泥の斜面と岩肌のフィルター
朝早く、戸外から聞こえてくる規則正しい足音の気配で目が覚めた。
板張りの隙間から外を覗くと、白く淀んだ霧の底に、人の長い列ができている。村の女性たちが、アルミや真鍮の大きな水瓶を頭や背中に括り付け、細い泥の小道を一列になって下りていくところだった。あの子どもたちの母親のメバさんや、まだ背丈の低い女の子の姿も混ざっている。
「こんなに毎日雨が降ってるのに、どこへ行くんですか?」
土間の炉で薪を足していた村長のバハドゥルさんに声をかけると、彼は煙管の先から細い煙を吐き出しながら、短く答えた。
「ウム(水)だ。谷の底まで汲みに行くのさ」
「谷底まで? 雨水なら屋根からいくらでも溜められるじゃないですか」
東京の感覚からすれば、毎日頭の上からバケツをひっくり返したような水が降ってきているのだから、トタンの端に樋を引いてドラム缶にでも受けておけば、水なんて文字通り使い放題に思える。だが、村長は小さく息をつき、首を横に振った。
「屋根を伝う雨水は、煤や泥が混じる。洗い物や畑には使えても、赤ん坊に飲ませる水や、飯を炊き、酒を仕込むための水にはならん。口に入れる水は、谷の底の岩肌から湧き出るものだけだ」
あの酸味の立った雑味のない濁酒や、豚肉のスープの後味の良さの根底には、その水があるのだ。
東京で店をやっていた頃、ビールの仕込み水の硬度や仕込みごとの水質の違いにやたらと神経を尖らせていた身としては、ただの雨水と湧き水の使い分けという話は妙に腑に落ちる。
「僕も手伝ってきますよ」
「やめておけ」
立ち上がった僕の動きを、村長は煙管を向けたまま手短に止めた。
「水汲みは、この山じゃ昔から女の仕事と決まっている。それに、お前のような足腰の男が行けば、途中で滑り落ちて水瓶を割るのがオチだ」
鼻で笑うような調子だったが、言われっぱなしというのも少し座りが悪い。
東京の厨房を人に任せてここまで来ておいて、安全な高床の上でただ飯を食わせてもらっているだけのお客さんで居続けるのも居心地が悪かった。
「水瓶は持ちません。自分の水筒だけ持って、後ろをついていくだけですから」
僕が防水ザックのベルトを締め直すと、村長は呆れたように肩をすくめた。
「好きにしろ。だが、途中で転がっても誰も拾わんぞ」
女性たちの足跡を追って、村外れの崖へと向かった。
道と呼べるような平地は最初からなく、水を含んで崩れかけた赤土と、濡れた巨岩が剥き出しになった急斜面が下へ下へと落ち込んでいる。足元を雨水が小川のように流れていく中、女性たちは二十リットルは入りそうな金属製の水瓶を背負いながら、素足や薄いゴムサンダルで軽やかに岩の突起を踏み越えていく。
一方の僕は、靴底のしっかりしたトレッキングシューズを履いているはずなのに、濡れた苔や粘土質の泥に足を取られて何度も滑り、そのたびに冷えた岩肌へみっともなく手をついた。
前を行くメバさんが足を止め、肩越しに振り返って苦笑いを浮かべる。
「カイ、ミスター!(しっかり歩きな!)」
後ろを歩いていた小さな女の子にまで、僕の腰の引けた歩き方を見てクスクスと笑い声を立てられる始末だ。
筋力や体格の差ではない。幼い頃からこの傾斜と泥水の中で重心の預け方を身体に叩き込んできた、生活の年季のようなものがそこにはある。
膝を笑わせながら三十分ほど下り続けると、轟音を立てて流れる谷川の本流から少し外れた、巨大な岩の裂け目に行き当たった。
泥水で茶色く濁った川のすぐ脇に、驚くほど澄み切った水が静かに湧き出し、天然の小さな水たまりを作っている。
女性たちが手際よく水瓶を沈め、冷たい水を満たしていく。
僕も手袋を外し、両手でその水をすくって口元へ運んだ。
「冷たい……」
舌に乗った瞬間、首筋にまとわりついていた湿気が一瞬で引いていくような心地がした。
余計な匂いがまったくなく、岩肌のミネラルを含んだ微かな甘みだけが喉を通っていく。
年間何千ミリという暴力的な雨が山肌の分厚い森に吸い込まれ、土と岩の層を気の遠くなるような時間をかけて通り抜けることで、この谷底から純度の高い水として押し出されてくるのだ。
上から降ってくる膨大な雨水をそのまま使うのではなく、一度地面のフィルターを通って濾過されたごく一部の湧き水だけを、毎日この急斜面を往復して担ぎ上げる。手近にあるものに飛びつかず、手間をかけてでも壊れない生活の基準を守るという作業が、この一杯の水に集約されている。
帰り道、満水になった水瓶を背負った女性たちの背中は、行きよりも一段と重そうに見えたが、足取りそのものは驚くほどぶれず、誰も音を上げようとしない。
空になった自分の水筒一つぶら下げているだけで息を切らしている自分が、なんだか無性に情けなく思えた。
村に戻ると、メバさんが汲みたての水で沸かした熱い紅茶を一杯、僕の手に握らせてくれた。
泥のついた両手でカップを包み、立ち上る湯気を見つめながら、僕は土間に座り込んで談笑している女性たちの横顔をぼんやりと眺めていた。
蛇口をひねれば当たり前に水が出る場所から遠く離れてみると、暮らしを地面に繋ぎ止めておくためのコストというのは、本来これくらい重たくて泥臭いものなのかもしれない。
水汲みもなかなか大変なのです。




