8:矛盾の証明
第8章
「そこまでだ、元傭兵殿。――いや、この城の『鍵』を胸に宿す者よ」
深夜の東棟回廊。底冷えのする闇の中で投げかけられたその冷徹な声に、ヴォルフは弾かれたように振り返った。
その顔には、隠密行動を見咎められた焦りと、突如背後に現れた探偵に対する強烈な警戒心が張り付いていた。彼はとっさに腰の短剣へ手を伸ばそうとし――しかし、ロッソの一切の感情を排した無機質な双眸に射抜かれ、その動きを縫い止められた。
「探偵……。なぜ、貴様がここにいる」
「君の不格好な数式を添削しに来た」
ロッソは外套の裾を揺らし、一切の恐怖を感じさせない足取りでヴォルフとの距離を詰める。その後ろでは、気を失った少女ユキを抱きかかえた侍従ベルンハルトが、震えながらも『証人』としての役割を果たすべく付き従っていた。
「俺の数式だと? わけのわからない戯言を……」
「とぼける必要はない。君はたった今、この扉の奥にいる領主バルタザールを殺害するかどうか、葛藤していたね」
「――ッ!」
「だが、君はその手を血に染める前に、私に感謝することになる。君の抱いているその殺意の前提は、根本から狂っているからだ」
ヴォルフが殺気を放とうとした瞬間、ロッソはそれを制するように彼の左胸――分厚いシャツの上から、冷ややかに指先を突きつけた。
「君は先ほどから、執拗にその左胸を庇っている。……いや、この館に入ってからずっとだ。戦場での古傷が痛むのかと推測したが、違ったようだね。それは傷などではない。極めて意図的に刻み込まれた、特別な『烙印』だ」
「なっ……貴様、なぜそれを……!」
ヴォルフの屈強な肉体が、初めて明確な動揺に震えた。
誰にも見せていないはずの、服の下に隠された秘密。過去のロッソもまた、それを視覚的には認識してはいない。だが、未来からの「傷は、紋章」というたった一言のパスワードが、ロッソの脳内で絶対的な真実として屹立していた。
「『交差した二振りの剣と盾』。この城の至る所に刻み込まれている、バルタザール卿の家系の紋章と同じものだ」
「…………ッ!」
「……君はその傷を、バルタザールに裏切られ、奴隷のように焼き付けられた『屈辱の烙印』だと思い込み、この館で家紋を目にするたびに殺意を燃やしてきたはずだ。違うかね?」
ヴォルフの屈強な肉体が、初めて明確な動揺に震えた。
「だが、それが決定的な事実誤認なのだよ、ヴォルフ。加害者であるはずの領主が、奴隷と蔑む相手にわざわざ『己の正統な家紋』を刻み込むなど、論理的にあり得ないからだ」
ロッソの突きつけた鋭利な論理の刃に、ヴォルフは返す言葉を失い、後ずさった。
彼の動機である「復讐」と、彼の肉体に刻まれた「紋章」。この二つの事象は、どうあがいても物理的・心理的に両立しない。
「その矛盾の答え合わせをしてやろう」
ロッソはヴォルフに背を向けると、彼が先ほどまで見つめていた主賓室――バルタザールの書斎の重厚なマホガニーの扉のノブを握り、無造作に押し開けた。
「なッ……探偵殿!? こんな夜更けに何だというのだ!」
部屋の奥、執務机にしがみつくようにして座っていた領主バルタザールが、青ざめた顔で立ち上がった。その視線は、ロッソの後ろから亡霊のように引きずり出されてきたヴォルフの姿を捉え、さらに激しく戦慄する。
「はっ……! ヴォ、ヴォルフ……! なぜ、お前がそこに……」
「静まりたまえ、両名とも」
ロッソは血生臭い因縁が交錯する書斎の中央に立ち、冷ややかに宣言した。
「今から私が、君たちの間に横たわる下劣な『事実誤認』を解体する」
ロッソの視線は、怯えるバルタザールではなく、彼の背後の壁――豪奢な大理石の暖炉の上に重々しく掲げられた『交差した二振りの剣と盾』の巨大な鋼鉄製レリーフへと向けられていた。
「バルタザール卿。貴方は夕食の時から、常にこの壁の紋章を庇うような素振りを見せていた。命を狙われているにもかかわらず、武器を取るわけでもなく、ただひたすらにこの『壁』を守ろうとしていた」
ロッソは歩み寄り、その巨大な鋼鉄の紋章の表面を撫でた。
「未来からの数式が、私にすべてを教えてくれたよ。これは単なる家の誇りを示す装飾ではない。中に何かを封印するための、極めて堅牢な『隠し金庫』だ。そして、この金庫を開けるための『鍵』の形状こそが――」
ロッソは振り返り、呆然と立ち尽くすヴォルフを指さした。
「――ヴォルフ。君の左胸に刻まれた、その紋章の烙印そのものだ」
「隠し金庫を開けるための『物理的な鍵』という意味ではない。その胸の傷こそが、隠された盟約と君の正統な血筋を証明し、金庫の封印を解かせる『生きた鍵』なのだ」
「馬鹿な……!」ヴォルフが叫んだ。「この傷は、数年前の紛争で俺たち傭兵部隊があの男に見捨てられ、奴隷のように焼き付けられた屈辱の烙印だ! 俺はこの傷を見るたびに、あの冷酷な領主への復讐を誓ってきたんだぞ!」
「だから、それが間違いだと言っているのだ、次元の低い復讐鬼め」
ロッソは一切の容赦なく、冷徹な声でヴォルフの信念を切り捨てた。
「領主が奴隷にわざわざ自らの正統な家紋を刻むなど、論理的にあり得ない。その傷は、君がこの領地において『正当な権利を持つ一族(あるいはそれに準ずる盟約者)』であることを証明するための、消せない契約書だ。……さあ、バルタザール卿。物理的な証明は済んだ。金庫の中身を開示してもらおうか」
探偵の圧倒的な論理による看破を前に、バルタザールはその場に崩れ落ちるように膝をつき、両手で顔を覆った。
「……探偵殿の、言う通りだ」
老いた領主の目から、隠し続けてきた重圧の涙が零れ落ちた。
ヴォルフはその光景を理解できず、ただ愕然と目を見開いたまま、自らの胸の傷と、壁の紋章を交互に見つめることしかできなかった。
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