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鼓動(ハートビート)  作者: RSakamoto


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第二部 ロンドン 一九九九〜二〇〇八

一


一九九九年、四月。


ヒースローに着いたのは、朝の六時だった。


空港の外は雨だった。降っているのかいないのか、わからないくらいの細かい雨。


誰も傘を差していなかった。


ピカデリー線の車内は狭く、天井が低かった。窓の外を、煉瓦の家の裏側が延々と流れていった。どの家にも、同じ形の小さな庭と、同じ形の煙突があった。


同じ形の家が、ひとつずつ、壁で隔てられて並んでいる。


東京の家並みとは、何かが違うと思った。


何が違うのかは、わからなかった。


会社は、リバプール・ストリート駅の裏にあった。


石造りの古い建物の中身を抜いて、ガラスと鉄骨を詰め直したようなビルだった。


受付で名札の写真を撮られた。


今度は、目を開けていた。


サイモンが降りてきた。


「ようこそ。雨だったろう」


「はい」


「これからずっと雨だ。慣れてくれ」


トレーディングフロアは、東京の三倍の広さがあった。


音も、三倍だった。


システム部は、今度はフロアの中にあった。窓際の、柱の陰の一角。


窓の外に、灰色の空と、灰色の屋根が見えた。


「沢渡。こっちがダニー」


サイモンが、机に足を載せて画面を見ていた男を指さした。


男は足を下ろして、立ち上がった。


背が高かった。髪は短く刈り込んであった。


「ダニー・ウォーカー。よろしく」


握手は、ハーパーほど強くなかった。


言葉の母音が、サイモンとまるで違った。


「北のほうの出身ですか」


「わかる?」


「サイモンと、音が違う」


ダニーは笑った。


「サイモンは南の、いい学校の音。俺はシェフィールド。鉄の町」


最初の週は、ダニーの横に座って画面を見ていた。


欧州の取引所との接続を、全部作り直す。ロンドン、フランクフルト、パリ、アムステルダム。それぞれの取引所が、それぞれの流儀で電文を送ってくる。


それを、ひとつの共通の言葉にそろえる。


「FIX、使ったことある?」


「東京では、まだ少しだけ」


「これから世界中がこれになる。たぶんね」


ダニーは、画面の一行を指でなぞった。


等号でつながれた数字と値が、縦棒で区切られて並んでいた。


「35=0。これがハートビート。108番が間隔。うちは三十秒」


「東京も三十秒でした」


「そう」


ダニーは少し考えるような顔をした。


「世界中、心臓の速さは同じってことだな」


冗談だったのかどうか、わからなかった。


ダニーは、次の行に進んでいた。


アパートは、イズリントンに借りた。


エンジェル駅から歩いて五分。煉瓦の三階建ての二階。


部屋は一つ。台所が狭く、湯船がなかった。


窓から、向かいの家の窓が見えた。向かいの家にも、窓から同じ形の家が見えているはずだった。


最初の週末、方眼紙と年鑑を棚に並べた。


東京から持ってきたのは、それと着替えだけだった。


年鑑は重くて、半分は置いてきた。


置いてきたほうの半分を、少しだけ惜しいと思った。


二


五月の金曜日、ダニーに誘われて、パブに行った。


会社の近くの、天井の黒ずんだ店だった。


夕方の五時半。店の中にも外の歩道にも、背広の男たちがグラスを持って立っていた。


座る場所はなかった。誰も座ろうとしていなかった。


「立って飲むんですか」


「立って飲む。座ったら帰れなくなる」


ダニーは、琥珀色のビールを二つ持ってきた。


ぬるかった。


「ぬるい」


「それがいいんだよ」


二杯目で、ダニーが自分の話を始めた。


父親は、製鉄所で働いていた。


八〇年代の初めに、工場が閉まった。


「俺が十四のとき。親父は四十五」


「それから」


「それから、ずっと家にいた。十年くらい。テレビを見てた」


ダニーは、グラスの底を見ていた。


「組合のストもあった。炭鉱の。親父は炭鉱じゃなかったけど、毎日ニュースを見て怒ってた。怒るくらいしか、することがなかった」


「お母さんは」


「スーパーで働いてた。家の金は、母親が稼いでた」


ダニーは、家族で初めて大学に行った。


十八で、家を出た。


「それから、帰ってない」


「一度も?」


「クリスマスには帰る。年に一回。二晩だけ」


「それで、いいんですか」


「いいとか悪いとかじゃない」


ダニーは肩をすくめた。


「親の家は親の家。俺の家は、俺の家。十八になったら出ていく。こっちでは、それが普通なんだ」


ジュリアンの母親のことを思い出した。


定年したら、南に家を買って、一人で住む。


寂しいかどうかは、あまり問題じゃない。


「日本はどうなの」


「うちは、兄が家を継いでます」


「継ぐ? 家を?」


「家と、店と、墓を」


