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乳酸の地酒と生き抜くための酸味

 生きた根の橋を渡りきり、濡れそぼる鬱蒼としたシダのトンネルを抜けたところで、前を行くラールが足を止めた。

 水滴を弾く巨大な亀笠の縁を押し上げ、彼が顎で前方を指す。

「おい、顔を上げろ。着いたぞ」

 肩で息をつきながら視線を上げると、白く濁った濃霧の切れ目から、急峻な山肌にへばりつくようにして建ち並ぶ高床式の家屋群が姿を現した。トタン屋根を激しく打ち据える雨音が幾重にも重なり合い、谷全体が地鳴りのような重低音に包まれている。

 宮本さんの写真で見た、あの『雲の村』だ。

 だが、印画紙という乾いたメディアからは絶対に伝わってこない生々しさがそこにはあった。青臭い土と薪の煙、それに雨に濡れた家畜の獣臭が混ざり合った濃密な生活の匂いが、湿気と共に鼻腔の奥へねっとりと絡みついてくる。低い軒下からは日本人の子どもによく似た平たい顔立ちの幼児たちが顔を出し、泥まみれの異邦人を物珍しそうに指差していた。

「長の家に行く。紹介状を出せ」

 ラールに背中を押され、村の中央に位置するひときわ大きな木造家屋の濡れた木階段を上がった。

 軋む板張りの床に足を踏み入れると、トタンを叩く豪雨の轟音が一段と鼓膜を揺らす。薄暗い広間の奥、煤けた炉の傍らに、深い皺を刻んだ初老の男があぐらをかいて座っていた。

「村長のバハドゥルだ」

 ラールが短く告げ、現地の言葉で矢継ぎ早に何かをまくしたてた。

 僕はザックの防水ケースから宮本さんの手紙を取り出し、両手で差し出す。村長は無言でそれを受け取ると、手元の小さな油ランプの灯りに近づけ、時間をかけてじっくりと目を通した。やがて丁寧に紙を折り畳むと、細い目をさらに細めて口元をわずかに緩めた。

「ミヤモトの友人か。あの男には以前、崖崩れの際に貴重な薬を運んでもらった恩がある。お前がここに滞在する間、屋根と飯は保証しよう」

 流暢とは言えないが、低く落ち着いた英語だった。

 村長が短く手を叩くと、奥の暗がりから若い女性が素焼きの小さな甕と、斜めに切り落とされた青竹の筒を二つ運んできた。

「まあ座れ。雨の中を登ってきた客に、これを出さないわけにはいかん」

 竹筒に、白濁した液体が並々と注がれる。表面には細かな発酵の泡がぷつぷつと弾け、少し酸味を帯びた独特の穀物の香りがふわりと立ち上った。

「ライスビールだ。今朝搾ったばかりのな」

 ラールが横から口を挟む。

 今朝搾ったばかり――その単語に、喉の粘膜が反射的に反応した。

 東京で『ワタリガラス亭』をやっていた頃、客によく語っていた「ビールは工場の煙突の影が落ちる範囲で飲め」という鮮度の鉄則。最新の冷蔵設備や高速物流がどれほど発達しても、樽から抜いた瞬間、あるいは搾りたての液体が放つ躍動感だけは運ぶことができない。そんな飲食屋としての理屈が、この山奥の素焼き甕を前にして鮮烈に蘇る。

 竹筒を両手で持ち上げ、口をつけた。

 舌先を鋭く打ったのは、予想を上回る明確な乳酸の酸味だった。

 だが、腐敗の酸っぱさではない。日本のどぶろくや韓国のマッコリのような甘みは綺麗に削ぎ落とされており、野性味のある穀物の香りと、自然発酵によるチクチクとした微炭酸が舌を心地よく刺激する。後味は驚くほどドライで、喉を滑り落ちた直後、激しい雨行軍で冷え切っていた胃の腑がじんわりと温まり始めた。

「どうだ、日本の旦那」

 ラールがからかうような薄笑いを浮かべて僕の顔を覗き込む。

「美味いよ。酸味が鋭く効いていて、嫌な雑味がまったくない」

「ほう」

 村長がわずかに片眉を跳ね上げた。

「外国人は大概、この酸っぱさに顔をしかめるんだがな」

「日本の酒でも、昔ながらの生酛造りの酒なんかはこういう乳酸の酸味がしっかり出ます。それに、この息苦しいほどの湿気の中で飲むなら、甘ったるい酒よりこれくらい酸が立っている方が体にすっと入る」

 ビアパブのカウンターで常連にビールのスペックを解説する時の感覚で、舌が捉えた事実を言葉にしてみた。知識をひけらかす気はなかったが、村長は満足そうに深く頷き、手元の竹筒を一気に煽った。

「旅人の舌は正直だな。この雨の山じゃ、中途半端に甘いものは半日で腐る。酸が生きているからこそ、この甕の酒は俺たちの体を守り、腹の病を防ぐんだ」

 腑に落ちた。

 嗜好品としての洗練や味の流行以前に、この年中降り続く暴力的な雨と常時飽和した湿気の中で、雑菌の繁殖を抑えて液体を保全し、飲む人間の腸内環境を守るための必然として、この乳酸発酵の強い酸味が選ばれているのだ。

 生きた木の根を百年かけて編み、腐らない橋を架けるのと同じだ。この土地の人間は、喉を潤す一杯の酒にすら、過酷な自然の猛威をいなし、生き延びるための合理的システムを組み込んでいる。

 外では相変わらず、バケツをひっくり返したような豪雨がトタン屋根を叩き続けている。

 東京の店を水谷君に任せ、原価計算や損益分岐点の数字から遠く離れたこの山奥で、僕は竹筒に残った白い地酒をもう一口すすった。

 近代的な設備や冷蔵庫がなくとも、人間はその風土の理(ことわり)に合わせたやり方で、正しく美味い酒を醸し出している。その単純で揺るぎない事実が、雨の冷気に包まれた身体の芯へ、温かく染み渡っていくようだった。

酸味のつよい酒は脂っこい料理と合いますね。


とはいえこの村の酒の酸っぱさはそういうことではないようですが…


次は19時に投稿します。

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― 新着の感想 ―
ライスビールと聞いて、プライコーか!?と身構えたけど別物で、ずっとおいしそうだった。 じゃあこの、常梅雨(とこつゆ)の国の食べ物はどんななんだ!?気になってきた……!
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