足元の食材と即席のカニ油
本日3話目です
翌朝、耳をつんざくような雨音は少し落ち着き、あたりはしとしととした霧雨に包まれていた。
外へ出ると、共同炊事場の石段の端に、丸顔の少年――名をドンといった――が一人で膝を抱えて座り込んでいるのが見えた。足元には、昨日使い残したわずかな雑穀粉の袋と、泥のついた大根が転がっている。
近づく足音に気づいたドンは、バツが悪そうに視線を泥の地面へと落とした。
「ドン」
声をかけると、彼は小さな声で「ダン・バ・マイ(叱られた)」と呟いた。
父親から正面切って食らったあの説教が、よほど骨身に沁みているのだろう。
「悔しいよな。でも、お前の父ちゃんの言った通りだよ。持ってきた粉で一時しのぎの美味さを作っても、次には繋がらない。この山にあるものだけで、昨日より美味いもんを作ろう」
言葉の半分も通じていないはずだが、僕がポケットから昨日のアルミケースを取り出し、わざとバックパックの奥底へ仕舞い込んでジッパーを引いてみせると、ドンは目を瞬かせた。
「シェット・ジャ?(作るか?)」
僕が笑いかけると、ドンの顔にパッと色が戻り、跳ねるように立ち上がった。
彼は炊事場から竹籠を二つ掴むと、僕の手首をぐいぐいと引っ張った。
「ト・レイト・クロー!(森へ行くぞ!)」
亀の甲羅のような編み笠、クヌップを背負い、雨水が滝のように滴るジャングルの斜面へと分け入っていく。
僕の目にはただの鬱蒼と濡れそぼる木々の塊にしか見えていなかった山肌が、ドンの案内で歩き始めると、まるで巨大な食材のストックヤードのように見え方が変わっていった。
ドンはぬかるんだ急斜面を軽快に駆け上がり、濡れた岩肌に張り付く青々とした野草を指差した。
「ジャイウル!」
ちぎって渡された葉を少し噛んでみる。
山椒とミントを掛け合わせたような、舌先がピリピリと痺れる強烈な柑橘香が鼻腔を突き抜けた。野生の山椒に近い低木の実や葉だ。
さらに歩くと、谷沿いの湿地に生える太いイタドリのような茎をポキリと折り、外皮を剥いて見せてくれた。かじると、梅干しのような鮮烈な酸味がじわっと舌の上に広がる。
東京の厨房なら、問屋に電話一本入れれば規格化された香辛料の瓶が翌朝には届く。だが、流通が途絶えたこの森には、酸味を持つ草や、舌を麻痺させる木の実、香りの強い樹皮が、年中降り注ぐ雨の水分を吸ってそこらじゅうに勝手に自生していた。
二人で籠いっぱいに野草と山菜をもぎ取り、谷川の苔むした岩陰から小さな沢ガニを十数匹ほど捕まえて、炊事場へと戻った。
仕込みの開始だ。
まずは大根。昨日のように無駄に皮を剥くのではなく、ナイフの背で泥を削ぎ落とし、皮ごと細かく刻んでいく。そこにすり潰した生姜と、森で採ってきた痺れる野草の葉を刻んで混ぜ込んだ。
さらに、捕まえてきた沢ガニをすり鉢に入れ、殻ごと力任せに叩き潰す。
熱した鉄鍋に少量の油を敷き、潰したカニをじっくりと炒める。
香ばしい甲殻類の匂いが煙とともに立ち上り、油の中にカニ味噌の旨味と濃厚な朱色の脂が溶け出していく。即席のエビ油ならぬ『カニ油』だ。
そのカニ油を、刻んだ大根と雑穀粉の生地に余さず練り込む。
仕上げに、イタドリに似た野草の酸味ある果汁を少し絞り、全体の輪郭を引き締めた。
「どうだ、揚げてみよう」
丸めた団子を鍋の油に落とすと、ジュワッと小気味いい音が弾けた。
立ち上った香りは、昨日の異国のスパイスとはまるで違う。
燻製と泥の匂いに満ちたこの村の空気にぴたりと馴染む、野草の清涼感と、香ばしいカニの芳醇なアロマだ。
からりと揚がった団子を、バナナの葉の上に引き上げる。
熱々のやつを一つ、ドンと半分こにして口に放り込んだ。
奥歯が熱い生地を噛み砕いた瞬間、思わずドンと顔を見合わせた。
雑穀の素朴な甘みの中から、カニ油の力強いコクが広がり、大根のシャキシャキとした食感とともに、山椒のような野草の痺れと爽快な香りが鼻に抜ける。
塩とわずかな油以外は、すべてこの山で拾い集めてきたものだけで作った団子だ。
「バ・ティン! バ・ティン・シシャ!(美味い、めちゃくちゃ美味い!)」
ドンが飛び跳ねて叫んだ。
外は再び雨脚が強まり、トタン屋根が低く唸るような音を立て始めている。
東京にいた頃の僕は、外部から優れた素材や調味料を仕入れ、それを決まったレシピ通りに組み上げることばかりを考えていた。けれど、外からの供給が完全に断たれたこの山の上では、足元に生えている草の酸味や川底のカニの殻といった、手に入るものだけで味の辻褄を合わせていくしかない。
何か足りないものがあれば、外から買ってくるのではなく、泥の中から手探りで代わりを探し出して形にする。そういう泥臭い手当ての積み重ねで回っている暮らしの強さみたいなものが、湯気の立つ団子の向こうに、少しだけ見えたような気がした。