ダニーは、少し目を丸くした。


「墓も」


「墓も」


「じゃあ、お前は?」


「次男なので。家を出ました」


ダニーは、それを聞いて笑った。


笑ってから、グラスを持ち上げた。


「じゃあ、ここじゃ全員が次男だ」


乾杯した。


ぬるいビールが、少し美味く感じた。


帰りのノーザン線の中で、ノートを出した。


ここでは、全員が次男。


書いてから、少し考えた。


全員が次男なら、誰も家を継がない。


誰も継がないなら、家は一代で終わる。


親の家は親の家。子の家は子の家。


窓の外を見た。地下鉄の窓には、自分の顔しか映っていなかった。


イズリントンの、同じ形の家の並びを思い出した。


壁で隔てられて、ひとつずつ並んでいる家。


あれは、一代ずつの家なのかもしれない、と思った。


三


一九九九年、十二月三十一日。


大晦日の当番を、自分から引き受けた。


独り身で、ロンドンに家族もいない。断る理由がなかった。


ダニーも残った。


「どうせシェフィールドに帰っても、親父とテレビを見るだけだから」


世界中のコンピューターが、年の数字を二桁で覚えていた。


九九の次は、〇〇。


〇〇年を、一九〇〇年と取り違えるかもしれない。


一年以上かけて、社内のすべてのプログラムを確かめてきた。確かめ終わったと、報告書には書いてあった。


それでも、何が起きるかは、その時になるまでわからなかった。


午後三時。


ロンドンは、まだ昼の明るさが残っていた。


東京は、真夜中だった。


東京との回線の画面を、ダニーと二人で見ていた。


三十秒ごとの一行。


二時五十九分三十秒。


三時零分零秒。


一行が、流れた。


日付の欄が、二〇〇〇年に変わっていた。


「来た」


ダニーが言った。


三十秒後、もう一行。


一分後、もう一行。


何事もなかったように、また三十秒ごとに増え始めた。


「東京は、もう来年なんだな」


ダニーが言った。


「九時間、未来にいる」


「はい」


画面の向こうで、野々村が同じ画面を見ているはずだった。


電話をかけようかと思って、やめた。


向こうは、夜中の零時を過ぎたばかりだった。


夜の十一時を過ぎると、窓の外が騒がしくなった。


テムズ川の方向の空が、花火の準備で明るくなっていた。


フロアには、自分とダニーのほかに、三人しかいなかった。


十一時五十九分。


誰かがテレビの音を上げた。


カウントダウンの声が、テレビと窓の外から、少しずれて聞こえた。


零時。


窓の外で、花火が上がった。


画面の上では、ロンドンの取引所との回線の一行が、流れた。


日付の欄が、変わっていた。


ダニーが、息を吐いた。


「何も起きなかった」


「何も起きませんでした」


ノートに書いた。


00:00:xx 受信。日付変更、正常。


何も起きなかった。


ダニーが、ノートを覗き込んだ。


「何も起きなかったことも、書くのか」


「起きなかったことも、起きたことなので」


ダニーは、しばらく黙っていた。


それから、紙コップを二つ持ってきて、会社の冷蔵庫に誰かが置いていった安いシャンパンを注いだ。


「ハッピー・ニュー・イヤー」


「ハッピー・ニュー・イヤー」


シャンパンも、ぬるかった。


四


二〇〇〇年、九月。


パリとアムステルダムとブリュッセルの取引所が、ひとつになった。


三つの取引所との三本の接続を、一本にまとめ直す仕事が来た。


半年、ほとんど毎晩遅かった。


それぞれの取引所には、それぞれの癖があった。同じ意味の電文でも、項目の並べ方が違い、端数の丸め方が違い、祝日の数え方が違った。


「フランス人とオランダ人とベルギー人を、同じ部屋に入れたみたいだ」


ダニーが言った。


「実際、そうなんだと思います」


「言葉を一つにしても、中身は一つにならない」


「はい」


画面の上では、三つの国の取引が、ひとつの流れに合わさって流れていた。


見かけは、ひとつだった。


春になると、アメリカのネット企業の株が崩れ始めた。


フロアの誰かが、毎朝、潰れた会社の名前を読み上げた。


笑う者もいた。


笑わない者もいた。


システム部の仕事は、減らなかった。取引の量は、上がっても下がっても、同じように流れてきた。


むしろ、下がるときのほうが多かった。


二〇〇一年、九月。


その日の午後、フロアのテレビに、煙を上げるニューヨークのビルが映った。


音が、消えた。


フロアの三倍の音が、一度に消えた。


誰も何も言わなかった。


二本目のビルに、飛行機が入っていくのが映った。


誰かが、椅子から立ち上がって、そのまま座った。


ニューヨークとの回線の画面を、確かめた。


三十秒ごとの一行は、流れていた。


流れていることが、かえって、よくわからなかった。


その夜、東京時代の上司のハーパーから、短いメールが届いた。


ニューヨークの、いくつもの宛先に向けた、一斉送信だった。


I'm OK.


