生きた橋と百年の時間軸
食堂の引き戸を出た瞬間に、空がずいぶんと低くなっていることに気づいた。
ついさっきまで遠くの稜線の上に張り付いていたはずの鉛色の雲が、いつの間にか頭のすぐ上まで降りてきて、あたり全体を重苦しく塞いでいる。ぬるい風呂の湯気みたいに湿った空気が首筋や腕にまとわりついてきて、息を吸い込むだけで肺の奥がじっとり重くなる。
「乗れ、急ぐぞ」
ラールはくわえ煙草の火をサンダルの裏で手早く揉み消すと、四駆の運転席へと身を滑り込ませた。
僕が助手席に乗り込んでドアを引いた瞬間には、もう車輪がけたたましい音を立てて回り始めている。街外れの舗装はあっけなく途切れ、視界は一面の赤土に変わった。
高度を上げるにつれて、傾斜は容赦なくきつくなっていく。
車幅ひとつ分がやっとの道幅で、ガードレールなんて気の利いたものはどこにもない。右側は削り取られたような剥き出しの岩壁、左側は白く濁った霧の底へとまっすぐ落ちていく崖だ。
ぽつり、とフロントガラスを濡らしたかと思うと、次の刹那には視界のすべてが白い水煙に塗り潰されていた。
「うわっ!」
「始まったな。ここからが本番だ」
ラールがワイパーを最速で動かすけれど、ガラスの上を滝のように滑り落ちる雨の前にはほとんど役に立っていない。ボンネットを叩く水滴の音が車内に反響して、耳が痛くなるほどの轟音になる。轍はあっという間に濁流の流れる溝と化し、赤土がペースト状に練り上げられてタイヤにまとわりついてくる振動が、シート越しに尻へと直に伝わってきた。
「ラールさん、これ、前見えてるの?」
「見えねえよ! だから勘で走ってんだ!」
怒鳴るように返すラールの横顔を見たが、面白がっているのか単に引きつっているだけなのか判別がつかない。
車体が左右に大きく振られ、タイヤが泥を噛み損ねて空転するたびに、腹の底に響く金属の軋み音が鳴る。東京で店をやっていた頃、「今日は天気が悪いから客足が鈍るな、仕込みを減らすか」なんてぼんやり考えていたあの雨とは、根本的に種類が違う。この山にある雨は、ただ空から降ってくる気象というより、山肌ごとすべてを削り取って流し去ろうとする純粋な物理の暴力だ。
どれくらい泥水を跳ね上げながら登り続けただろう。
急激に高度が上がったせいで気圧が変わり、耳の奥がきゅっと痛む。やがて四駆は、岩壁のくぼみにねじ込まれるようにして急停車した。
「ここまでだ。これ以上は車ごと崖下に落ちる」
サイドブレーキが乱暴に引き上げられる。
ドアを開けた途端、横殴りの雨粒が容赦なく顔面を叩いた。足を踏み出した瞬間、靴底が泥に取られてずるりと滑り、慌てて冷えた車体に手をつく。足元はすでに完全に底なしの泥沼だった。スーツケースなんて置いてこいと言われた理由が、今さらながら骨身に沁みる。あんなキャスター付きの箱を引っ張っていたら、最初の一歩で車軸ごとへし折れて立ち往生していただろう。
背中の防水リュックのベルトを締め直し、雨合羽のフードを目深に被る。
ラールは荷台から竹と枯れ葉を編み上げた亀の甲羅のような巨大な笠を取り出し、慣れた手つきで背中に背負った。
「行くぞ。足元をよく見て、前の奴の足跡だけを踏め」
ラールを先頭に、ジャングルの中へと消えていく細い踏み跡を歩き始める。
頭上は何重にも木々の葉が重なっているはずなのに、雨の量が多すぎて何の遮りにもならない。野生のバナナの巨大な葉や見たこともないシダが青々と濡れそぼり、湿気を帯びた強烈な土と青葉の匂いが鼻をつく。
二十分ほど泥の中をもがきながら歩いたところで、前を行くラールが足を止め、手招きをした。
「ミスター、あれを渡るぞ」
彼が指差した先を見下ろして、思わず足が止まった。
深い谷を跨ぐようにして、細い橋が一本架かっている。
遥か下流を見下ろすと、泥混じりの濁流が白い飛沫を上げながら渦を巻いていて、足を滑らせれば助からないのは誰の目にも明らかだった。だが、それ以上に異様だったのは橋そのものの構造だ。
鉄骨やワイヤーはもちろん、切り出された木材の角材すら使われていない。
両岸の太い樹木から伸びた無数の根が、まるで編み物のように絡み合い、もつれ合いながら、ひと繋がりの橋の形を作って対岸へと伸びている。
「これ、木の根っこ……?」
「そうだ。生きたゴムノキの根を対岸へ渡して作ってる」
ラールは事も無げにその上へ踏み出すと、橋の中央で軽く体重をかけて弾んでみせた。
編み込まれた無数の根は揺れも軋みもせず、まるで地面の続きのようにどっしりと安定している。
「鉄の橋なんて架けても、この雨と湿気じゃ三年で錆びて落ちる。木を伐って作った橋もすぐ腐る。けど、生きてる木の根なら腐らねえ。雨を吸えば吸うほど、年をとるほど太くなって強くなる」
ごうごうと鳴る雨音の向こうから届く声を聞きながら、僕は濡れた手すりの根に触れてみた。
ゴツゴツとした硬い樹皮の奥に、どこか弾力のある生々しい手応えがある。
「これ、完成するのにどれくらいかかるんですか」
「さあな。細い根を竹の筒に通して対岸へ誘導するだけで十数年。人が渡れる太さになるまで、五十年から百年はかかる」
「五十年……」
「俺たちのじいさんが編み始めた橋を俺たちが渡り、俺たちが伸ばした根を孫が渡るのさ」
ラールは何でもない世間話をするみたいに笑った。
東京で飲食の現場を回していた頃は、投じた設備投資が何ヶ月で回収できるか、どれだけ無駄なオペレーションを削って即効性を出すかばかりを考えていた。そんな近視眼的な時間感覚や合理性のものさしが、この雨と泥に埋もれた谷底で、音もなくぽっきりと折れてしまったような感覚になる。
自然の暴力に対抗するために頑丈な構造物を打ち込むのではなく、何世代も先の人間が使う前提で、生きている植物の成長そのものをインフラのシステムとして組み込んでしまう。
自分一代では完成を見ることすらできないものに、雨の中で毎日少しずつ手を入れ続けるという気の遠くなるような営み。
壊れないように作るのではなく、壊れる前提で、直しながら育てていくやり方。
「おい、いつまで突っ立ってんだ! 橋を渡ったら、もうすぐ村の入り口だぞ!」
前を行くラールの呼ぶ声に急かされ、僕は深く息を吸い込んで、生きている樹木の背骨の上へと最初の一歩を踏み出した。
足裏から伝わるのは、冷たい金属でも脆い死に木でもない、大地に根を張る生命の重厚な反発力だ。
橋を渡りきり、濡れそぼる鬱蒼としたシダのトンネルを抜けた瞬間、視界を塞いでいた白い霧がふっと切れ、雨煙の向こうに黒ずんだ石と藁の屋根が段々に重なる集落が姿を現した。
いよいよ次回から村での日々が始まります。
次回投稿は7時です。




