持続不能なドーピングと泥の現実
本日2話目です。
山越えから戻ってきた大人たちが広場に入ってくると、それまで静まり返っていた集落の空気が一気にざわめき始めた。
ずぶ濡れの背負い籠を泥の地面に下ろし、腰をさすりながら歩いてきた男や女たちが、立ち上る油と香ばしい匂いに釣られるようにして、自然と炊事場へと足を向けてくる。
「いい匂いだな。腹が減って目が回りそうだ、二つくれ」
大人たちが笑いながら、雨で湿ったポケットからくしゃくしゃの小額紙幣や小銭を引っ張り出す。
丸顔の少年は誇らしげに胸を張り、妹が小さな手でバナナの葉に揚げ団子を包んで手渡していく。
口に放り込んだ大人たちの眉が、跳ね上がるように動いた。
「おい、これなんだ? いつもの団子とまるで違うぞ」
山越えの重労働で塩気を欲していた体に、ガーリックの輪郭と焙煎黒胡椒の鋭い刺激、そして岩塩の塩分が過剰なほど分かりやすく突き刺さったらしい。噂はあっという間に広場の端まで届き、買い出し帰りの村人たちが次々と列を作った。
用意していた団子は、ものの十分足らずで空になった。
底の焦げ付きだけが残った鉄鍋を見つめ、子どもたちは飛び跳ねて歓声を上げる。少年は集まった小銭の束をぎゅっと握りしめ、僕に向かって満面の笑みで親指を立ててみせた。
だが、その熱気は長くは続かなかった。
人波が引けて静まり返った炊事場に、濡れた作業着のままの男が一人、泥だらけの長靴を鳴らして入ってきた。少年の父親だ。
男は空になった捏ね鉢と、子どもたちが握りしめている小銭をじっと見比べ、それから調理台の隅に置いてあった僕の十徳ナイフと、わずかにこぼれていたスパイスの粉末に視線を止めた。
父親はカシ語で少年に低く問い詰めた。
少年の顔からみるみる得意げな色が引いていき、視線を泳がせながら、おずおずと僕の方を指差す。
父親は短いため息をつくと、僕の方へ向き直った。怒鳴り散らすような荒々しさはない。だが、深く刻まれた眉間の奥にある眼差しは、酷く静かで重かった。
「ミスター・ジャパン」
片言の英語と身振り手振りを交えながら、男は淡々と言葉を継いだ。
「あんたが親切でやったのは分かる。美味いものを作って、子どもを喜ばせたかったんだろう」
「ええ、少し手伝っただけです」
「だが、これはこの子の力じゃない」
父親は台の上に残っていたスパイスの粉を人差し指でぬぐい、そのまま自分の舌に乗せた。
「こんな香りのいい粉、この山じゃ手に入らない。ふもとのバザーにだって売っちゃいない。あんたの持ってきたその粉、どこでいくらで買えるんだ? この子が明日また自分で店をやるとき、仕入れてこられるのか?」
「それは……」
「手に入らないものを使って『美味い』と買わせても、次は続かない。あんたが日本へ帰ったら、この子は次からどうやって団子を作るんだ? 『前より不味くなった』って客に言われて終わりだ」
冷水を浴びせられたように、言葉が喉の奥でつかえた。
東京で飲食の現場を回していた頃、僕は「いかに安定した規格の調味料や加工品をサプライチェーンから引っ張ってきて、誰が作ってもブレない味と売上を作るか」ばかりを最適解として考えていた。
けれど、その『当たり前』は、毎日トラックが走り、問屋から決まった時間に荷物が届くという前提の上でしか成立しない。
流通が雨で遮断され、外部からの補給が望めないこの孤島のような山の上で、外部の完成されたリソースを安易に落とし込んで一時的な成功を作ってみせることは、助けでも教育でもない。その場限りのドーピングで現場のリズムを狂わせているだけだ。
ここで求められているのは、自分たちの手で畑から引き抜いてこられる泥だらけの根菜と、手近にある生姜や塩だけで、明日も明後日も泥臭く回し続けられる仕組みのほうだったのだ。
「すみませんでした。僕が間違っていました」
僕が頭を下げると、父親はふっと肩の力を抜き、少年の頭に泥のついた大きな手を乗せた。
「分かればいい。さあ、戻るぞ。今日は泥大根のスープだ」
父親は少年を促し、家の方へと歩き出した。
少年は悔しそうに一度だけ僕を振り返り、それから父親の少し曲がった背中を追って小走りに駆けていく。
薄暗くなった炊事場のトタン屋根を、再びポツポツと冷たい雨が叩き始めていた。
ポケットの中にあるアルミケースの固い感触を指先で確かめながら、僕は一人、水で流された鉄鍋を見つめた。
便利な調味料に頼るのをやめて、この山の痩せた大根と生姜の辛味だけで、どうやって日々の食卓を成立させるか。外から持ち込んだ正解が通じない場所で何かを拵えるというのは、思っていたよりもずっと手間の掛かる、厄介な作業のようだった。