それだけだった。


三十秒ごとの一行のような、中身のない一行。


生きている、と言っているだけの。


返信は、しなかった。


一斉送信に返信するのは、何か違う気がした。


ノートにも、書かなかった。


書く言葉が、見つからなかった。


五


二〇〇二年、一月。


土曜日の午後、チャリング・クロス・ロードを歩いていた。


古本屋が、何軒も並んでいる通りだった。


神保町に似ていると、最初に来たときに思った。何度か来るうちに、あまり似ていないと思うようになった。


神保町の古本屋は、本を積む。


ここの古本屋は、本を並べる。


背表紙を上に向けて、きちんと。


地下のある店に入った。


社会学、人類学、歴史。棚の札を順に見ていった。


人口学の棚の一番下に、薄い、色の褪せた本があった。


八〇年代の半ばに出た英訳本だった。


原著はフランス語らしかった。


表紙に、ヨーロッパの地図が描いてあった。国境ではない線で、塗り分けられていた。


手に取って、開いた。


最初の数ページを読んだ。


家族の形が、その社会の考え方の底にある、と書いてあった。


親と子が、どこで、どう暮らすか。


子どもが成人したら、家を出るのか、残るのか。


兄弟のあいだで、財産を均等に分けるのか、一人が継ぐのか。


その組み合わせが、何百年もかけて、その土地の人間が当たり前だと思う考え方を作る。


政治も、宗教も、その上に乗っている。


その場で、しばらく立ったまま読んでいた。


地図のページがあった。


イングランドは、一つの色で塗られていた。


親と子が別に暮らし、親は遺言で財産を好きな子に残せる。子どもは、早く家を出る。


ここでは、全員が次男だ。


ダニーの声がした。


もう一つの色の地域が、ヨーロッパの中にいくつか散らばっていた。


親と、跡を継ぐ一人の子が、同じ家で暮らす。ほかの子は、家を出る。


地図には描かれていなかったが、その色がどこに当てはまるかは、すぐにわかった。


富山の家だった。


兄と、父と、母と、置き薬の車。


ページの端に、さらに別の色で、東のほうの広い地域が塗られていた。


親と、結婚した息子たちが、みんな一緒に暮らす。財産は、兄弟で等しく分ける。


ロシアだった。


本を買った。


一ポンド五十ペンスだった。


表紙の著者の名前は、読まなかった。


読んだのかもしれないが、覚えていない。


帰りの地下鉄の中で、ノートを出して、ずっと前のページを開いた。


一九九五年、四月の日付があった。


人は、自分の育った家の形しか、作れないのかもしれない。


自分の字だった。


七年前に、あの事件のあとで、一人で書いた一行だった。


誰かが、ずっと前に、同じことを考えていた。


同じことを、一冊の本にするくらい、たくさんの数字を集めて。


その下に、書き足した。


先に、書いてあった。


少し嬉しかった。


同じくらい、落ち着かなかった。


自分の思いつきが、他人の本の中で、もっとずっと大きな形になっていた。


大きな形になると、何でも説明できるように見えた。


何でも説明できるものは、怖い。


七年前に書いた、別の一行を思い出した。


説明がつくと、安心する。


地下鉄が、エンジェル駅に着いた。


六


その春から、表を作り始めた。


家のパソコンの、表計算ソフトの一枚。


縦に、知っている人間の名前。


横に、項目を並べた。


生まれた国と町。


何歳で家を出たか。


親は、今、誰と暮らしているか。


兄弟は何人か。その中で、親の近くに住んでいるのは誰か。


結婚しているか。子どもは何人か。


冗談のつもりだった。


少なくとも、最初は。


ダニー。シェフィールド。十八で家を出た。親は、シェフィールドの同じ家に二人で。兄弟は姉が一人。


サイモン。ロンドンの南。


これは、パブで本人から聞いた。


八歳で、寄宿学校に入れられた。


「八歳」


「八歳。父親も八歳で入った。祖父もそうだ」


「寂しくなかったですか」


「最初の一週間は泣いた。それから、泣かなくなった」


サイモンは、それを他人の話のように言った。


「それで、一人で生きていけるようになる。うちの階級の、家の伝統だ」


家を出る時期を、家の伝統が決めている。


家を出るという伝統を、家が継いでいる。


表の欄に、八、と入れた。


入れてから、しばらく数字を見ていた。


マルコ。ミラノ。債券のトレーダー。三十一歳。


去年まで、実家で母親と暮らしていた。


「イタリアの男はみんなそうだよ。結婚するまで家にいる」


「結婚したら」


「母親の家の近くに住む。歩いて五分のところ。毎週日曜は、母親の家で昼飯」


地図の本を、もう一度開いた。


イタリアの北と南で、色が違っていた。ミラノは、どちらの色だったか。


マルコの話は、どちらの色にも、きれいには当てはまらなかった。


表は、少しずつ長くなった。


同僚、同僚の妻、パブで隣になった男、アパートの大家。


二十人を超えたころ、眺めていて気づいた。


地図の本の色に、きれいに当てはまる人間がいる。


まったく当てはまらない人間もいる。


ダニーの姉は、シェフィールドで、実家の二軒隣に住んでいた。毎日、両親の様子を見に行っているという。


十八で家を出る国の、家を出なかった娘。


ダニーは、それを少しだけ恥ずかしそうに言った。


「姉貴は、変わってるんだよ」


変わっている、と言われる人間のほうが、表の中では目立った。


当てはまらない行に、色をつけた。


薄い黄色。


眺めていると、黄色の行のほうが、面白かった。


地図は、人間を平均で塗っている。


一人ひとりの人間は、平均ではない。


当てはまらない人間のほうが、面白い。


ノートに、そう書いた。


書いてから、それが自分のことでもあるのに気づいた。


次男で、家を出て、線の外にいて、ロンドンの二階の部屋で、他人の家族の表を作っている。


どの色にも、きれいには塗れない。


七


二〇〇三年、二月十五日。土曜日。


朝から、エンジェルの駅前に人が集まり始めていた。


手書きのプラカードを持った人たち。子どもを肩車した父親。杖をついた老人。


戦争に反対する行進だった。


アメリカとイギリスが、イラクを攻めようとしていた。


ハイド・パークまで、ロンドン中から人が歩いていく。


部屋の窓から、しばらく見ていた。


それから、上着を着て、外に出た。


行進に加わるつもりはなかった。


どれくらいの人がいるのか、見てみたかった。


ピカデリーのあたりで、道が人で埋まっていた。


前にも後ろにも、進めなかった。


プラカードの言葉を、読める分だけ読んでいった。


石油のための戦争。私の名前でやるな。ブレアに嘘つき。


怒っている顔もあった。笑っている顔もあった。ピクニックのように、魔法瓶の紅茶を配っている人たちもいた。


人の数を、数えようとして、やめた。


後で新聞が、百万人と書いた。主催者は、二百万人と言った。


どちらでも、数える前の自分には同じだった。


人混みの中で、名前を呼ばれた。


ダニーだった。


段ボールのプラカードを持っていた。何も書いていない、裏返しの。


「書くことが決まらなくて」


ダニーは笑った。


「来ると思わなかった」


「見に来ただけです」


「それが、お前らしいよ」


月曜日、フロアでは、行進の話はあまり出なかった。


出たとしても、短かった。


