最後に 二〇四五
一
二〇四五年、六月。
朝の五時半に、目が覚めた。
七十七歳になっていた。
隣の布団で、晴美が、まだ眠っていた。
七十歳を過ぎてから、晴美は、朝が遅くなった。
起こさないように、そっと、布団を出た。
左の手首に、細い帯が、巻いてあった。
三年前に、結が、買ってきたものだった。
心臓の鼓動を、測る。
三十秒ごとに、その数を、結の端末に送る。
鼓動が止まったり、乱れたりすれば、結の端末が、知らせる。
「ハートビートって、言うとよ。この機能」
結は、最初にそれを巻いてくれたとき、そう言って、少し笑った。
「パパの、ノートの一行目と、同じ名前」
晴美の手首にも、同じものが、巻いてあった。
台所に行った。
流しに、昨夜の皿が、少し残っていた。
湯を出した。
手首の帯を外して、窓辺に置いた。
帯は、水に強いと、結は言っていた。
それでも、外すのが、癖になっていた。
皿を洗うときには、手首に何もないほうがいい。
イリヤの母親の台所で、布巾を渡されたときも。
富山の家の台所で、兄の妻と並んだときも。
手首には、何もなかった。
皿を、一枚ずつ、洗った。
窓の外が、少しずつ、明るくなっていった。
中央線の始発が、通っていった。
五十年以上、聞いてきた音だった。
荻窪のアパートで。三鷹のマンションで。
音は、変わらなかった。
電車は、何度も新しくなった。
音だけは、変わらなかった。
皿を拭き終わるころ、窓辺の帯が、小さく光った。
端末に、一行が届いていた。
パパ、生きとる?
結だった。
帯を外していた、七分間。
三十秒ごとの数字が、結の端末に、届いていなかったのだ。
十四回。
来るか、来ないか。
来ないことだけが、確かに起きていた。
手を拭いて、帯を手首に巻き直した。
それから、返した。
生きてる。皿を洗っていた。
すぐに、返事が来た。
やっぱり。いつもそれ。外さんでよかって言いよるやん。
癖なので。
知っとる。
少しして、もう一行。
ママは?
寝室のほうを、見た。
布団の中で、晴美が、寝返りを打つ音がした。
生きてる。まだ寝ている。
よかった。
結は、四十歳を前にして、娘が一人いた。
九歳になる、孫だった。
名前は、結がつけた。
灯。
「あかり、って読むと。暗いとこでも、見えるように」
結は、そう言っていた。
「パパの、方眼紙の線みたいに」
灯が、パパのノートの話、また聞きたいって。今度の日曜、行ってよか?
いいです。
どこから話すと?
少し、考えた。
アークヒルズの地下の、蕎麦屋から。
ジュリアンの、割り箸から。
もう何十回も、結に話してきた話だった。
灯にも、もう三回、話していた。
話すと、長いです。
すぐに、返事が来た。
長くてよか。
窓の外が、すっかり明るくなっていた。
隣の小学校の校庭で、誰かが、ラジオ体操の準備をしていた。
五十年前、この国では、年に百二十万人の子どもが生まれていた。
今は、その半分を、少し切っていた。
赤ん坊が、一歳になる前に死ぬ数は、千人あたり、一人と少しになっていた。
世界で、いちばん低い部類の数字だった。
方眼紙の線は、とうの昔に、床に張りついて、平らになっていた。
これ以上は、下がらない、という形だった。
その平らな線の、千人のうちの、九百九十九人の中に、結がいた。
灯がいた。
数字は、今でも、一人のことは、知らない。
書斎に行った。
机の上に、ノートが一冊、開いたまま置いてあった。
四十四冊目だった。
最初のページに、五十二年分の書き写しがあった。
数字を出さなくなった国。
遠くなる。
一日一行、送る。
渡した。
その下に、鉛筆で、書いた。
06:12 生きとる?
06:13 生きてる。
少し考えて、書き足した。
何も起きなかった。
寝室から、晴美が起きてくる音がした。
足音が、ゆっくり、台所のほうへ向かっていった。
流しの前で、止まった。
「あら。もう、洗ってある」
晴美の声がした。
それから、少しして、晴美が、書斎の入口に立った。
髪が、白くなっていた。
福岡空港の出発口で、手を振っていたときと、同じ目をしていた。
「生きとる?」
晴美が、訊いた。
「生きてる」
晴美は、うなずいた。
「うちも」
手首の帯が、三十秒ごとに、小さく光っていた。
光るたびに、数字が一つ、どこかへ送られていった。
中身のない数字。
生きている、と言っているだけの。
了




