現地ガイドと最初の洗礼
タラップを降りた途端、生ぬるい風が首筋へねっとりとへばりついてきた。
四月半ばのコルカタ。そこからさらにプロペラ機で北東へ飛んだ先にある地方空港のロビーは、薄暗く、埃と湿気の匂いが充満している。頭上で軋んだ音を立てて回る天井扇は、湿った重い空気をただ掻き回すだけで、肌の汗を一滴も引かせてくれない。
出口のゲートを出ると、客待ちのドライバーや家族連れの喧騒の真ん中に、妙に平然とした顔で突っ立っている男がいた。
浅黒い肌に、東アジア系の平たい顔立ち。背は僕より頭一つ低いが、色褪せたTシャツの上からでも肩まわりの筋肉が分厚いのがわかる。男はちぎった段ボールの切れ端を無造作に胸の前に掲げていた。角張った歪な油性マジックの字。
『WATARIGARASU』
「あの、ラールさん?」
声をかけると、男は段ボールを脇に挟み、僕の顔を下から上までじろりと眺めた。
「そう。ミヤモトから言われてる。荷物、それだけか?」
「いや、これ」
背後に引いていた大型のスーツケースを指差すと、ラールは露骨に眉間を寄せた。
「置いていけ」
「え?」
「そんなキャスター、山じゃ一歩も転がらない。泥で車軸が詰まって、ただの三十キロの鉛の塊になる。必要な着替えと道具だけリュックに移せ。箱ごと知り合いの車庫に放り込んでいく」
あっさりと言い捨てて、彼はさっさと駐車場へ歩き出した。
宮本さんめ、ずいぶんと無愛想な案内人を紹介してくれたものだ。もっと気のいいガイドを想像していたのだが。
だが、言っていることは至極まっとうだ。居酒屋でも、現場のオペレーションに合わない無駄な什器を意地で厨房に持ち込むやつほど段取りを崩す。文句を言わずに従うのが一番コストが低い。
ラールのおんぼろの四駆の荷台でスーツケースを開け、防水のザックに着替えと日用品を詰め替えた。残ったスーツケースを彼が手荒に車庫の隅へ放り投げ、重い南京錠をかける。
「腹減ってるだろ。山に入ったらマトモな火を使った飯は食えない。いま食っとけ」
四駆を十分ほど走らせた街道沿い、トタン屋根を張っただけの掘っ立て小屋のような食堂に連れて行かれた。
テーブルは油で少しペトついていて、奥の厨房からは青唐辛子を強火で熱した鋭い煙が漂ってくる。ラールが店員に何か早口の現地語で怒鳴るように告げると、銀色の丸い盆に載った定食と、水滴のついた大瓶がドンと置かれた。
「飲めるんだろ」
瓶のラベルにはカワセミの絵。『キングフィッシャー・ストロング』だ。
コップに注ぐと、粗い炭酸の泡が立ち上り、湿気のせいでガラスの表面が一瞬で汗をかいた。
一口飲む。
「なるほどな」
日本の居酒屋で出している一番搾りや、うちの店で仕入れているドイツの下面発酵ピルスナーのような、麦芽の厚みやキリッとしたホップの締まりはない。炭酸が妙に荒く、アルコール感だけが少し浮いていて、後味は驚くほどすっと抜ける。
東京の自分の店でこれを出されたら「ボディが軽すぎる」と難色を示すかもしれない。だが、この額からじっとりと汗がにじむ埃っぽい街道沿いで、ぬるい風に吹かれながら喉に流し込むと、引っかかりがないぶん水のように入っていく。
「どうだ」
「軽いですね。炭酸が強くて、麦の味が残らない」
「そうかよ」
ラールは気のない返事をして、盆の上のカレーを手でこね始めた。
僕も真似をして、川魚が一切れ浮いた黄色い汁をちぎったロティにつけて口に運ぶ。
思わず奥歯が止まった。
マスタードオイルの独特のツンとした刺激と、生姜、それに噛み潰した青唐辛子のストレートな辛さが舌の奥を刺す。喉の粘膜が熱くなり、背中にサーッと汗が噴き出した。
慌ててグラスを煽る。
シュワシュワとした薄い麦の泡が、口の中の油と唐辛子の痛みを綺麗に洗い流していく。
さっき頼りなく感じた軽さが、ここでは脂っこいカレーを胃袋へ落とし込むための潤滑油として綺麗に機能している。味の深みどうこうではなく、この気候とこの調味料の組み合わせで生きている酒なんだと、胃の腑に落ちた。
向かいのラールはもう半分以上平らげて、指についた汁を器用に舐め取っている。
「ミスター、今のうちに空見とけよ」
彼が顎でしゃくった食堂の庇の外を見ると、さっきまで白っぽく霞んでいた空の奥、遠くに見える山並みの頭上に、墨を流したような重い雲がへばりついていた。
「あれがメガラヤだ。ここから千メートル登る。上に行きゃあ、ビールなんて気の利いたもんはねえぞ」
「地酒くらいはあるでしょう」
「あるにはあるがな。米を泥水で発酵させたようなやつだ。日本の旦那の腹がもつかどうかは知らん」
ラールはくしゃくしゃになった札をテーブルに放り投げ、さっさと立ち上がった。
僕も残りのビールを一気に干して、まだ喉の奥に残る辛味を飲み干しながら席を立った。
どんな酒もそうですがビールは特に飲む場所、合わせるもので味が変わる気がしますね…




