缶切りと、雨宿りの手札
翌朝、耳をつんざくようなトタン屋根の轟音で目が覚めた。
豪雨という言葉が生ぬるい。文字通り滝の真下に家ごと放り込まれたような水音が、薄暗い板張りの部屋全体をビリビリと震わせている。床板の隙間からは白く濃い霧が這い込んできて、合羽を脱いでいるのに肌がじっとりと湿る。
これでは一歩も外に出られない。
村の大人たちも畑や山の普請に出るのをあっさり諦めたようで、土間の中央にしつらえられた炉のまわりには、自然と近所の住人たちが集まってきていた。
パチパチと湿った薪が爆ぜる音と、時折交わされる低いカシ語の呟き。雨音が大きすぎるせいで、すぐ隣の人間と話すのにも腹から声を出さなければならず、やがて誰もが言葉を飲み込んでいく。家の中に、湿気を含んだ気だるい退屈が濃密に溜まっていった。
そんな中、退屈を持て余したあの子どもたち――昨日僕に言葉を教えてくれた丸顔の少年とその妹が、土間の隅に置いてある僕の防水バックパックに目をつけていた。
何が入っているのかと、チャックの金属パーツを恐る恐る指先でつまんで引っ張っている。
「おいおい、勝手に開けるなよ」
僕が苦笑いしながら近づくと、二人はびくっと肩を跳ねさせたが、逃げようとはしなかった。少年の目が「中を見せてくれ」と雄弁に訴えている。どうせやれることもない。僕はバックパックの止水ジッパーを開け、中身を一つずつ引っ張り出して見せてやることにした。
予備のヘッドライト、十徳ナイフの缶切りやハサミ、虫除けスプレー、胃腸薬の銀色のシート。
子どもたちはそれらを手にとって裏返したり匂いを嗅いだりしては大はしゃぎし、炉端で煙管をくわえていた大人たちまで、物珍しそうに首を伸ばして覗き込んでくる。
そして、底の隙間からプラスチックの小さなケースが出てきた。
日本を出る前、空港の売店で気まぐれに買い足したトランプのデッキだ。
「……ト・ウ・ネ?(これは何だ?)」
少年がケースを指差す。
僕は中からカードを取り出し、五十四枚の束を扇形に広げて見せた。赤と黒の数字、スペードやハートの幾何学的な記号が、煤けた薄暗い土間の中で妙に鮮やかに浮き上がる。
「ゲームだよ。遊び道具」
もちろん言葉は通じないが、子どもたちの目がらんらんと輝いた。遊び方を教えろ、と妹が僕の腕を引っ張る。
さて、何ならできるだろうか。数字の大小とルールが直感的にわかりやすいもの――まずはシンプルな『ババ抜き』から試すことにした。
床に座り込み、少年と妹、そして興味津々で寄ってきた隣の家の男を一人巻き込んで、四人で車座になる。
カードを配り、同じ数字を二枚揃えて捨てていく仕草を実演してみせる。ジョーカーのピエロの顔を指差して、「こいつを持ったまま最後になった奴が負けだ」と大げさに首をすくめるジェスチャーをすると、少年は一瞬でルールを飲み込んだようだった。
「……こうか?」
「そう、同じ数字を捨てる。で、隣のカードを一枚引く」
ゲームが始まると、場の空気は一変した。
最初は様子見だった子どもたちが、ジョーカーを引くたびに「うわっ」と声を上げて身悶えし、手札を隠す顔に露骨に焦りを浮かべる。それを見ていた炉端の大人たちから野太い笑い声が上がった。
二回戦、三回戦と進むうちに、見物していた大人たちも我慢できなくなったらしい。村長のバハドゥルさんまでパイプを置いて輪に加わり、最後の一騎打ちでジョーカーを引かされた頑固そうな老人が頭を抱えると、トタン屋根の雨音をかき消すほどの爆笑が土間に響き渡った。
外は相変わらずの土砂降りで、視界は真っ白なままだ。
だが、さっきまでの重苦しい退屈はどこへやら、土間は熱狂的なゲーム会場のような熱気に包まれていた。
夕方近くになり、ようやく一息ついたところで、少年が僕のシャツの裾を強く引っ張った。
手には、もう一組のカードを求めるような仕草。どうやら自分の家にも持ち帰って兄弟とやりたいらしい。隣の家の男も、酒の入った竹筒片手に「俺の家用にもくれ」と身振り手振りでせがんでくる。
「いや、トランプはこれ一つしかないんだよ」
僕が両手を広げて見せると、少年は僕のバックパックに手を突っ込み、奥から引っ張り出したものを僕の膝にドンと置いた。
――日本から持ってきていた、新品のスケッチブック三冊。
「……嘘だろ」
少年は太い油性ペンを僕の手に握らせ、スケッチブックの表紙をバシバシと叩いた。「描け」ということだ。
見れば、まわりの大人たちもニヤニヤしながら僕の周りを取り囲んでいる。
雨の音に閉じ込められた山奥の家で、僕はため息をつきながらスケッチブックの最初のページを破った。
手頃な大きさに紙をちぎり、ハートのエース、ダイヤの2、スペードの3……と、一枚ずつペンで手描きしていく内職が始まった。
東京で店舗を回していた頃は、仕入れルートの確保だの在庫管理だのと、出来合いの資材をいかに効率よく調達して現場に流し込むかばかりを計算していた。だが、流通もインフラも雨で完全に遮断されたこの場所では、「ないものは手元にある紙とペンでその場で作る」という、泥臭い現地調達のサイクルが当たり前に立ち上がる。
八億円当てて店を人に任せ、はるばるインドの秘境までやってきたはずの元居酒屋オーナーが、今や村人総出に囲まれながら、延々と手製トランプを量産させられている。
「……水谷君が見たら、腹抱えて笑うだろうな」
外の雨音を聞きながら、僕は苦笑い交じりにペンを走らせた。
スケッチブックの紙が尽きるまで、僕の雨宿りはまだまだ終わりそうになかった。
次は19時更新です。




