泥の往診と一生のツケ
その日の朝、いつもなら土間に一番乗りしてくるドンの姿が見えなかった。
不思議に思って様子を見に行くと、ドンの家の奥にある薄暗い板張りの寝所で、まだ背丈の低い妹が粗末な布にくるまって荒い息を吐いていた。額にそっと触れてみると、焼き石のように熱い。
枕元には、母親のメバさんが煎じた苦そうな野草の汁が竹筒に入っていたが、口元に近づけても妹は受け付けずに吐き出してしまう。
ドンは妹の小さな手を両手で固く握りしめたまま、濡れた瞳で必死に呼びかけていた。
「パイ! パイ、バム・ジャ!(起きて! 起きて、ご飯食べよう!)」
「ドン、いつからだ?」
僕が声をかけると、ドンはすがりつくように僕のシャツの裾を掴んだ。
「昨日から熱が下がらないんだ。薬草を飲ませても全部吐いちゃう。父ちゃんも母ちゃんも、もうどうしたらいいか……」
この山奥には診療所もなければ、規格化された解熱剤ひとつ転がっていない。
流通が雨で遮断されたこの集落では、風邪をこじらせて命を落とす子どもが珍しくないのだと、以前ラールから聞いた話を思い出した。
僕は踵を返し、村長の家にいたラールのもとへ駆け寄った。
「ラールさん、下から医者を呼べないか」
「はあ? 医者だと? この土砂降りの中、町の医者がこんな泥山まで上がってくるわけねえだろ。往診代と車代でいくらかかると思ってんだ」
「金なら払う。僕が全額出す。四駆をチャーターして、抗生物質と点滴を持った医者を今すぐここに連れてきてくれ!」
気迫に押されたのか、ラールはくわえ煙草を取り落とし、居住まいを正した。
「本気なんだな?」
「当たり前だ。早く行ってくれ!」
ラールは合羽を引っ手繰るように羽織ると、豪雨の泥道を駆け下りていった。
それからの半日は、ただただ時間の進みが遅かった。
激しい雨音がトタン屋根を叩き続ける中、ドンはずっと妹の濡れタオルを替え続け、僕は手持ち無沙汰に土間を行き来するしかなかった。
夕暮れ前、霧の向こうからけたたましいクラクションが響いた。
ラールの呼んだ四駆が、泥だらけになって広場へ滑り込んできたのだ。車からは医療鞄を抱えた小柄な医師が転がり出てきた。
医師による迅速な診察と注射、そして解熱剤の投与。
処置が終わって一時間ほど経つと、妹の荒かった呼吸が目に見えて穏やかになり、額の熱がすっと引いていった。すやすやと寝息を立て始めた妹の顔を見て、ドンはその場にへたり込み、声を上げて泣きじゃくった。
医師とラールを見送り、僕が土間に戻ると、ドンの両親が待っていた。
父親は泥にまみれた手で、大切に保管していたらしい見事な竹細工の籠と、古い布に包まれたなけなしの紙幣を差し出し、深々と頭を下げた。
「ミスター、本当に何とお礼を言ったらいいか……。俺たちの全財産だ。これっぽっちじゃ足りないのは分かっているが、一生かけて必ずあんたに返す」
母親のメバさんも涙を流しながら手を合わせている。
その重すぎる感謝と卑屈なまでの頭の下げ方に、居心地の悪さが胸の奥を突いた。
東京で飲食の現場を回し、まとまった資金を動かしてきた僕にとって、今回の往診代の数字そのものは生活を揺るがすような額じゃない。
けれど、ここでその「全財産」を受け取ってしまったり、あるいは逆に「金なんていらない」と手放しで施してしまえば、彼らはずっと僕に対して「命の恩人」という重たい負い目を背負い続けることになる。
泥だらけになって一緒に大根の皮をこそげ落とし、酒を回し飲んでいたあの対等な関係が、「施す側の安全な人間」と「施される側の惨めな人間」という上下の構造に歪んで壊れてしまう。
「受け取れません」
僕は差し出された籠と金を、父親の手ごと押し戻した。
「な、なぜだ? あんたが大金を払ってくれたんだぞ!」
「僕は慈善活動家じゃないんです。日本の居酒屋のオヤジですよ」
僕は苦笑いしながら、寝床で妹の手を握っているドンを指差した。
「金は確かに僕が立て替えました。だから、全額きっちり返してもらいます。ドンからね」
「え……?」
「ドンが大人になって、山で美味い山菜を見つけたり、珍しい酒を手に入れたり、川で大きな魚を捕まえたら、その都度僕に一杯奢る。この子が一人前の男になって、年寄りになって死ぬまでの間に、耳を揃えてツケを返してもらえばそれで計算は合います」
「そんな……それじゃあ、あんたが損をするだけじゃないか」
「損なんかしませんよ。この村の美味いもんを一生分キープできたんだから、商人としては大儲けです」
あっけらかんと言い放つと、炉の奥で一部始終を見ていた村長のバハドゥルさんが、ふっと口元を緩めた。
村長はあぐらを組み直し、パイプの灰をポンと叩き落とした。
「いい商売だな、ミスター」
村長は満足そうに深く頷いた。
「金持ちが憐れんで恵んでくれた金なら、受け取る側には一生の傷が残る。だが、ツケの貸し借りなら対等だ。お前はあの子を、一生かけて借りを返せる一人前の男として扱ってくれたんだ」
村長は素焼きの甕から、なみなみと注いだ濁酒の竹筒を僕に突き出してきた。
「飲め、変な客。今日からお前は、この村で一番気が長くて図々しい債権者だ」
土間のあちこちから、ドッと野太い笑い声が上がった。
父親も泥のついた手で涙を拭い、照れくさそうに笑いながら僕の肩に手を置いた。
寝床のドンが顔を上げ、涙でぐしゃぐしゃの顔で僕を真っ直ぐに見つめていた。僕は彼に向かって、ニッと笑って親指を立ててみせた。
外では相変わらず、バケツをひっくり返したような雨がトタン屋根を叩き続けている。
数字の帳尻を一瞬で合わせる即効性のあるやり方ばかりを選んできた僕の頭の中に、何十年もかけて少しずつ回収していくような、気の長い貸し借りの手触りがじんわりと残っていた。
金が役に立たないように見える山奥でも金が役に立った話です。




