、今、良くなっています。知っていますか」


「知っています。乳児死亡率が、下がっている」


イリヤは、少し驚いた顔をした。


それから、笑った。


「それを最初に言う外国人は、初めてです。外国人は、みんな、平均寿命の話をする。ロシアの男は、早く死ぬ、と」


「それも、戻り始めています」


「戻り始めています」


イリヤは、紅茶を一口飲んだ。


「子どもも、少し増えています。二人目を産むと、国がお金をくれるようになったので」


「効いているんですか」


「わかりません。効いているように、見えます。数字の上では」


しばらく、黙っていた。


畑の上を、夕方の光が斜めに渡っていた。


イリヤが、言った。


「ロシアは、エンジニアを作る国です」


「エンジニア」


「大学を出る若者のうち、技術の学位を取る者の割合。ロシアは、アメリカよりずっと多い。アメリカは、弁護士と、金融の人間を作る」


イリヤは、自分の胸を指さした。


「私は、物理学者の息子で、今は、金融のためのコードを書いています」


それから、こちらを指さした。


「あなたも」


「はい」


「私たちは、西のほうの仕事をしているロシアのエンジニアと、日本のエンジニアです」


イリヤは、声を出して笑った。


何が面白いのか、よくわからなかった。


モスクワに戻って、その数字を調べた。


イリヤの言ったことは、半分は本当だった。


技術系の学位を取る若者の割合は、確かに、アメリカよりずっと高かった。


ただ、その学位の中身がどういうものなのか、数字からはわからなかった。


名前だけの大学も、たくさんあるらしかった。


ロシアの友人たちは、それを自分で笑っていた。


学位を取ったエンジニアの多くが、エンジニアとして働いていないことも、別の数字に出ていた。


イリヤ自身が、その一人だった。


ノートに書いた。


数字は、作ったものを数える。


使われているかどうかは、数えない。


少し考えて、書き足した。


自分の仕事も、同じ。


七


二〇一一年、十二月。


議会の選挙のあと、モスクワの広場に、何万人もの人が集まった。


選挙に不正があった、と言う人たちだった。


雪の降る川沿いの広場に、白いリボンをつけた人たちが、何時間も立っていた。


会社のフロアでは、その話をする者と、しない者がいた。


する者の中でも、意見は割れていた。


行ってきた、と言う者がいた。


行く意味がない、と言う者がいた。


外国がそそのかしている、と言う者もいた。


九〇年代に戻りたいのか、と言う者もいた。


イリヤは、何も言わなかった。


土曜日の夜、珍しく電話がかかってきた。


「カーチャが、広場に行きました。ソーニャを連れて」


「大丈夫でしたか」


「大丈夫でした。寒かったそうです。ソーニャは、楽しかったと言っている」


イリヤの声は、いつもより低かった。


「母が、怒っています。カーチャに。子どもを連れていくなんて、と」


「イリヤさんは」


少し、間があった。


「私は、どちらの気持ちもわかります」


「どちらの」


「カーチャは、九〇年代を、子どもとして見ていない。モスクワの、普通の家の娘でした。自由が、ほしい」


受話器の向こうで、紅茶を飲む音がした。


「母は、九〇年代に、給料の来ない町から、荷物をまとめて逃げてきた。父が死ぬのを見た。じゃがいもだけで冬を越した。秩序が、ほしい」


「イリヤさんは、どちらが」


「私は」


イリヤは、少し黙った。


「私は、あの町の図書館にいた子どもです。本を読んで、どちらの話も、知っている」


それから、少し笑った。


「知っているのと、決められるのは、違います」


電話を切ったあと、ノートを開いた。


イリヤの家の、日曜日のテーブルを思い出した。


十一人。二部屋。テーブル一つ。


一番上に、母親がいる。


その同じテーブルの上で、今、意見が二つに割れている。


割れたまま、次の日曜日も、たぶん、同じテーブルに座る。


同じテーブルの中で、割れている。


ロンドンの行進の日を、思い出した。


歩く人間と、決める人間が違う、とマルコは言った。


モスクワでは、歩く人間と、歩かない人間が、同じテーブルで食事をしている。


どちらのほうがいい、と書きかけて、やめた。


十六年前に書いた一行が、まだノートの中にあった。


説明がつくと、安心する。


福岡から、一行が届いていた。


