抜ける青空と魚の金利
妹の熱が完全に下がり、ドンと一緒に広場を走り回るようになった頃、村の空気に明らかな変化が訪れていた。
朝、目を覚ましても、耳慣れたトタン屋根の重低音がしない。
四六時中、鼓膜の奥を万力のように締め付けていたあの耳鳴りのような雨の咆哮が、嘘のように掻き消えている。代わりに聞こえてくるのは、梢を揺らす風の擦れる音と、どこかの軒先で飼われている鶏の乾いた鳴き声だけだった。
板張りの隙間から外へ出ると、空を分厚く覆っていた鉛色の雲がいつの間にか千切れ、驚くほど高い位置に抜けるような青空が広がっていた。直射日光が肌をチリチリと焼き、あれほど重たく湿りきっていた空気が、吹き抜ける風とともにサラリと乾いていく。
「雨季が終わるな」
土間の炉の前で、バハドゥルさんが煙管をくゆらせながら空を見上げていた。
「この風が吹き始めると、山は一気に乾く。雨が嘘のように止んで、今度は冬の乾季になるのさ」
「本当に、一晩でこんなにカラッと晴れるものなんですね」
「ああ。だが、ぼさっとしている暇はないぞ。今のうちに屋根の傷んだトタンを張り替え、家中の敷物を日干しにせんと、溜まった湿気で柱が腐る」
村長の言葉通り、集落のあちこちで大人たちが一斉に動き出していた。
男たちは竹梯子をかけてトタン屋根に登り、ハンマーで錆びた釘を打ち直し、女たちは色鮮やかな織物や麻の布を広場の竹竿へ隙間なく干し広げている。泥水で茶色く濁っていた谷川は澄んだ碧色に変わり、世界全体が一気に鮮やかな輪郭を取り戻していた。
だが、僕の心の中には、青空とは裏腹に少しの寂しさが広がっていた。
雨季が終わるということは、僕がこの村にいられる理由が一つ幕を閉じるということでもあった。
広場の炊事場へ行くと、ドンが竹籠を背負って待ち構えていた。
横には、すっかり元気になった妹がちょこんと座り、兄のシャツの裾を掴んで揺らしている。
「ミスター! 川へ行くぞ! 水が澄んだから魚が捕れる!」
ドンが僕の腕を引っ張る。
サンダルを履き替え、急斜面の小道を下っていく。あんなに底なしの泥沼だった踏み跡は、乾いた風を浴びて早くも表面が白く固まり始めていた。
川へ降りると、あの雨の日の激流が嘘のように穏やかなせせらぎになっていた。水深が浅くなったことで、川底の丸い転石がガラス越しのように透けて見える。
ドンは躊躇なく浅瀬に素足で飛び込み、腰をかがめて石の隙間に器用に手を突っ込んだ。
「見て、ミスター! ドーカー(魚)だ! これでツケを一回分返す!」
水しぶきとともに掲げられたのは、銀色に光る手のひらサイズのハヤに似た川魚だった。
得意げに鼻を鳴らすドンを見て、僕は思わず吹き出した。
「おいおい、そんな小さな魚一匹じゃ、まだ金利分にもならないぞ」
「ケチ! じゃあもっと捕まえてやる!」
ドンはムキになって石をひっくり返し、妹が岸辺で手を叩いて歓声を上げる。
小一時間もすると、竹籠の底には十数匹の小魚と、手のひら大の丸々と太った川魚が跳ねていた。
ドンは河原の平らな岩の上に腰を下ろすと、竹籠をドンと叩いた。
「ここで焼いて食うぞ! ミスター、火を熾してくれ!」
「任せろ。東京の居酒屋を舐めるなよ」
僕はザックから十徳ナイフを取り出し、乾いた竹の枝を削って手際よく串を作った。魚の腹を割いて内臓を掻き出し、澄んだ川水で手早く洗う。
ドンが拾ってきた流木の小枝を組み、手持ちのフリントで火を点けると、乾いた薪はパチパチと心地よい音を立てて白い煙を上げた。
魚を竹串に打ち、河原の砂利に斜めに突き刺して炭火の熱をじっくりと当てる。
ザックの底に残っていた少量の粗塩を指先でつまみ、少し高めの位置からパラパラと振り落とす。
皮が縮み、香ばしい煙とともにじわじわと脂が滲み出してくる。
竹串の向きを回しながら、皮目をパリッと焼き上げていく。
「美味そうな匂い……!」
妹が目を輝かせて喉を鳴らし、ドンもじっと網膜を焼き付けるように串を見つめている。
焼き上がった一番大きな魚を、バナナの葉を敷いた岩の上に引き上げ、妹とドンの前に差し出した。
「ほら、熱いうちに食え」
ふたりはハフハフと息を吹きかけながら、小骨を器用に避け、香ばしい白身にかじりついた。
炭火で余分な水分が飛び、淡白な川魚の身に凝縮された旨味が詰まっている。森の青臭さも泥の臭気も一切ない、澄んだ清流そのものの味だ。
「バ・ティン! めちゃくちゃ美味い!」
「これで今日の利息分はチャラにしてやるよ」
僕が言うと、ドンは口の周りに煤をつけたまま、勝ち誇ったように笑った。
澄んだ水面に反射する木漏れ日の中で、残りの串を齧りながら、ふと東京の自分の店のことを思い出した。
今頃、店では水谷君が完璧な仕込みを終え、常連の宮本さんがカウンターで一番搾りスタウトを煽っている頃だろうか。
まとまった元手を手に入れたあとの使い道として選んだ、この「世界一雨が降る村」での日々。
泥だらけの山道、生きた木の根の橋、酸っぱい濁酒、真っ赤なクワイの唾、そして手作りのトランプ。
東京で店舗を回していた頃は、すべてを数字と効率のグリッドの中に綺麗に収めることばかりを考えていた。けれど、流通もインフラも遮断されたこの泥山で、手元にあるものだけで暮らしを繕い、壊れる前提で人と付き合い続ける彼らの手触りは、僕の頭の中に一生消えない鮮やかな記憶として焼き付いていた。
夕方、川原を引き上げて村に戻ると、ラールの四駆が広場に停まっていた。
泥を綺麗に洗い流された無骨な車体の前で、ラールが煙草をふかしながら僕に笑いかけた。
「ミスター、そろそろ山を下りる準備をしな。乾季の風が本格的になる前に麓へ戻らないと、飛行機の手配が狂うぞ」
「もうそんな時間ですか」
「ああ。道が乾いてるうちに出発すりゃあ、四駆が崖から滑り落ちる心配もねえからな。名残惜しいだろうが、明日の朝一番で出るぞ」
いよいよ、この雲の村を旅立つ時が近づいていた。
多分おっさんはこの魚で利息どころか借金もどうでもいいと思ってますねw




