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錯覚のメガロポリスと、冷えたグラス

おんぼろの四駆が軋んだブレーキ音を立てて停止し、エンジンの唸りが途絶えた瞬間、僕たちの耳を打ったのは、耳をつんざくようなクラクションの濁流だった。  助手席のドアを押し開け、車外へ足を踏み出した瞬間、僕はその場に縫い止められたように呆然と立ち尽くしてしまった。


「すげえな、ここ。大都会じゃないか」


 目の前に伸びているのは、黒々と平坦に敷き詰められた二車線のアスファルト道路。頭上を見上げれば、無骨なコンクリート電柱から幾重にも束ねられた黒い送電線が、蜘蛛の巣のように空を切り裂きながら奥へと走っている。  排気ガスをもうもうと吐き出しながら走り抜けるオートリキシャの列。青や黄色の極彩色で手描きされた看板を掲げる日用雑貨店や金物屋が十数軒、隙間なく軒を連ねている。道路脇の露店からは、マスタードオイルでサモサを揚げるジュワジュワという暴力的な油の爆ぜる音が響き、クミンと焦げた玉ねぎの匂いが熱風に乗って鼻腔を突き抜けていく。  日本を出発してここへ立ち寄ったときは、「埃っぽくて薄暗い、何もない吹き溜まりの田舎町」に見えていたはずの場所だった。  それが、いまの僕の網膜には、まるで何百万もの人間が蠢く超巨大文明都市の縮図のように輝いて映っていた。


「おいおい、ミスター。冗談だろ?」


 荷台から僕の防水リュックを片手で軽々と引きずり下ろしたラールが、目を丸くして喉を鳴らして笑い出した。


「ここなんて、ただの埃まみれの宿場町だぞ。信号機すら二つしかねえし、コンビニやスーパーなんて気の利いた箱は影も形もねえ」 「いや、電気が送電線を通って届いていて、内燃機関を積んだ車がアスファルトの上を平然と走っていて、何より、トタン屋根の轟音に負けないよう大声で怒鳴らなくても、普通の肺活量で相手と会話ができる。これ以上のメガロポリスがどこにあるかい」 「完全に山の上に毒されすぎだ」


 ラールは腹を抱えて大笑いしたが、僕の認識はこれ以上ないほど正気だった。  道路の脇にある公共の手押しポンプを見れば、レバーを上下させるだけで無色透明の水がとめどなく噴き出している。商店の奥を覗けば、壁のトグルスイッチを弾くだけで白熱電球が一瞬で灯り、薄暗い部屋の隅々を照らし出している。  人間が何世紀もの時間をかけて積み上げてきた「近代のインフラ」のひとつひとつが、失われた超古代文明のオーパーツのように、圧倒的な質量を持って五感へ迫ってきた。


 ラールの知り合いが営んでいるという街道沿いの薄暗い自動車修理工場へ向かった。  油とグリスの染み付いたガレージの隅、頑丈なトタン戸を開けると、数ヶ月前に預けていった僕の荷物がそのまま残されていた。  ポリカーボネート製の、四輪キャスターがついた大型ハードスーツケース。  埃こそ被っていたが、雑巾でひと拭きすると、都会のショールームに並んでいる時と同じメタリックシルバーの光沢を取り戻した。傷ひとつないその滑らかな工業製品の輪郭が、泥と埃の染み付いた自分の手元とあまりに不釣り合いで、まるで異次元の空間から召喚された遺物のように見えた。


「ミスター、コルカタ行きの夜行列車までまだ二時間以上ある。最後の飯にするか」 「そうですね。腹も減ったし、ご馳走させてください」


 僕たちはスーツケースを転がし、行きにも立ち寄った街道沿いのトタン屋根の食堂――『ダバ』の暖簾をくぐった。  店内に敷き詰められたコンクリート土間には、油とスパイスの染み付いた丸テーブルが並び、トラックの運転手たちが手づかみでカレーを頬張っている。天井の梁からぶら下がった錆びた大型扇風機が、低いうなりを上げながら埃混じりの空気を掻き回していた。行きには「ぬるい風をかき回すだけの役立たず」に見えていたその羽根が、いまは皮膚の汗を瞬時に奪ってくれる最新鋭の空調設備のように心地よい。


 店員がテーブルに運んできたのは、冷たい汗をびっしりとかいた『キングフィッシャー・ストロング』の大瓶だった。  さらに、分厚いプレスガラスのコップが二つ、カツンと乾いた音を立てて卓上に置かれる。  栓抜きで王冠が弾かれた瞬間、プシュッという炭酸の抜ける鋭い破裂音が響いた。  瓶を傾けると、黄金色の澄み切った液体が粗い泡を巻き上げながらグラスを満たしていく。多湿な空気のせいで、注がれた端からガラスの外側に無数の水滴が結露し、冷気の層を作り出していた。


 両手でグラスを持ち上げる。  手のひらに伝わってくるのは、竹や土器の生ぬるい温もりではない。  コンプレッサーの冷媒配管が、電気の力で強制的に熱を奪い去ったことでしか生み出せない、研ぎ澄まされた人工の「絶対的な冷たさ」だ。


 一気に、グラスを傾けて喉へ流し込んだ。  冷気が食道へ突き刺さった瞬間、全身の皮膚が粟立ち、思わず息が止まった。


「冷たい……」


 そして、驚くほど鋭利な炭酸の泡が、口蓋と喉の粘膜をチクチクと弾き飛ばしていく。  行きにこの場所で煽ったときは、「ボディがスカスカで麦のコクがない、工業化された安酒だ」と、東京のビアパブ店主としての知識を鼻にかけて斜に構えていたはずだった。  だが、いま喉を通っていくこの液体は、あまりにも純粋で、清潔で、淀みがなかった。  雑菌の繁殖を許さない徹底した無菌濾過。何千リットルもの巨大なステンレスタンクで均一に醸造され、寸分の狂いもなく密閉された王冠。そして、長距離輸送のトラックと冷蔵コンプレッサーの果てに維持された、四度のチルド帯。  そのすべてが、人間が自然の気まぐれなエントロピーに抗い、世界を規格化することで勝ち取った「文明の奇跡」そのものとして、身体の芯へと染み渡っていく。


「どうだ、久しぶりの文明のビールは」 「美味すぎる。何も文句が出ないよ」


 僕が喉を鳴らし、空になったグラスを置いて苦笑いを浮かべると、ラールは満足そうに目を細め、自分のグラスをカチンとぶつけてきた。  自然の摂理と発酵菌にすべてを委ねた、あの素焼き甕の温かく酸っぱい酒も、間違いなく人間の生きてきた証だった。  そして、機械と電力のサプライチェーンが完璧に噛み合うことで手元に届く、この工業製品の冷えたラガービールもまた、人間が血を吐くような試行錯誤の末に構築した、本物の知恵と技術の結晶だ。


「ラールさん、本当にお世話になりました」 「おう。またいつでも来いよ。あの子のツケを回収しにな」


 ラールが白い歯を剥き出しにして、豪快に笑った。  僕はポケットに手を突っ込み、指先に触れる泥のついた手製トランプの角を静かに転がしながら、二杯目の黄金色のグラスを一息に干した。


村の別れのシーンがないのは仕様です。


19時に最終回を投稿します。

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文明の情報量が多い…!
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