晴美は、結を連れて、東京の小さなマンションに移っていた。春から、また日本語を教え始めていた。


生きとる。結、「ぱぱ」って言うた。画面に向かって。


返した。


生きてる。


それ以上、書くことが見つからなかった。


画面の向こうで、二歳の娘が、自分の顔の映った四角い光に向かって、ぱぱ、と言っている。


同じテーブルには、座っていない。


それでも、一日一行は、届いている。


同じ月、モスクワの二つの取引所が、ひとつになることが決まった。


株と債券の大きな取引所と、先物とオプションの取引所。


二つの接続を、一つにまとめ直す仕事が来た。


十一年前のパリと、同じだった。


「フランス人とオランダ人とベルギー人を、同じ部屋に入れたみたいだ、と、ロンドンの同僚が言いました」


イリヤに言った。


イリヤは、紙のノートに鉛筆を走らせながら、言った。


「ここでは、兄弟を同じ部屋に入れるだけです」


「それなら、楽ですか」


「いいえ」


イリヤは、顔を上げずに言った。


「兄弟のほうが、ずっと難しい」


窓の外に、雪が降り始めていた。


画面の上では、二つの取引所からの鼓動が、三十秒ごとに、交互に流れていた。


八


二〇一二年、四月。


アントンが来た。


二十三歳。モスクワの工科大学を出たばかりだった。


背が高く、髪を短く刈り込んで、スニーカーを履いていた。英語は、イリヤよりも、自分よりも、ずっと流暢だった。


「ロンドンのドラマで覚えました」


アントンは、屈託なく笑った。


「いつか、ロンドンで働きたいんです」


イリヤが、魔法瓶の蓋を回しながら、アントンを横目で見た。


「九〇年代のことは、覚えているか」


「少しだけ。父がよく、あのころは大変だったと言います。でも、僕が覚えているのは、学校と、サッカーと、最初の携帯電話くらいです」


イリヤは、何も言わなかった。


紙のノートを一冊、引き出しから出して、アントンの前に置いた。


「まず、これを読みなさい。私たちの接続の、全部が書いてある」


アントンは、ノートをめくって、目を丸くした。


「手書き」


「手書き」


「どうして、画面に書かないんですか」


イリヤは、少し間を置いた。


「消せるものは、信用できないので」


アントンは、こちらを見た。


助けを求める目だった。


「読むといいです」


そう言うしかなかった。


その年、モスクワの市場は、作り替えられている最中だった。


外国の投資家を、もっと呼び込むために。


取引所は二つが一つになった。株や債券を預かる場所も、国の中で一つにまとめられた。


そして、次の年の秋には、株の決済の仕組みが根本から変わることになっていた。


それまでのモスクワ市場では、売り買いの前に、全部を置いておく必要があった。


株を買うなら、その代金を先に。


株を売るなら、その株を先に。


置いてある分しか、売り買いできない。


「どうして、そういう仕組みだったんですか」


アントンが訊いた。


イリヤは、鉛筆を止めずに答えた。


「九〇年代に、誰も誰も信用していなかったからです。払うと言った人間が、払わなかった。渡すと言った人間が、渡さなかった。だから、先に全部置かせた」


「それが、変わる」


「変わります。来年から、売り買いは今日、払うのは二日後になる」


「西側と同じですね」


「西側と同じです」


イリヤは、顔を上げた。


こちらを見た。


「サワタリさん。トヤマの逆です」


「逆」


「トヤマの薬売りは、先に置いて、後で払わせた。モスクワは、先に払わせて、後で取引させた。これからは、先に取引して、後で払う」


少し考えた。


「逆ではないと思います」


「では」


「同じです。信用の商売になる」


イリヤは、ゆっくりうなずいた。


「そうです。この国に、信用の商売が来る」


アントンは、二人の顔を交互に見ていた。


何の話をしているのか、たぶん、わかっていなかった。


仕事の中身は、地味だった。


発注の入口で、注文を一件ずつ確かめる仕組みを、作り直す。


これまでは、置いてある分を超えていないかを確かめればよかった。


これからは、お客さんごとに、どこまで信用して売り買いさせていいかという枠を決めて、それを超えていないかを確かめる。


置いてある量ではなく、信用の量を数える。


口座の番号の体系が変わった。決済の相手先の符号が変わった。取引所に送る電文の、項目がいくつも増えた。