行ったと言う者がいた。行かなかったと言う者がいた。戦争は必要だと言う者もいた。


サイモンは、何も言わなかった。


ダニーは、行ったとだけ言った。


お互いに、それ以上は訊かなかった。


昼休み、マルコが言った。


「イタリアでも、ローマで何百万人も歩いた。でも、政府は行くよ。たぶん」


「そうですか」


「どこの国も同じだよ。歩く人間と、決める人間が、違うんだ」


ノートに、書こうとして、やめた。


どこかで、似た一行を書いた気がした。


三月、戦争が始まった。


フロアのテレビに、夜のバグダッドが緑色に映っていた。


暗視カメラの色だった。


夜間当番の画面の、緑色の文字に似ていた。


四月のある日、帰りにリバプール・ストリート駅の書店に寄った。


入口の平台に、新刊が積んであった。


フランス人が書いた、アメリカについての本の英訳だった。


帯に、アメリカの時代は終わりつつある、というようなことが書いてあった。


手に取らなかった。


戦争の本は、この春、平台に何十冊も並んでいた。


その中の一冊だと思った。


電車の時間が迫っていた。


改札を抜けて、ホームに下りた。


八


二〇〇四年、五月。


東のほうの国々が、十か国まとめてヨーロッパの仲間に入った。


一月もしないうちに、ロンドンの街の音が少し変わった。


地下鉄の中で、パブのカウンターで、工事現場の足場の上で、聞いたことのない子音の多い言葉が聞こえるようになった。


アパートの大家が、階段の壁を塗り替えるために、ポーランド人の職人を二人連れてきた。


兄弟だった。


兄のほうが英語を少し話した。弟は、ほとんど話さなかった。


昼休みに、二人は階段に並んで座って、同じ形のパンを食べていた。


「国に、家族は」


「母と、父と、祖母。兄の妻と子ども。みんな、ひとつの家」


「みんな」


「みんな。お金を送る」


兄は、弟の肩を叩いた。


「こいつも、送る。二人で、家を建てる」


家に帰るために、家を出てきた人たちだった。


その夜、表に二人の行を加えようとして、名前の綴りを訊き忘れていたことに気づいた。


空欄のまま、二行を足した。


同じ月の土曜日、ピカデリーの日本食品店に行った。


月に一度、味噌と米を買いに行く店だった。


味噌の棚の前に、背の高い女が立っていた。


赤味噌と白味噌の袋を両手に持って、裏の表示を見比べていた。


棚の前が、ふさがっていた。


待っていると、女が振り返った。


「すみません」


日本語だった。


「どうぞ」


女は、白いほうの袋を棚に戻しかけて、手を止めた。


「どっちがいいと思いますか。お味噌汁」


「何を入れるかによります」


「お豆腐と、わかめ」


「なら、どちらでも」


女は笑った。


「日本の人は、みんなそう言う」


それから、少し首をかしげて言った。


「あんやと」


聞き覚えのある音だった。


富山の隣の県の、年寄りの言葉だった。


「どこで覚えたんですか、それ」


女は、驚いた顔をした。


「わかるんですか」


「隣の県の出身なので」


クレア、と名乗った。


ロンドンの南の町の出身。大学を出てすぐ、外国語指導助手として、能登の町の中学校に二年いた。


「海が見える学校でした。冬は、ずっと灰色」


店の近くのカフェで、紅茶を飲みながら話した。


クレアの日本語は、教科書の言葉と、年寄りの言葉が混ざっていた。


「近所のおばあちゃんに、毎日野菜をもらってました。その人の言葉が、うつった」


「ロンドンでは、使わないでしょう」


「使う相手がいないから、忘れていく」


クレアは、カップを両手で包んだ。


「さっき、久しぶりに使いました」


九


夏になるころには、週末はたいてい一緒にいた。


クレアは、ロンドンの公立の学校で英語を教えていた。外国から来たばかりの子どもたちに、英語そのものを教える仕事だった。


「今年は、ポーランドの子が急に増えた」


「うちの階段にも、ポーランドの兄弟が来ました」


「子どもたちは、三か月でしゃべるようになる。親は、三年たってもしゃべらない」


「どうして」


「子どもは、ここで生きていくから。親は、いつか帰るつもりだから」


クレアは、それを悲しそうには言わなかった。


事実を言うように言った。


能登の話を、よく聞いた。


クレアが住んでいたのは、教員住宅の二階だった。窓の向かいに、古い大きな家があった。


黒い瓦の、奥行きの長い家。


祖父母と、長男夫婦と、その子どもが三人。


「最初は、何人住んでいるのかわからなかった。毎日、違う顔が見えた」


その家の奥さんが、クレアに野菜をくれた人の嫁だった。


「奥さんは、いつも台所にいた。朝も、夜も」


「法事に呼ばれたことがあります。一度だけ」


座敷に、親戚が何十人も集まった。


男たちは座敷に座って、酒を飲んでいた。


女たちは、台所と座敷のあいだを、ずっと行き来していた。


「奥さんは、一度も座らなかった。私は、お客さんだから座らされた。座っているのが、ものすごく恥ずかしかった」


「そうですか」


「きれいだと思ったんです。みんなで一つの家に住んで、年寄りを大事にして、ご先祖さまを大事にして。本当に、きれいだと思った」


クレアは、少し間を置いた。


「でも、あの台所には、絶対に入りたくないと思った」


その話を聞いたとき、富山の家の台所を思い出そうとした。


うまく思い出せなかった。


母が立っていた気がする。


兄が結婚してからは、兄の妻も立っていたはずだった。


自分は、座敷にいた。


いつも座敷にいたから、台所のことを覚えていないのだと、そのとき初めて気づいた。


秋のある晩、クレアがアパートに来ていた。


台所で、クレアが味噌汁を作っていた。白いほうの味噌だった。


パソコンの画面を、つけっぱなしにしていた。


表が、開いたままだった。


「これは、何」


クレアが、画面の前に立っていた。


「表です」


「見ればわかる」


クレアは、上から下へ、ゆっくり目を動かした。


ダニー。サイモン。マルコ。名前の綴りのわからないポーランドの兄弟。


「ダニーの姉さんのことまで、書いてある」


「はい」


「何のために」


「趣味です」


クレアは、しばらく画面を見ていた。


それから、訊いた。


「私も、入ってるの」


「入っていません」


クレアは、振り返らずに言った。


「そう」


安心したのか、がっかりしたのか、わからない声だった。


味噌汁が、少し煮詰まっていた。


十


二〇〇五年、七月七日。木曜日。


朝の九時前、フロアの電話が一斉に鳴った。


地下鉄で、電源の事故があったらしい、という話から始まった。


事故ではなかった。


リバプール・ストリートとオルドゲートのあいだの電車。会社から歩いて五分もかからない場所だった。


キングス・クロスの近く。エッジウェア・ロード。


一時間後、バスが一台。


九時半、総務の女性が、名簿を持ってフロアを回り始めた。


一人ずつ、名前を読み上げる。


来ているか。連絡はあったか。


十年前と、同じ手順だった。


同じ名簿の形だった。


ダニーは、机にいた。


サイモンも、いた。


携帯電話が、つながらなかった。回線が混み合っていて、何度かけても、途中で切れた。


クレアの学校は、キングス・クロスから二駅だった。


十時四十分。


短い文字のメッセージが、一通だけ届いた。


I'm OK. Are you?


