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13/19

赤い唾液と雨中の血流

 谷底への水汲みから戻った翌日、村は再び視界のすべてを白く塗り潰すような豪雨に閉ざされていた。  風を孕んだ雨粒がトタン屋根を激しく震わせ、外に出るどころか、隣の家へ渡る濡れた足場を歩くことすら危うい。  土間の低い炉のまわりには、自然と近所の男たちが五、六人ほど集まってきていた。  薄暗い部屋の隅に腰を下ろし、冷え切った足を炉の火にかざしながら、低く濁った声でカシ語を交わし合っている。手元には例によって、朝搾りの酸っぱいライスビールが入った竹筒が握られていた。  僕が壁際に身を寄せて大人しく座っていると、煙管をくわえた筋骨隆々の男――水汲みの時に先頭を歩いていたメバさんの兄貴分が、濡れた懐から使い古された小さな布袋を取り出した。  中から出てきたのは、平べったい緑色の葉と、固そうな木の実、それに白いペーストの入った小さな金属ケースだった。


「ミスター・ジャパン」


 男が無造作に顎をしゃくって手招きをする。  近づくと、彼は緑色のキンマの葉を手のひらに広げ、指先で白い消石灰のペーストを手早く塗り拡げた。その上に、ナイフで細かく刻んだ固いビンロウジュの実を無造作に放り込み、手際よく三角形に折りたたんで僕の目の前に突き出してくる。


「ト・バム・クワイ(クワイを噛め)」


 見れば、炉を囲んでいる男たちの口元は、誰も彼もが鮮血をすすったかのように真っ赤に染まっていた。床の隅に置かれた竹筒へ、時折ペッと真っ赤な唾液を吐き捨てては、満足そうに細い目を緩めている。


「これ、噛むやつですよね?」


 僕が英語で訊ねると、男はニッと笑って歯を見せた。その歯の隙間までもがすっかり赤黒く染まっている。


「噛め。飲み込むなよ、唾だけ吐け」


 煙管をくゆらせていた村長のバハドゥルさんも、「挨拶みたいなもんだ。噛んでみな」と面白そうに目を細めた。  東京の店で客がカウンター越しにこんな怪しげなものを噛み始めたら、間違いなく保健所や警察の目が頭をよぎるところだ。けれど、ここは雨と霧に閉ざされた標高千メートルの山の上。断る理由なんてどこにもない。  差し出された緑の包みを指先でつまみ、意を決して奥歯の間に放り込んだ。  ――ガリッ。  固い実を噛み砕いた瞬間、強烈な渋みと、薬品のようなツンとしたアルカリの刺激が口いっぱいに広がった。  思わず顔が歪む。青臭い葉の風味と石灰の刺激で舌の表面がチクチクと痺れ、口の中の粘膜が一斉に逆立つような感覚だ。


「う、苦っ。渋いなこれ……」


 僕が悶絶するのを見て、男たちから野太い笑い声が一気に上がった。


「噛み続けろ! 汁が出てくるぞ!」


 言われるがままに奥歯を動かし続けると、驚くほどの勢いで唾液が湧き出してきた。  口の中がみるみる熱を帯びていくのを感じ、反射的に口元を手で覆うと、手の甲についた飛沫が見事なまでに赤く染まっている。


「ペッとしろ、そこの筒に!」


 促されるまま、足元の竹筒へ真っ赤な唾を勢いよく吐き捨てた。  すると――噛み始めてから一分も経たないうちに、体に明らかな変化が起きた。  首筋から側頭部へ向けて、ドクドクと血流が一気に駆け上がっていく。  心拍数がわずかに上がり、冷え切っていた指先や足の裏まで温かい血が巡り始めるのがはっきりと分かった。額にじわりと汗が滲み、連日の豪雨と逃げ場のない湿気で重だるく沈んでいた頭の芯が、驚くほど軽快に冴え渡っていく。


「あ、体が熱い」 「ハハッ! 効いてきただろ!」


 男が僕の肩を力強く叩いた。  なるほど、と思った。  東京の整えられた環境なら、嗜好品なんてものは気分転換や雰囲気のための飾りにすぎないのかもしれない。  けれど、四六時中降り続く冷たい雨と、身体にまとわりつく湿気の中で日々肉体を動かし続けなければならない彼らにとって、これは単なる気晴らし以上のものだ。体温を強制的に引き上げ、身体の重さを誤魔化し、過酷な天候の中で自分のコンディションを破綻させずに保ち続けるための、極めて切実で泥臭い手当てなのだろう。  もう一口噛み締め、赤く染まった唾を竹筒へ吐き捨てる。  口いっぱいに広がる痺れに慣れてくると、鼻の奥に抜けるツンとした青い香りが、不思議と嫌なものではなくなっていた。  そこへ、男が自分の竹筒から注ぎ分けた濁酒を差し出してくる。  受け取って喉に流し込むと、刺激で火照った舌に、冷たい乳酸の酸味が染み渡るように広がった。


「美味い」


 口元を赤くしたまま竹筒を掲げると、男たちは嬉しそうに目を細め、それぞれの竹筒を軽くぶつけ合ってきた。  トタン屋根を叩く雨音の轟音に混ざって、男たちの低い笑い声が土間に響く。  言葉なんて大して通じなくても、同じ実を噛み、同じ赤い唾を吐き、同じ酸っぱい酒を回し飲むだけで、場を繋ぎ止める空気のようなものは案外簡単に出来上がってしまう。  東京の厨房から遠く離れたこの山奥の湿気の中で、僕の身体もまた、少しずつこの土地の面倒なリズムに擦り合わされているような気がした。


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― 新着の感想 ―
そんなかんじなのか。 スパイスカレー食べて発汗でデトックスしようとする人とかはキンマ向いてそう。
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