アントンは、よく働いた。


呑み込みが早く、夜遅くまで残って、イリヤの紙のノートを一ページずつ読んでいた。


ある晩、アントンが訊いてきた。


「サワタリさん。信用の枠って、誰が決めるんですか」


「リスクの部署です。お客さんの財務や、過去の取引を見て」


「国は、決めないんですか」


意外な質問だった。


「国は、決めません。少なくとも、この仕組みの中では」


アントンは、少し首をかしげた。


「僕の父は、国が決めない枠なんて、信用できないって言うと思います」


「イリヤさんは」


アントンは、奥の席のイリヤを見た。


イリヤは、紙のノートに何か書いていた。


「イリヤさんは、たぶん、誰が決めた枠も信用しない」


アントンは笑った。


こちらも、少しだけ笑った。


九


二〇一三年の初め、外国の投資家が、ロシアの国債を、欧州の決済機関を通して直接買えるようになった。


それまでは、ロシアの中に口座を持たなければ、手が出せなかったものだった。


最初の一週間で、画面の上の取引の量が、目に見えて増えた。


ロンドンから、サイモンが視察に来た。


髪が、少し白くなっていた。


「いい仕事をしているな」


フロアを見渡しながら、サイモンは言った。


「ロシアが、世界につながり始めている。その管を、きみたちが作っている」


「管」


「そうだ。金は、水と同じだ。管があれば、流れる」


サイモンは、イリヤの机の上の紙のノートに目を止めた。


「これは?」


イリヤが答えた。


「管の、設計図です」


サイモンは、しばらくそのノートを眺めていた。


「手書きか」


「手書きです」


サイモンは、何か言いかけて、やめた。


「大事にしてくれ」


九月の初め、株の決済が、二日後に変わった。


切り替えの前の週末、取引所は、市場全体で本番と同じ手順の試験を何度も行った。


土曜日の朝から、日曜日の夜まで。


モスクワ中の証券会社と銀行が、同じ時刻に、同じ手順で、偽の注文を流した。


画面の上で、偽の株が売り買いされ、偽の代金が、二日後の日付で決済の予定に積み上がっていった。


アントンは、二晩、ほとんど寝なかった。


イリヤは、いつもどおり昼近くに来て、夜中までいた。


日曜日の夜、最後の試験が終わった。


エラーは、一件もなかった。


アントンが、椅子の背にもたれて、天井を見上げた。


「終わった」


イリヤが、魔法瓶の紅茶を、蓋に注いで、アントンに渡した。


アントンは、それを一口飲んで、顔をしかめた。


「甘い」


「砂糖を、三つ入れています」


「どうして」


「頭は、砂糖で動くので」


アントンは、笑いながら、もう一口飲んだ。


月曜日の朝、本番が始まった。


最初の注文が、新しい仕組みで流れた。


約定。


決済予定日、二日後。


画面の上の一行を、三人で見ていた。


たった一行だった。


先に取引して、後で払う。


十九年前に、神保町で買った年鑑の、ソ連の行の空欄を思い出した。


点が三つ打ってあるだけの欄。


数字を出さなかった国の、次の国が、今、二日後の約束を信じて、売り買いを始めている。


ノートに書いた。


信用が、来た。


十


二〇一三年、七月。


晴美と結が、モスクワに来た。


結は、四歳になっていた。


シェレメチェヴォの到着口で、結は晴美の後ろに隠れて、こちらを見ていた。


画面の中の父親と、目の前の父親が、同じ人間かどうか、確かめているようだった。


しゃがんで、目の高さを合わせた。


「生きてる?」


結は、しばらく黙っていた。


それから、小さな声で言った。


「いきとる」


晴美が、吹き出した。


日曜日、三人でイリヤの家に行った。


緑色のペンキの階段を、結を抱いて、四階まで上った。


扉を開けたのは、やはりイリヤの母親だった。


母親は、晴美を見た。


それから、結を見た。


ロシア語で、何か短く言った。


イリヤが訳した。


「やっと、家族で来た、と」


テーブルは、今度は十四人になった。


ソーニャは、十一歳になっていた。結の手を引いて、寝室のカーテンの向こうに連れていった。


言葉は通じないはずだった。


カーテンの向こうから、二人の笑い声が聞こえてきた。


乾杯が、何度もあった。


遠くから来た家族に。


小さな結に。


二年前のテーブルで、まだ生まれていなかった子どもに。


食事の途中で、晴美が立ち上がった。