画面を見ていた。


四年前の、ハーパーのメールを思い出した。


あのときは、返さなかった。


OK.


打って、送った。


送信に、三分かかった。


その夜、クレアはイズリントンのアパートに来た。


地下鉄が止まっていて、二時間歩いてきたと言った。


二人で、テレビを消したまま、台所に座っていた。


「犯人は、この国の子たちかもしれないって」


クレアが言った。


「生まれたのも、育ったのも、ここ。北の町の」


「そうですか」


「私の学校にも、同じくらいの年の子がいる」


クレアは、それきり黙った。


十年前、ノートに三つの解釈を書いたことを思い出した。


家を出ること。家の形。知っていることと、信じること。


今度は、何も書かなかった。


書けば、何かを説明できてしまう気がした。


説明できてしまうのが、嫌だった。


窓の外で、パトカーのサイレンが、遠くのほうで長く鳴っていた。


クレアの手が、テーブルの上にあった。


その上に、自分の手を載せた。


それで、よかった。


十一


二〇〇六年、春。


ダニーの父親が、施設に入った。


記憶が、少しずつ抜け落ちていく病気だった。


「母親が、もう一人じゃ見きれないって」


昼休み、ダニーは会社の近くのベンチで、サンドイッチを半分だけ食べた。


「姉貴が、施設を探した。見学にも行って、書類も全部書いた。俺は、電話で話を聞いただけ」


「週末、帰るんですか」


「帰る。でも、行っても、俺のことがわからない日がある」


ダニーは、残りの半分のサンドイッチを、紙に包み直した。


「親父は、製鉄所の話ばっかりするんだ。二十年以上前に閉まった工場の。そこだけは、全部覚えてる」


「そうですか」


「俺の仕事の話をしても、わからない。昔から、わからなかった。コンピューターで、何かを売ったり買ったりしてる。それだけ」


ダニーは、少し笑った。


「親父は、鉄を作ってた。俺は、何も作ってない」


言い返そうとして、言葉が見つからなかった。


自分も、何も作っていなかった。


三十秒ごとに、空っぽの電文を送っているだけだった。


その夏、クレアの母親に会った。


ブライトンの、海の近くの小さなフラット。


クレアの両親は、クレアが十五のときに別れていた。母親は、それから一人で住んでいる。


「一人で、寂しくないですか」


紅茶を出されたとき、訊いた。


言ってから、ジュリアンの母親のことを思い出した。


クレアの母親は、きょとんとした顔をした。


「寂しい? どうして。自分の家よ」


それから、笑った。


「娘が、たまに来てくれるし」


クレアが、横で肩をすくめた。


帰りの電車で、クレアが言った。


「あなたのお母さんには、いつ会えるの」


「そのうち」


「そのうち、って、日本語で一番便利な言葉ね」


クレアは、窓の外を見ていた。


怒っているのではなかった。


確かめているような声だった。


十二


二〇〇六年、十月。


夜中の二時に、電話が鳴った。


兄だった。


「父さんが、倒れた」


兄の声は、落ち着いていた。


落ち着かせているのが、わかった。


「今、病院。脳の血管やって。医者は、今夜が山やって」


「帰る」


「うん。気をつけて来られ」


電話を切った。


ノートを開いた。


手が、いつもの形で書こうとした。


02:07 兄より電話。


そこで、ペンが止まった。


それ以上、書けなかった。


朝、クレアに電話した。


「一緒に行く」


クレアは、すぐに言った。


「飛行機、取る。学校には、事情を話す」


「いや」


「いや?」


「来なくていい」


受話器の向こうが、静かになった。


「どうして」


言葉を探した。


家の葬式は、家のものだった。


喪主は兄で、席順は決まっていて、親戚が何十人も来る。


籍の入っていない、日本語の少しできる背の高い外国人の女が、そこに来たら、誰もどこに座らせていいかわからない。


クレアは、一番端の、どこでもない場所に座ることになる。


あるいは、台所に。


それを、クレアにさせたくなかった。


そういうことを、全部、言葉にしようとした。


「向こうは、いろいろ大変だから」


それしか、出てこなかった。


「わかった」


クレアは、それだけ言った。


わかっていない声だった。


父は、その日の夕方に死んだ。


富山空港に着いたのは、翌日の昼だった。


通夜も、葬式も、全部が決まった形で進んだ。


喪主は兄だった。


挨拶も、兄がした。


自分は、兄の隣の、少し後ろに座っていた。


親戚の誰かが、ロンドンは遠いやろう、と言った。


遠いです、と答えた。


通夜のあと、台所の前を通った。


兄の妻が、立っていた。


湯呑みを洗っていた。


その横で、母が、明日の朝の握り飯の米を研いでいた。


近所の女の人たちが、あと三人いた。


誰も、座っていなかった。


座敷のほうから、男たちの笑い声が聞こえた。


酒が入っていた。


台所の入口に、しばらく立っていた。


兄の妻が、気づいて振り返った。


「修さん。何か要るけ」


「いえ」


「疲れたやろ。座っとられ」


座っていろ、と言われた。


座敷に、戻った。


戻りながら、クレアの声を思い出していた。


奥さんは、一度も座らなかった。


葬式の翌日、父の骨を墓に納めた。


家の墓は、町のはずれの、山の斜面にあった。


墓石の横に、名前が並んでいた。祖父、祖母、曾祖父。


いつか、兄の名前がここに入る。


兄の妻の名前も。


自分の名前は、たぶん、入らない。


次男は、自分で墓を作る。


あるいは、作らない。


線の外側にいる、ということは、そういうことだった。


母が、墓の前で手を合わせたまま、言った。


「あんたは、好きにせられ」


十四年前と、同じ言葉だった。


今度は、突き放されたようにしか、聞こえなかった。


十三


ロンドンに戻った夜、クレアがアパートに来た。


二人で、台所に座った。


クレアは、しばらく何も言わなかった。


それから、言った。


「私が行ったら、どこに座ることになったの」


驚いた。


