山岳の歩留まりと秘密のスパイス
すみません、2日連続19時の投稿を飛ばしてました。朝で7時、8時、9時で3話投稿しますね。
三日三晩降り続いていた豪雨がふっと途切れ、朝から珍しく山肌の隙間に青空が覗いた。
だが、村の空気はいつも以上に落ち着きがない。男たちも女たちも、竹で編まれた背丈ほどもある巨大な背負い籠を引っ張り出し、昨日まで煙に燻されていた豚の干し肉や干し唐辛子、それに器用に編んだ竹細工の籠を隙間なく詰め込んでいる。
「今日は何があるんですか?」
軒先で煙草をふかしていたラールに声をかけると、彼は手早く紐を縛り上げながら視線だけを寄越した。
「月に一度のバザーだ。ここから山を三つ越えた尾根の広場に、周りの村から連中が集まる。塩や油、トタン板を仕入れてくるんだよ。足腰が動く大人は全員駆り出される」
見れば、大人たちは皆、それぞれの背負い籠を担いでぬかるんだ坂道を一列になって登り始めていた。
村に残るのは、留守番の老人と子どもたちだけだ。
ところが、大人たちの背中が見えなくなった途端、残された子どもたちの動きが俄然慌ただしくなった。僕にカシ語を仕込んできたあの丸顔の少年とその妹を筆頭に、十人ほどの子どもたちが広場の共同炊事場に集まり、小さな頭を突き合わせて何やらヒソヒソと相談を始めている。
「何してるんだ?」
僕が近づくと、少年は得意げに鼻を鳴らした。
「バ・ダイ・ジャ!(ご飯を売るんだ!)」
片言の単語を拾い集めるに、どうやら大人たちが買い出しから戻ってくる夕暮れに合わせて、自分たちで軽食を作って売りつけるつもりらしい。大人たちも長旅の山越えで腹を空かせて帰ってくるし、子どもたちに小銭を落として「商売の練習」をさせるのが、この集落の昔からの決まり事なのだという。
なるほど、子ども主導の模擬店というわけか。
東京で飲食の現場に立ち、仕込みの動線から客単価の計算まで散々やってきた身としては、こういう泥臭い現場の立ち上げを見るとどうしても身体が反応してしまう。
「よし、僕も仕込みを手伝うよ」
腕まくりをして、子どもたちの調理場に割り込んだ。
だが、彼らが広場のあちこちからかき集めてきた材料を見て、思わず言葉が詰まる。小さな籠に入った指先ほどの細っこい赤大根が数本、端が少し萎びた生姜、あとは底にわずかに残った雑穀の粉と、薄く底を濡らす程度の油だけだ。これで一口大の揚げ団子を作るのだという。
「まずは大根の皮むきだな」
僕は十徳ナイフを取り出し、日本の厨房で新人に手本を見せる時のように、大根の皮をやや厚めに手早く削ぎ落としていった。硬い筋をあらかじめ外しておき、口当たりを滑らかにするための、料理人としてはごく当たり前の下処理だ。
――バシッ。
いきなり横から伸びてきた小さな手が、僕の手首を容赦なく叩いた。
「クィ! ダン・バ・ビエッ!(何やってんだ、この間抜け!)」
丸顔の少年が、眉間に深い皺を寄せて僕を睨みつけている。彼が指差すまな板の上には、僕が落としたばかりの分厚い皮の帯が転がっていた。
「皮を分厚く切りすぎだ! この山で野菜がどれだけ手に入らないか分かってんのか! そこも全部食うんだよ!」
妹の方も腰に手を当て、兄とまったく同じ顔で僕を睨み据えている。
東京で店を軌道に乗せて人に任せてきたはずの元オーナーが、標高千メートルの泥山で、八歳そこらの子どもに仕込みの歩留まりについてガチのダメ出しを食らっていた。
「す、すみません」
思わず反射的に日本語で頭を下げてしまった。
東京の店なら「客の舌触り」や「見栄え」を優先して迷わずゴミ箱に放り込む端材も、流通が完全に断たれたこの山の上では、運ぶだけで半日かかる貴重なカロリーそのものなのだ。都会の厨房で振りかざしていた自分の『丁寧な仕事』の基準が、環境が一つズレるだけで、ただの無自覚な浪費に化けてしまう。
深く反省し、ナイフの刃先を立てて、表面の泥と薄皮だけをこそげ落とすように削り直した。
少年はふんと鼻を鳴らしてようやく納得したように頷くと、すり鉢で潰した生姜と雑穀粉を合わせ、手際よく捏ね始めた。
だが、子どもたちが丸めた生地を少し味見させてもらうと、正直かなり淡白だった。塩気が薄く、生姜の尖った青臭い辛味だけが浮いている。山を三つ越えて泥だらけで戻ってくる大人たちの舌には、これだと少し物足りないかもしれない。
ちょっとだけ、手を入れてやるか。
僕はザックの底から、携行食の隙間に突っ込んであった小さなアルミケースを取り出した。
中に入っているのは、東京の厨房で配合を試行錯誤していた頃の特製スパイス――クミンをベースに、焙煎した黒胡椒、わずかなガーリックパウダー、それに岩塩を調合したものだ。
子どもたちが薪の火加減に気を取られている隙を見計らい、僕はその粉末を、捏ね鉢の端の生地へほんの耳かき二杯分ほど振り落とし、指先で素早く練り込んだ。
油を引いた鉄鍋に生地を落とすと、ジュウジュウと小気味よい音が立ち上り、土間の空気を震わせる。
鍋から立ち上るスパイシーな香気に、子どもたちが一斉に作業の手を止め、喉を鳴らした。
「よし、これで大人たちを迎え撃つか」
夕暮れ時、谷の底から這い上がってきた霧の向こうで、重い足音が響き始めた。
買い出しを終えた大人たちが、背負い籠を泥で汚しながら、一人、また一人と村へ戻ってくるのが見えた。