台所に行った。


誰にも言われていないのに。


のぞくと、晴美は、イリヤの母親の横に立っていた。


母親が、小麦粉の生地を丸く伸ばして、肉を包んでいた。


晴美は、それを見て、自分も一つ包んだ。


形が、少し違った。


母親は、晴美の包んだものを手に取って、しばらく眺めていた。


それから、晴美の手を取って、指の動かし方を、もう一度やって見せた。


言葉は、一つもなかった。


晴美が、手を動かしながら、何か言っていた。


日本語と、身振りだった。


自分のお腹を指さして、丸く撫でた。


それから、遠くを指さして、飛行機の手つきをした。


最後に、自分の胸を叩いて、母、と日本語で言った。


イリヤの母親は、じっと見ていた。


それから、笑った。


二年前の、あのテーブルでは、笑わなかった人だった。


ロシア語で、何か言った。


イリヤが、台所の入口で、訳した。


「わかった、と。妻は、自分の母親のところで産む。それは、いい習慣だと」


晴美が、にっこり笑った。


母親は、もう一言、何か言った。


イリヤは、少し笑って、訳した。


「あなたの夫の母親は、電話をかける人だと聞いた、と」


晴美は、うなずいた。


「毎日、かけてきます。今も」


イリヤが訳した。


母親は、生地を伸ばす手を止めた。


それから、ゆっくり、うなずいた。


「それは、いい母親だ、と」


帰りのバスで、結は晴美の膝の上で眠っていた。


晴美が、窓の外を見ながら言った。


「あのお母さん、あんたのお母さんに、ちょっと似とる」


「どこがですか」


「一番上におるとこ。それから、自分が一番上におるって、よう知っとるとこ」


晴美は、結の髪を撫でた。


「それから、ほんとは、ちょっと寂しがりなとこ」


十一


二〇一三年、十月。


イリヤと二人で、カザフスタンに行った。


言い出したのは、イリヤだった。


「あなたは、統計に載っていない町を、見るべきです」


アスタナで乗り換えて、小さなプロペラ機で、東の草原の中の町に降りた。


かつて、あの実験場の名前で呼ばれていた町だった。今は、別の名前になっていた。


空港の外に、車が一台待っていた。


運転手は、四十代のカザフ人の男だった。エルランと名乗った。


ロシア語で、イリヤと何か話した。


それから、車は西へ走り出した。


草原だった。


どこまでも、草原だった。


十月の草は、枯れて、茶色と灰色の中間の色をしていた。


地平線が、まっすぐだった。


一時間走っても、景色が変わらなかった。


電柱が、等間隔に並んでいた。


三十秒ごとに一本、窓の外を通り過ぎていった。


途中で、エルランが車を止めた。


道端に、小さな石積みがあった。


エルランは、車を降りて、石積みの前で手を合わせた。


イリヤが、訳してくれた。


「このあたりに、エルランの一族の先祖が眠っているそうです」


車に戻ると、エルランが、何か話し始めた。


長い話だった。


名前が、いくつも出てきた。


イリヤが、途中から、指を折りながら訳していった。


「父の名前。祖父の名前。曾祖父の名前。その父。その父。その父。その父」


イリヤの指が、七本、折れていた。


「カザフ人は、七代前までの先祖の名前を、全部言えなければならないそうです。七代のあいだに同じ先祖を持つ者同士は、結婚してはいけない。だから、覚える」


エルランが、ハンドルを握ったまま、笑って、何か付け加えた。


「子どものとき、祖父に毎晩、暗唱させられたそうです。間違えると、夕飯がなかった」


「全員が、言えるんですか」


イリヤが訳した。


エルランは、肩をすくめて答えた。


「今の若い者は、怪しい、と」


ノートを出して、書いた。


七代の名前。


統計が始まる前から、覚えられてきた数。


エルランの一族の、七代。


一代を三十年として、二百年。


年鑑の、どの欄よりも長い記録だった。


紙には、書かれていない。


人の口から、人の口へ、渡されてきただけの記録。


途切れたら、それで終わる記録。


三十秒ごとの一行と、同じだと思った。


午後、町に着いた。


五階建ての、灰色の集合住宅が、何十棟も並んでいた。


半分には、洗濯物が干してあった。


残りの半分は、窓にガラスがなかった。


道は広く、人がほとんどいなかった。


モスクワと同じくらいの物があった町、とイリヤは言っていた。