クレアは、わかっていた。


「端のほう。たぶん」


「台所?」


少し、黙った。


「たぶん」


クレアは、うなずいた。


「知ってた。能登で見てたから」


「だから」


「だから、私を守ったと思ってるのよね」


クレアは、テーブルの上の自分の手を見ていた。


「でも、それを決めたのは、あなた。一人で」


「はい」


「あなたは、いつもそう。線を引いて、その内側で、一人で決める」


返す言葉がなかった。


「私は、端に座ってもよかった。台所に立ってもよかった。一度くらいなら」


クレアは、顔を上げた。


「あなたの隣に、行きたかっただけ」


長い沈黙のあとで、クレアはもう一つ言った。


「あなたは、家を出た、って言うでしょう。自由だって。身軽だって」


「はい」


「あの家がどういう場所か、本当に知ってるのは、私のほうだと思う」


言い返そうとした。


できなかった。


「あなたは男で、次男だから、外にいられた。身軽でいられた」


クレアの声は、静かだった。


責めているのではなかった。


確かめているのだった。


「その身軽さは、台所に立ってる女の人たちの上に、乗ってる」


クレアが帰ったあと、ノートを開いた。


何も書けなかった。


十四年間、身軽さを、自分の美点だと思ってきた。


線の外側にいること。持たないこと。家から自由であること。


それが、誰の上に乗っているのかを、考えたことがなかった。


座敷に座っていたから。


いつも座敷に、座っていたから。


別れたのは、年が明けてからだった。


大きな喧嘩はしなかった。


少しずつ、会う間隔が長くなって、ある日、クレアのほうから言った。


「もう、会わないほうがいいと思う」


「はい」


「嫌いになったんじゃない」


「わかってます」


「あなたの、そういうところが、好きだったの」


クレアは、少し笑った。


「全部わかってます、って顔をするところ」


そう言って、帰っていった。


その春、表を開いた。


一番下の、空いた行に、カーソルを置いた。


名前の欄に、クレアと打ちかけた。


出身の町。何歳で家を出たか。親は誰と暮らしているか。


全部、知っていた。


全部、埋められた。


カーソルを、しばらく点滅させていた。


三十秒ごとの一行のように。


打ちかけた文字を、消した。


表を、閉じた。


ノートに、一行だけ書いた。


人は、表の行には入らない。


書いてから、今まで表に入れてきた二十何人の顔を、一人ずつ思い浮かべた。


十四


二〇〇七年、九月。


ノーザンロックという銀行の支店の前に、朝から行列ができた。


テレビに、その列が映っていた。


背広の男も、杖をついた老人も、ベビーカーを押した母親もいた。


みんな、自分の預金を引き出すために並んでいた。


「この国で、銀行の前に列ができたのは、百何十年ぶりだそうだ」


サイモンが、テレビを見ながら言った。


「アメリカの住宅ローンが、回り回ってここに来た」


「どうして、並ぶんですか」


「誰も、大丈夫だと言わないからだ」


サイモンは、紙コップを握りつぶした。


「大丈夫だと言っても、信じない。だから並ぶ」


昼休み、ムーアゲートの支店まで歩いた。


会社から、十分もかからなかった。


列は、支店の入口から歩道を折れて、隣のビルの前まで続いていた。


列の最後尾から、先頭に向かって、ゆっくり歩いた。


口の中で、数えていた。


三十六。三十七。三十八。


「数えよると?」


声がした。


日本語だった。


列の中ほどに、小柄な女が立っていた。


厚い通帳のようなものを、両手で胸の前に抱えていた。


「はい」


「何のために」


「趣味です」


女は、目を丸くした。


「並びよるんやないと?」


「見に来ただけです」


女は、しばらくこちらを見ていた。


それから、吹き出した。


「変な人やね」


女は、中園晴美と名乗った。


福岡の出身で、ロンドンの大学で、外国人の学生に日本語を教えていた。


「ここに、貯金ば全部入れとるとよ。金利がよかったけん」


「たぶん、大丈夫だと思います」


「大丈夫って、誰が言いよると?」


言葉に詰まった。


「誰も、言っていません」


「やけん、並びよるとよ」


晴美は、通帳を抱え直した。


サイモンと、同じことを言っていた。


会社に戻らなければならなかった。


戻らなかった。


サイモンに、電話を一本かけた。


「現場を見ています」


「何の現場だ」


「列です」


サイモンは、少し黙ってから、笑った。


「好きにしろ」


晴美が支店の中に入れたのは、三時間後だった。


その間、列の横に立って、話した。


博多の祭りの話。ロンドンの学生の話。日本語の「は」と「が」の違いを、イギリス人にどう教えるかという話。


「あんたは、何の仕事?」


「銀行の、コンピューターです」


「銀行の人が、銀行の行列ば見物しよると?」


「はい」


「ほんと、変な人やね」


晴美は、預金を全部引き出して出てきた。


封筒が、分厚かった。


「これ、どこに置いたらよかとやろ」


「別の銀行に」


「どこが大丈夫なと?」


少し考えた。


「わかりません」


晴美は、声を出して笑った。


「正直やね。あんた、銀行の人に向いとらんよ」


十五


晴美は、線を越えてくる人だった。


越えてもいいかと、訊かなかった。


気がつくと、内側にいた。


二度目に会ったとき、晴美はイズリントンのアパートまでついてきて、台所の棚を勝手に開けた。


「味噌、赤ばっかりやん。白はなかと?」


「白は、あまり」


「九州は、麦味噌たい。今度、持ってくる」


三度目に来たとき、本当に持ってきた。


四度目に来たときには、歯ブラシが一本、増えていた。


ある晩、晴美が、机の上に積んであった方眼紙の束を手に取った。


十五年分の線が、描いてあった。


「これ、何のグラフ?」


「赤ん坊が、一歳になる前に死ぬ数です。国ごとの」


晴美は、しばらく黙って紙を見ていた。


「暗かねえ」


「下がっていく線です。ほとんど、どの国も」


晴美は、紙を明かりにかざした。


