煤の要塞と黒胡麻の肉
スケッチブックの余白がカタカナのメモと子どもたちのつけた泥の指紋で黒く染まる頃には、身振り手振りに覚えたての単語を乗せるだけで、村の連中と最低限の意思疎通が成立するようになっていた。 言葉の輪郭が少しずつ掴めてくると、それまでただ「雨の音に塗り潰された不便な集落」に見えていた村のディテールが、じわじわと解像度を上げて立ち現れてくる。
昼下がりのバハドゥルさんの家には、近所の男たちや女たちが雨宿りついでにふらりと立ち寄っては、土間の隅で腰を下ろして言葉を交わしていた。 中央にしつらえられた低い炉には、昼夜を問わず薪がくべられている。湿気を吸った木がパチパチと爆ぜるたび、青臭く重たい煙が立ち上り、薄暗い部屋の天井付近に分厚い灰色の層を作って滞留していた。 あまりの煙たさに目をしばたたかせていると、手伝いに来ていたあの子どもたちの母親――名をメバといったか――が、竹筒に汲んだ水を差し出しながらくすくす笑った。
「ト・ウ・トゥン?(煙たいかい?)」 「トゥン。かなりね」
僕が涙目になりながら顔をしかめると、彼女は慣れた手つきで炉の真上に吊るされた竹の棚を指差した。 見上げると、煤で真っ黒になった棚の上に、無数の肉の塊が幾重にも吊るされている。皮がついたままの豚の塊肉だ。
「ド・スニアン(豚肉)」
メバが短く教え、棚から小ぶりの塊を一つ外して見せてくれた。 表面はヤニと煤でカチカチに硬化していて、まるで黒い木の化石のようだ。だが、ナイフを当てて薄く外皮を削ぎ落とすと、中からはしっとりとした艶やかな赤身と脂身が顔を出した。鼻を近づけてみると、鋭い燻製の香りと、熟成した肉特有の濃密な脂の匂いが立ち上ってくる。
「これ、どれくらい吊るしてるの?」 「ライ(三)」
横から口を挟んだ村長が、無造作に指を三本立てた。ライ・ブネイ――三ヶ月。この様子だと、季節をまたいで煙を浴びせ続けているのだろう。
「この山じゃ、肉も野菜も一日でカビが生えて腐る。だが煙を通し続ければ、雨の中でも半年は保つ」
バハドゥルさんの英語交じりの説明を聞きながら、僕は天井の梁や屋根裏を見上げた。 よく見れば、肉だけではない。竹を編んだ壁も、茅葺きの裏側も、家を支える太い柱も、すべてが同じ飴色の煤でびっしりとコーティングされている。 東京の厨房なら、ダクトの清掃不良として一発で保健所の指導が入りそうな光景だ。だがここでは、年中降り続く暴力的な雨と湿気から家そのものを腐敗から守り、虫を追い払い、食糧を長期間ストックするための防護壁として機能している。煙を外へ逃がす煙突を作らないのも、排熱と木タールを家屋全体に行き渡らせるための必然なのだろう。
夕方になり、メバがその干し肉をナタのような幅広の包丁で手荒にぶつ切りにし、すり潰した生姜と野生の唐辛子、それに黒胡麻のペーストと一緒に鉄鍋へ放り込んだ。 調味料は塩と少量の油だけ。だが、薪の強い火力でじっくり煮込まれるうちに、燻製肉の脂とスパイスが溶け合い、土間いっぱいに食欲をそそる濃厚な香りが充満していく。 皿に盛られた赤黒い豚の煮込み――『ド・ネイ(黒胡麻豚肉煮込み)』を、炊きたての固い赤米の上に乗せて口に運ぶ。 噛み締めた瞬間、燻した煙の香ばしさと、豚の凝縮された旨味が口いっぱいに広がった。強烈な唐辛子の辛味が舌を刺すが、米の甘みと胡麻のコクがそれを包み込み、気づけば夢中でスプーンを動かしていた。
「バム・ジャ、バ・ティン!(ご飯、美味い!)」
僕が覚えたての言葉を叫ぶと、土間のあちこちからドッと笑い声が上がった。 昼間僕に言葉を教えてくれた丸顔の少年が、得意げに僕の背中をバシバシと叩く。 冷蔵庫もなければ、真空包装機もない。すべてが湿気で腐り落ちていく世界で、ただ煙を焚き続けるという手作業の積み重ねだけで、食べ物を守り、家を長持ちさせている。 ピリピリと痺れる舌を竹筒の濁酒で流し込みながら、僕はなんだか、東京の厨房で温度計や消費期限のラベルとにらめっこしていた頃の自分が、ずいぶん遠い世界の住人のように思えてならなかった。衛生管理の数値で固められた世界の外側にも、こうして壊れずに何世代も回ってきた生活の形がちゃんとあるのだ。
次は19時に投稿します、