その町の広場に、今は、犬が二匹、寝ていた。


イリヤは、迷わずに歩いた。


一本の通りを曲がって、もう一本を曲がった。


一棟の建物の前で、立ち止まった。


見上げた。


三階の、左から二番目の窓。


木が、生えていた。


財布の中の写真より、ずっと大きくなっていた。


枝が、窓の外に、何本も伸びていた。


葉は、ほとんど落ちていた。


イリヤは、長いあいだ、その窓を見ていた。


何も言わなかった。


こちらも、何も言わなかった。


風が、吹いていた。


草原から来る風だった。


やがて、イリヤが言った。


「十年で、この大きさです」


「はい」


「あと十年たったら、窓から出られなくなるでしょう」


イリヤは、建物の壁に、手のひらを当てた。


冷たい壁だった。


「私の部屋は、今は木の部屋です」


町の中心に、図書館だった建物があった。


扉に、板が打ちつけてあった。


窓から中をのぞくと、空の棚が、並んでいた。


一冊も、残っていなかった。


イリヤは、窓ガラスに額をつけるようにして、しばらく中を見ていた。


「本は、どこへ行ったんでしょう」


「わかりません。九〇年代に、みんな持っていったのでしょう。燃やしたのかもしれない。冬は、寒かったから」


イリヤは、ガラスから離れた。


「でも、私の頭の中には、まだ全部あります」


それから、少し笑った。


「ビザンツ皇帝の名前も、芭蕉の蛙も」


夕方、町の外れに出た。


草原が、地平線まで続いていた。


その、ずっと向こうに、実験場があった。


見えなかった。


見えないくらい、遠かった。


見えないくらい遠いところで、地面が揺れて、この町の窓ガラスが鳴っていた。


イリヤの母親が、棚の皿を押さえていた。


「行きますか」


イリヤが訊いた。


実験場のことだった。


少し考えた。


「いえ」


「私も、行きたくありません」


イリヤは、地平線を見ていた。


「父が、毎日行っていた場所です。それで、十分です」


帰りの空港で、パスポートの確認があった。


係官が、イリヤのロシアのパスポートを開いて、生まれた場所の欄を見た。


係官は、顔を上げて、イリヤを見た。


何か訊いた。


イリヤが、短く答えた。


係官は、少し笑って、スタンプを押した。


「何と訊かれたんですか」


「ここで生まれたのに、どうしてロシア人なのか、と」


「何と答えたんですか」


イリヤは、パスポートを上着の内ポケットにしまった。


「帰る、というのも、変な言葉です、と」


モスクワに戻る飛行機の中で、ノートを開いた。


最初のページに、二十年分の書き写しがあった。


数字を出さなくなった国。


遠くなる。


一日一行、送る。


四年前に書き足した一行も、あった。


数字の中に、最初からいなかった町。


その下に、書いた。


その町の外で、七代の名前を覚えている人に会った。


窓の外は、暗かった。


草原の上に、灯りが一つもなかった。


十二


二〇一四年、三月。


黒海の半島の話が、毎日、ニュースに出るようになった。


フロアの空気が、変わった。


話す者と、話さない者。


話す者の中で、意見は割れていた。


歴史的に正しいことだと言う者がいた。


とんでもないことだと言う者がいた。


どちらの話も、聞きたくないと言う者もいた。


ロンドンからの電話が、増えた。


サイモンの声が、硬くなった。


七月の終わり、アメリカとヨーロッパが、制裁の範囲を広げた。


ロシアのいくつかの大きな銀行や企業について、一定の期間より長い満期の新しい債券や株を、西側の人間が買ってはいけない、という内容だった。


全部を禁止するのではない。


特定の相手の、特定の種類の、特定の期間のものだけ。


細かい線だった。


その線を、発注の入口に引く仕事が、こちらに来た。


仕組みそのものは、難しくなかった。


注文が入ってくる。


銘柄を見る。


発行した相手と、発行した日と、満期を見る。


禁止の一覧に当たれば、取引所には送らずに、その場で突き返す。


突き返すときには、理由を一行、書き添える。


その一行を、どう書くか。


会社の法務部から、英語の文案が来た。


長かった。制裁の根拠の条文の番号まで、入っていた。


電文の理由の欄には、長すぎた。


短くしてくれ、と言われた。


画面の前で、しばらく考えた。


Instrument restricted.


