7:回帰の迷宮
「過去の私へ伝えろ。――『傷は、紋章』だと」
未来のロッソがその言葉を絞り出した瞬間、ユキの身体から爆発的な光が放たれた。
悲鳴を上げるベルンハルトも、絶望に沈むヴォルフも、血濡れた領主も。世界を構成するすべての因果が、激しい逆回転の渦に飲み込まれ、崩壊していく。
* * *
過去の時間軸。
ロッソが侍従ベルンハルトを伴い、自室に閉じこもるモルガンやヴィクターには目もくれず、東棟の回廊で不審な動きをするヴォルフを目撃した、まさにあの瞬間へと、時間は寸分違わず巻き戻っていた。
回廊の影に潜み、バルタザールの部屋の前で葛藤するヴォルフの背中を見つめていたロッソ。
そのすぐ傍らで息を潜めていた少女ユキの様子が、突如として豹変した。
「……ユキ?」
異変に気づいたロッソが視線を落とすと、ユキの無垢な瞳からふっと感情の色が抜け落ちていた。焦点の合わないその眼差しには、微かに青白い超常の光が宿っている。
そして、彼女自身の意志や理解とは全く無関係に――まるで何者かの言葉を強引に受信し、出力するためだけの無機質な器になり果てたかのように、その小さな唇が機械的に開かれた。
『――傷は、紋章』
石造りの回廊に響いたその声は、間違いなくユキの舌と声帯から発せられたものだった。しかし、その声音の冷たさ、圧倒的なまでの理性の響きは、紛れもなく「ロッソ自身」のものだった。
「……ッ!」
ロッソは息を呑み、ユキの肩を支えた。
言葉を発し終えた直後、ユキの瞳から青白い光が消え、彼女は糸が切れた操り人形のようにぐらりと姿勢を崩した。今自分が何を言ったのかすら認識できていない、激しい疲労と虚脱状態。
(未来の私が、時間を遡行させた……!?)
ロッソは一瞬にして事態を悟った。
未来の自分が、この後の時間軸で致命的な出来事である殺人を未然に防ぐことに失敗した。そして、世界をやり直すために、ユキの命を削ってまで決定的なパスワードを送り込んできたのだ。
ロッソは、部屋の前で引き返そうとしているヴォルフの背中を再び見据えた。
彼が執拗に庇っている左胸。衣服の下に隠された、いまだ見たこともない傷痕。
そして、この城のあちこちに、とりわけあのバルタザールの部屋の壁に重厚に刻み込まれた家系の紋章。
『傷は、紋章』
ユキの口を借りて響いたその無機質な一言が、ロッソの頭脳の中で爆発的な連鎖反応を起こした。
(馬鹿な。あの男が庇っている左胸の傷が、この城の紋章と同一の形状をしていると言うのか?)
ロッソの双眸が驚愕に見開かれ、瞬時に全てのパズルのピースが恐るべき速度で噛み合っていく。
(もしそうならば、この事件の前提は完全に崩壊する。あの男は単なる復讐者ではない。領主を恨んでいるはずの男が、なぜ領主の家の紋章を自らの心臓の上に刻み込んでいる? 違う、逆だ。あれは彼がこの一族に連なる者であることの証明……あるいは、何かを封印するための物理的な『鍵』だ!)
未来からの「一言」だけを起爆剤にして、ロッソは真相の最深部へと到達した。
動機の裏にある巨大な矛盾。ヴォルフが今抱いている殺意が、致命的な事実誤認に基づいているという確信。そして、彼を裏切ったはずの領主バルタザールが、なぜ自身の命よりも壁の紋章を庇うような動きを見せていたのか。
「……なるほど。そういうことか」
ロッソの唇に、冷徹で圧倒的な自信に満ちた笑みが蘇った。
彼が凶器を取りに自室へ戻り、再び凶行に及ぶまで待つ必要などない。今この瞬間、この場で狂った数式を解決し、全ての動機を論理の力で叩き潰す。
「ベルンハルト、付いてきたまえ。これより因果の書き換えを行う」
ロッソは外套を翻し、暗がりから堂々と歩み出た。そして、ちょうど踵を返そうとしていたヴォルフの背中に向けて、冷たく、だが決定的な声で呼び止めた。
「そこまでだ、元傭兵殿。――いや、この城の『鍵』を胸に宿す者よ」
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