「ほんなら、明るかね」


それから、紙を丁寧に揃えて、元の場所に戻した。


表のことは、訊かなかった。


画面が開いていても、見ようとしなかった。


見ないことに決めているのだと、後になってわかった。


晴美の家族の話を、少しずつ聞いた。


父親は、市内のバス会社を定年まで勤めた。母親は、パートで保育園の給食を作っていた。弟が一人、東京で働いている。


「晴美さんは、長女ですよね。家は」


「家?」


「誰が、継ぐんですか」


晴美は、きょとんとした。


「継ぐって、何を?」


「家とか、墓とか」


「知らん。うちの親は、子どもの世話にはならんって、ずっと言いよるよ。自分らのことは、自分らでするって」


「そうですか」


「ばあちゃんも、そうやった。じいちゃんが死んでから、同じ敷地の、裏の小さか家に移って、一人で住みよった。母屋には、うちの親」


「同じ敷地の、別の家に」


「そう。隠居屋、って言いよった。ご飯も別。うちらが呼びに行かんと、来んかった」


晴美は、ふと気づいたように、こちらを見た。


「なんで、そげん驚いとると?」


「日本の家は、みんな富山の家みたいなものだと思っていました」


晴美は、笑った。


「そげなの、家によるったい」


その夜、晴美が帰ったあと、チャリング・クロス・ロードの本を開いた。


表紙の地図には、ヨーロッパしか描いてなかった。


日本は、最初から載っていなかった。


日本の色は、自分で塗ったものだった。


富山の家の色で、日本全体を。


ノートに書いた。


日本も、一色ではない。


自分の家の色で、国を塗っていた。


少し考えて、書き足した。


表の上の、他の国の人たちも、たぶん同じ。


二〇〇八年、九月十五日。月曜日。


朝、フロアに入ると、テレビにカナリー・ワーフのビルが映っていた。


アメリカの大きな投資銀行が、潰れた。


ビルの前で、段ボール箱を抱えた人たちが、次々に出てきていた。


箱の中身は、どれも似ていた。


マグカップ。家族の写真。書類の束。


ハーパーの机の上にあった、ヤンキースのマグカップを思い出した。


ダニーが、テレビの前に立っていた。


「大学の同期が、あそこにいる」


「連絡は」


「さっき来た。I'm OK って。でも、OK じゃないよな」


ダニーは、テレビから目を離さなかった。


「箱一つで、出ていくんだ」


「はい」


「家から持ってくるものは、箱一つ分。持って帰るのも、箱一つ分」


ダニーは、笑おうとして、やめた。


「プラットフォームだな。乗って、降りる」


十年前、桐生さんに言った言葉だった。


ダニーは、それを知らないはずだった。


その週、画面の数字は、見たことのない動き方をした。


取引の量は、三倍になった。


回線は、一本も落ちなかった。


三十秒ごとの一行は、何事もなかったように流れ続けた。


何事もなかったように流れていることが、一番、落ち着かなかった。


十一月。


サイモンが、窓際の席まで来た。


「東に、行く気はあるか」


「東」


「モスクワ。本社が、新興国の拠点を立て直すと決めた。こっちが崩れているうちに、向こうを取りに行く」


サイモンは、窓の外の灰色の空を見た。


「向こうの取引所への接続を、一から作る。できる人間が要る」


窓の外で、雨が降っているのかいないのか、わからなかった。


「考えさせてください」


「もちろん」


十年前と、同じやりとりだった。


その夜、年鑑の、ロシアの行を開いた。


乳児死亡率の欄を、指で追った。


九〇年代の初めに、少し上がっていた。


それから、下がっていた。


ずっと、下がり続けていた。


男の平均寿命も、ゆっくりと戻り始めていた。


方眼紙に、十五年前に描いた線の続きを描いた。


途切れていたところから、また続いて、下のほうへ、なだらかに降りていく線。


悪くなっている国の線では、なかった。


少なくとも、この数字の上では。


ノートに書いた。


数字が、変わっている。


自分のモデルが、古くなっている。


晴美のフラットに行ったのは、夜の十時を過ぎてからだった。


晴美は、学生の作文に赤いペンを入れていた。


「どうしたと、こげな時間に」


「話があります」


晴美は、ペンを置いた。


「会社から、モスクワに行かないかと言われました」


「モスクワ」


「何年か。たぶん、長く」


晴美は、黙っていた。


言うことを、決めてきていた。


言葉が、喉のところで止まりかけた。


止まらせなかった。


「行くかどうか、一緒に決めてほしい」


晴美は、しばらく、こちらの顔を見ていた。


「あんたが、人に決めてって言うと、初めて聞いた」


「初めて言いました」


晴美は、少し笑った。


それから、笑うのをやめた。


「うちも、話があると」


晴美は、机の引き出しから、細長い白いものを出した。


テーブルの上に、置いた。


小さな窓の中に、線が二本、出ていた。


「先週。まだ誰にも言うとらん」


線を、見ていた。


十五年、方眼紙に線を描いてきた。


赤ん坊が、一歳になる前に死ぬ数の線。


どの国の線も、ほとんど、下がっていく線だった。


その線の、ずっと上のほうに、この二本の線があった。


「怒っとる?」


「いえ」


「驚いとる?」


「はい」


「嬉しか?」


少し、時間がかかった。


「はい」


晴美は、息を吐いた。


それから、いつもの声に戻った。


「行ったらよか。モスクワ」


「でも」


「その前に、籍入れとこ」


晴美は、赤いペンを手に取って、また置いた。


「産むのは、福岡。お母さんのそばで。うちの地元じゃ、みんなそうする」


「一緒に、モスクワに」


言いかけた。


晴美は、首を振った。


「モスクワで産むとは、ちょっと怖か。言葉もわからんし、冬は長かし、病院もよう知らんし」


晴美が、先に言った。


自分が言えずにいたことを。


新聞で読んでいた、ロシアの病院の話。九〇年代の話。どこまで本当で、どこまで古い話なのか、自分にもわからない話。


それを、晴美が先に言ってくれたことに、ほっとした。