それだけにした。


銘柄は、制限されています。


誰が、なぜ、とは書かない。


書いてあることは、本当だった。


全部では、なかった。


最初の試験の注文を、流した。


禁止の一覧に入っている銘柄の、偽の買い注文。


画面の上で、注文は取引所に届く前に、戻ってきた。


Instrument restricted.


一行。


イリヤが、後ろから画面を見ていた。


紅茶の匂いがした。


「あなたが、線を引きましたね」


「はい」


「コードの中に」


「はい」


イリヤは、自分の紙のノートを開いた。


五年前に描いた、接続の図のページだった。


モスクワの取引所から、ロンドンへ、ニューヨークへ、東京へ。


鉛筆の線が、何本も伸びていた。


イリヤは、その線の一本の途中に、小さな四角を描き足した。


四角の中に、ロシア語で何か書いた。


「何と書いたんですか」


「フィルター」


イリヤは、鉛筆を置いた。


「これは、壁ではありません。フィルターです。水は、まだ通る」


「はい」


「ほとんどの水は、まだ通る」


イリヤは、少し間を置いた。


「でも、フィルターは、目が細かくなっていくものです」


アントンは、その夏、ずっと黙っていた。


ある晩、二人だけになったとき、アントンが言った。


「ロンドンで働く話、たぶん、なくなりました」


「どうして」


「本社が、ロシア人の採用を止めているそうです。はっきりは言わないけど」


アントンは、画面を見たまま言った。


「僕は、何もしていないのに」


返す言葉が、なかった。


Instrument restricted.


