ワタリガラス亭の黒ビール
羽田に着いた瞬間、全身の毛穴がキュッと締まるような感覚があった。
十一月の東京はすでに晩秋の冷たい風が吹き抜けていて、山で数ヶ月かけてすっかり湿気に慣らされた僕の皮膚には、日本の空気が驚くほど薄く、乾いて感じられた。
タクシーの窓から流れる首都高の夜景を見つめながら、僕は無意識にポケットの中に指を突っ込んでいた。
指先に触れるのは、あの角の丸くなった手製トランプの破片と、クワイを噛み砕くために使っていた十徳ナイフだ。
数千万円の設備投資を注ぎ込み、完全な自動化とマニュアルで回るように整えた僕の居酒屋――『ワタリガラス亭』の前に降り立ったとき、看板の明かりが妙に眩しく感じられた。
引き戸をガラリと開けると、換気扇の低いうなりと、出汁と醤油の香ばしい匂いが漂ってくる。
「いらっしゃいま――あ、オーナー!」
厨房の奥から顔を出した水谷君が、目を丸くして包丁を置いた。
カウンターの隅では、いつもの定位置で黒ビールを傾けていた宮本さんが、グラスを持ったままゆっくりと振り返る。
「……帰ったか。ずいぶん長いこと雲の中にいたな」
宮本さんが、日焼けした僕の顔とボロボロのバックパックを見てニヤリと笑った。
「無事に戻りましたよ。……水谷君、店はどうだ」
「完璧ですよ。売上もオペレーションも、オーナーが組んでくれた仕組み通りにミリ単位の狂いもなく回ってます」
水谷君が誇らしげに胸を張る。
その言葉に嘘はなく、厨房のステンレスはチリひとつなく磨き上げられ、冷蔵庫の温度計は設定通りの数字を寸分違わず指していた。
かつての僕なら、この「完璧な管理」を見て深く満足していただろう。
だが、今の僕の目には、その整然とした美しさがどこか脆く、わずかな電力や供給ルートの途絶だけで立ち往生してしまう、危ういバランスの上の箱庭のようにも見えていた。
「オーナー、何か作りますか? 良い戻り鰹が入ってますよ」
「いや、まずはビールをくれ。……一番搾りのスタウトを、冷やしたグラスで」
水谷君が手際よく注いでくれた漆黒の液体を喉に流し込む。
冷たく、シャープで、均一な工業規格の美味さが胃袋に染み渡る。
山奥の素焼きの甕から汲み出した、あの酸っぱくて濁った酒とはまるで違う。けれど、どちらも人間がその土地の環境と折り合いをつけるために生み出した、紛れもない知恵の結晶だ。
「宮本さん、バハドゥル村長によろしく伝えてくれって言われましたよ。……それと、あそこのガキにでかいツケを背負わせてきました」
「ツケ?」
「ええ。一生かけて、山で獲れた美味いもんを僕に奢るっていう、途方もない長期の売掛金です」
僕が笑いながら言うと、宮本さんは事情を察したように深く頷き、「そいつは回収が楽しみだな」と煙草に火をつけた。
十二月に入り、街がすっかり年末の慌ただしさに包まれた頃。
僕は仕込みの合間を縫って、段ボール箱を一つ、カウンターの上に広げていた。
「オーナー、それ何ですか? お歳暮?」
仕入れ伝票を整理していた水谷君が覗き込んでくる。
「ああ、山の連中へのツケの利息……いや、ただの付け届けだな」
箱の中に詰めたのは、東京の高級デパートで選んだような洒落た菓子折りではない。
あの雨と泥の山で、彼らの暮らしを少しだけ手助けし、かつ日々の邪魔にならないもの。
頑丈なプラスチック製のトランプを五ダース。
泥水でも濡れずに文字が書ける防水のフィールドノートと油性ペン。
子どもたちが大根をこそげ落とすのにちょうどいい、刃こぼれしにくいステンレスの皮むき器。
それに、村の大人たちが煙管や炉で使うための、湿気を通さない使い捨てライターの大容量パック。
持続しない外部の贅沢品を押し付けるのではなく、彼らが毎日自分たちの手で山を回していくための、壊れにくい消耗品ばかりだ。
最後に、僕は箱の隙間に、水谷君と試作を重ねて作った『乾燥カツオと昆布の粉末だし』のアルミパックを数袋滑り込ませた。
あの泥の森で採れる野草や、谷底の沢ガニと合わせたとき、向こうの連中がどんな顔をして鍋を囲むか――それを想像するだけで、口元が緩んでくる。
「宛先、読めないんですけど……これどこに送るんですか?」
水谷君がインボイスの伝票を見て首を傾げる。
僕はラールさんの連絡先と、山脈の麓にある町の集配所の住所をペンで書き込みながら、短く答えた。
「雲の村だよ。……何ヶ月かかって届くかは分からないけどな」
ガムテープで頑丈に封をし、伝票を貼り付ける。
店を出て郵便局へ向かう道すがら、見上げた東京の冬の空は、雲ひとつなく澄み渡っていた。
あの山には、今頃どんな風が吹いているだろうか。
乾季の青空の下、生きた木の根の橋は今日も少しずつ伸び、ドンは浅瀬で魚を追いかけ、バハドゥルさんは青い煙を吐きながら、まだ見ぬ誰かのために薪をくべているはずだ。
僕はコートのポケットの中で手製トランプの切れ端を弄びながら、乾いた東京の街を、少しだけ力強く踏みしめて歩き出した。
ワタリガラス亭のオーナーの雲の村への旅が終わりました。
ワタリガラス亭て黒ビールのみながらの話から始まった旅はワタリガラス亭に戻って黒ビール飲むことで終わりました。
ここまでお付き合いいただきありがとうございました。