ほっとしたことが、少しだけ、後ろめたかった。


「一人で、行けると?」


「行けます」


「毎日、連絡して」


「はい」


「長いのはいらん。一行でよか。生きとる、って」


晴美は、指を一本立てた。


「中身は、なくてよか」


三十秒ごとの、空っぽの電文のことを思った。


生きている、と言っているだけの。


「ハートビートですね」


「なんそれ」


「生きてる、って言うだけの電文です。コンピューター同士が、三十秒ごとに送り合う」


「三十秒ごとは、多か。一日一回でよか」


晴美は、笑った。


それから、テーブルの上の二本の線を、両手で包むように持った。


翌朝、サイモンに言った。


「行きます」


「そうか」


「その前に、日本で結婚します」


サイモンは、珍しく、目を丸くした。


それから、手を差し出した。


握手は、ハーパーほど強くなかった。


ダニーほど、弱くもなかった。


「おめでとう。子どもが出来ても、寄宿学校には、入れるなよ」


十二月の初め、ダニーとパブに行った。


立ったまま、ぬるいビールを飲んだ。


「結婚して、子どもができて、東へ行くのか」


「はい」


「一か月で、人生を三つ変える男」


「はい」


ダニーは、笑った。


「奥さんと子どもは、日本に置いていくんだな」


「子どもは、妻の実家で産みます。日本の習慣です」


「妻の、実家で」


「はい」


ダニーは、ビールを半分飲んで、言った。


「お前の国の家族の話は、聞くたびにわからなくなる」


「私も、わからなくなってきました」


「いいことだよ、たぶん」


ダニーは、グラスを持ち上げた。


「向こうじゃ、全員が長男なんだろうな。たぶん」


「どういう意味ですか」


「知らない。適当に言った」


それから、言い直した。


「次男に。それから、父親に」


「次男に。父親に」


乾杯した。


十二月の半ば、イズリントンのアパートを引き払った。


持っていくものは、多くなかった。


着替えと、ノートと、方眼紙の束。


年鑑は、半分を置いていった。


チャリング・クロス・ロードで買った、色の褪せた薄い本は、鞄の一番上に入れた。


ヒースローへ向かうピカデリー線に、晴美と並んで座った。


晴美は、乗ってすぐ、肩にもたれて眠った。


窓の外を、煉瓦の家の裏側が流れていった。


同じ形の家が、ひとつずつ、壁で隔てられて並んでいた。


十年前、最初に見たときと、同じ景色だった。


今度は、何が違うのか、少しだけわかる気がした。


十六


福岡に着いたのは、十二月の二十日だった。


晴美の実家は、市の西の、山に近い住宅地にあった。


二階建ての家の裏に、平屋の小さな家が、もう一軒あった。


窓に、段ボールが積まれているのが見えた。


「あれが、ばあちゃんの隠居屋。今は、物置き」


晴美の父親は、玄関で頭を下げた。


大きな人だった。バスの運転席に、何十年も座っていた人の、背中の丸みがあった。


「遠いところから、よう来んしゃった」


母親は、エプロンのまま、台所から出てきた。


晴美と、よく似た目をしていた。


夕飯は、水炊きだった。


四人で、鍋を囲んだ。


父親が、ぽつりぽつりと話した。


「うちは、子どもには頼らんけん。晴美にも、弟にも、そう言うとる」


「はい」


「年取ったら、二人でマンションにでも移る。この家は、売ってもよか」


「売っても」


「子どもが住まんのに、残してもしょうがなか」


晴美の母親が、鍋に鶏を足しながら言った。


「その代わり、孫の顔は、しっかり見せてもらいますけんね」


「はい」


「うちで産むとやろ。何もせんでよか。全部、うちがやる」


晴美が、横で笑った。


「お母さんは、こればっかりは譲らんとよ」


二十四日に、区役所で籍を入れた。


窓口で、書類を一枚出しただけだった。


職員の女性が、はい、受理しました、おめでとうございます、と言った。


それで、終わりだった。


外に出ると、よく晴れていた。


晴美が、空を見上げて言った。


「なんか、あっけなかね」


「はい」


「ロンドンの銀行の行列のほうが、長かった」


年末に、二人で富山に行った。


雪が降っていた。


母は、玄関で、晴美の手を取った。


「よう来られた。寒かったやろ」


兄と、兄の妻が、奥から出てきた。


父の写真が、仏壇の上から、こちらを見ていた。


夕方、台所から、声が聞こえた。


のぞくと、晴美が、兄の妻の横に立って、大根を切っていた。


誰にも言われていないのに。


母が、ガス台の前で、それを見ていた。


晴美は、大根を切り終わると、手を拭いて、座敷に来た。


こちらの隣に、座った。


誰にも言われていないのに。


兄の妻が、少し驚いた顔をしていた。


母は、何も言わなかった。


夜、母と二人になったとき、母が言った。


「いい人を、見つけたね」


「はい」


「あの人は、台所にも立つし、座敷にも座る」


「はい」


「どっちにも、自分で決めて行く」


母は、湯呑みを両手で包んでいた。


「私は、そういうふうには、できんかった」


驚いて、母の顔を見た。


母は、笑っていた。


「あんたは、ちゃんと家族を作られ。好きにせられ、やなくて」


年が明けて、一月の十日。


福岡空港の出発口で、晴美が手を振った。


お腹は、まだ目立っていなかった。


「毎日、一行」


「はい」


「生きとる、でよか」


「はい」


「中身は、なくてよか」


保安検査の列に並んだ。


振り返ると、晴美は、まだそこに立っていた。


隣で、晴美の母親が、娘の肩に手を置いていた。


東京で乗り継いで、モスクワへ向かう。


飛行機の窓から、玄界灘が見えた。


冬の海は、灰色だった。


クレアの見ていた能登の海も、冬はずっと灰色だった、と思った。


ノートを開いた。


最初のページに、毎年書き写してきた一行があった。


数字を出さなくなった国。


遠くなる。


その下に、書き足した。


一日一行、送る。


第二部 了

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