自分が書いた一行が、頭の中にあった。


誰が、なぜ、とは書かない一行。


八月の日曜日、イリヤの家のテーブルで、ミーシャとカーチャが言い争った。


ロシア語だった。


早口で、何を言っているのかは、わからなかった。


わからなかったが、何の話かは、わかった。


ミーシャの声が大きくなった。


カーチャの声も、大きくなった。


ソーニャが、下を向いていた。


イリヤは、黙って、パンをちぎっていた。


イリヤの母親が、テーブルを、手のひらで一度だけ叩いた。


音は、小さかった。


部屋が、静かになった。


母親が、短く何か言った。


イリヤが、小さな声で訳した。


「このテーブルでは、食べなさい、と」


ミーシャも、カーチャも、それ以上は言わなかった。


また、フォークの音がし始めた。


割れたまま、同じテーブルで、食べていた。


帰りのバスで、ノートに書いた。


同じテーブルの中で、割れている。


三年前にも、同じ一行を書いていた。


その下に、書き足した。


割れたまま、食べている。


少し考えた。


一番上に、テーブルを叩ける人がいる。


その人がいなくなったら、どうなるのだろう。


書いてから、その一行を消そうとして、やめた。


十三


二〇一四年、十月二十六日。日曜日。


ロシアが、時計を一時間戻した。


三年前、国は夏時間をやめて、一年中、夏の時刻のままでいると決めた。


冬の朝が、暗すぎた。子どもたちが、真っ暗な中を学校に通った。


それで、また戻すことになった。


今度は、永久に。


国が、時間を動かす。


そのたびに、世界中のコンピューターが、この国の時刻の決まりを書き換えなければならない。


準備は、していた。


一か月前から、社内の全部のサーバーの時刻の決まりを、新しいものに入れ替えた。一台ずつ、確かめた。


表を作った。


サーバーの名前と、入れ替えた日と、確かめた人間の名前。


最後の一台まで、埋まっていた。


日曜日の、午前二時。


モスクワの時計が、二時から、一時に戻った。


夜間当番は、アントンと自分だった。


イリヤは、珍しく、家にいた。


一時二十分。


画面の上で、取引所との接続の一本が、切れた。


受信の最後の一行に、取引所からの電文が残っていた。


送信時刻が、許容範囲を外れている。


それが、切断の理由だった。


アントンが、椅子から立ち上がった。


「どうして。全部、入れ替えたのに」


「まず、書きます」


ノートを開いた。


01:20:xx 接続一本切断。理由、送信時刻の許容範囲外。


他の接続、正常。


切れたのは、どのサーバーから出ている接続か。


アントンが、表を開いた。


切れた接続を出しているサーバーの名前を、探した。


表の中に、あった。


入れ替え済み。確認済み。


確認した人間の名前は、アントンだった。


アントンの顔が、白くなった。


サーバーに入って、時刻を見た。


時計そのものは、正しかった。


時刻の決まりも、新しいものに入れ替わっていた。


ただ、その上で動いている、接続のプログラムが、一か月前から一度も止まっていなかった。


プログラムは、起動したときに読んだ古い決まりを、ずっと覚えていた。


新しい決まりに入れ替えても、プログラムを一度止めて、また動かさなければ、古い時刻のままで電文を送り続ける。


一時間、未来の時刻で。


取引所は、未来から来た電文を、受け取らなかった。


プログラムを止めて、もう一度動かした。


接続が、張り直された。


最初の一行が、流れた。


三十秒後、もう一行。


一時四十八分。


二十八分間の切断だった。


日曜日の夜中で、取引は、何も動いていなかった。


損失は、なかった。


アントンは、机に座って、両手で顔を覆っていた。


「僕が確認しました。確認済みって、書いた」


「書いたことは、本当です」


アントンは、顔を上げた。


「時刻の決まりは、入れ替わっていた。確かめたことは、本当です。ただ、全部ではなかった」


アントンは、しばらく黙っていた。


「プログラムを、止めて、動かすところまで」


「はい。そこまでが、確認です」


アントンは、うなずいた。


それから、ノートを開いて、何か書き始めた。


紙の、ノートだった。


イリヤが、この春、アントンに一冊渡したものだった。


「何を書いているんですか」


「何が起きたか。まず、書く。なぜかは、後で考える」


アントンは、顔を上げずに言った。


「イリヤさんに、そう言われました。サワタリさんの口癖だって」


朝、イリヤが来た。


いつもより、ずっと早かった。


ノートを見せた。


イリヤは、一行ずつ指で追って、読んだ。


読み終わると、アントンの紙のノートも、読んだ。


それから、魔法瓶の紅茶を蓋に注いで、アントンに渡した。


「甘い」


アントンが言った。


「頭は、砂糖で動くので」


イリヤは、窓の外を見た。


十月の朝の光が、一時間早く、差し込んでいた。


「国が、時計を一時間戻した。私たちの心臓も、一時間、ずれた」


イリヤは、紅茶を自分の分も注いだ。


「国というのは、そういうものです。時間まで、動かす」


ノートに書いた。


国家は、時間も動かす。


心臓は、それに合わせるしかない。


十四


二〇一四年、十二月十六日。火曜日。


夜中の一時に、中央銀行が、金利を一気に引き上げた。


年十パーセントと少しだったものが、十七パーセントに。


ルーブルを、守るためだった。


守れなかった。


朝、取引が始まると、ルーブルは、落ちた。


画面の上に、ドルとルーブルの為替の銘柄が、一行、表示されていた。


見慣れた、長い記号の銘柄名だった。


数字が、見たことのない速さで、跳ね上がっていった。


一ドルが、六十ルーブル。


七十。


昼過ぎには、八十に近づいた。


一年前には、三十台だった数字だった。


十六年前、東京の夜間当番の画面で、同じ国の数字が落ちていくのを見ていた。


あのときは、画面の数字でしかなかった。


今度は、窓の外に、その国があった。


昼休みに、外に出た。


雪が、降っていた。


両替所の前に、行列ができていた。


店の上の、電光の為替の表示板が、数分ごとに書き換わっていた。


書き換わるたびに、列の中から、小さなため息のような声が上がった。


家電の店にも、列ができていた。


ルーブルが紙になる前に、何か形のあるものに換えておこうとする人たち。


洗濯機を買う人。テレビを買う人。


七年前の、ロンドンの銀行の前の行列を思い出した。


数えよると?


晴美の声がした。


今度は、数えなかった。


夜、イリヤから、短い電話があった。


「母が、そば米を十キロ、買いました」


「そば米」


「ソバの実です。九〇年代にも、母はそうしました。何かあったら、まず、そば米。それから、じゃがいも」


イリヤの声は、落ち着いていた。


「私は、止めませんでした。止めても、無駄なので。それに」


少し間があった。


「母は、たぶん、正しいので」


その週、画面の上の三十秒ごとの一行は、一本も途切れなかった。


取引の量は、三倍になった。


回線は、一本も落ちなかった。


何事もなかったように、流れ続けていた。


ロンドンでも、同じだった。


六年前の、九月の週と。


何事もなかったように流れていることが、一番、落ち着かなかった。


十二月の終わり、サイモンから電話があった。


「東京に戻ってくれ」


予想していた。


本社は、ロシアの拠点を縮めることに決めた。全部ではない。人を減らし、新しい仕事を止め、今ある接続を保つだけにする。


「接続は、誰が見るんですか」


「現地に、残す人間で」


「アントンが」


「そうなるだろう」


サイモンは、少し黙った。


「イリヤは、残らない。本人が、辞めると言っている」


イリヤは、ロシアの銀行に移ることになった。


給料は、下がるらしかった。


「外の会社で、線を引かれる側にいるのは、疲れました」


イリヤは、そう言った。


責める調子ではなかった。


天気の話をするような声だった。


「中の会社で、翻訳をやります。外のやり方を、中に入れて、作り直す仕事」


「ピョートル大帝のときから」


「ピョートル大帝のときから」


イリヤは、少し笑った。


年が明けて、一月の最初の日曜日。


イリヤの家のテーブルで、最後の昼ご飯を食べた。


十一人だった。


乾杯が、何度もあった。


東に帰る客に。


遠くの妻と、娘に。


最後の乾杯のとき、イリヤの母親が立ち上がった。


ロシア語で、長く話した。


イリヤが、途中まで訳して、それから、訳すのをやめた。


母親が話し終えると、テーブルの全員が、グラスを上げた。


「何と言ったんですか」


イリヤは、少し考えてから言った。


「半分だけ、訳します」


「はい」


「あなたは、最初に来たとき、痩せすぎていた。今も、痩せすぎている。でも、最初より、少しだけ、家族の顔になった、と」


「もう半分は」


イリヤは、グラスを上げた。


「それは、全部ではなくていいのです」


帰り際、玄関で、母親が言った。


イリヤが訳した。


「また来なさい。一人で食べるのは、体に悪い」


五年前と、同じ言葉だった。


「今度は、家族で」


イリヤが、自分の言葉で、付け足した。


最後の出社の日、アントンに、自分のノートを渡した。


五年分の、障害の記録。


何が起きたか。まず、書く。


なぜかは、後で考える。


アントンは、両手で受け取った。


「手書き」


「手書き」


アントンは、笑った。


それから、真面目な顔になった。


「接続は、僕が見ます」


「はい」


「止まらないように」


「止まったら、まず、書いてください」


「はい」


イリヤからは、紙のノートを一冊、渡された。


表紙が、擦り切れていた。


開くと、五年前の、最初のページがあった。


モスクワの取引所から、ロンドンへ、ニューヨークへ、東京へ。


鉛筆の線が、何本も伸びていた。


線の途中に、四角が一つ、描き足してあった。


フィルター。


最後のページに、ロシア語と、たどたどしい日本語で、一行ずつ書いてあった。


日本語のほうだけ、読めた。


しんぞうは、ふたつ。


二〇一五年、一月。


シェレメチェヴォを、発った。


飛行機の窓の下に、雪の平原が広がっていた。


その上に、集合住宅の群れが、灰色の島のように、点々と浮かんでいた。


どの窓の下にも、日曜日のテーブルがある。


割れたまま、食べているテーブルも。


ノートを開いた。


東京の晴美に、一行を打つ前に、ノートに一行、書いた。


接続は、生きたまま、置いてきた。


それから、晴美に送った。


生きてる。帰る。


すぐに、返事が来た。


生きとる。待っとる。二人で。


第三部 了

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