6:論理の敗北
ヴォルフがバルタザールの部屋の前から自室へと引き返していったあの時。ロッソは彼の背中に、殺意と葛藤の間で揺れ動く「躊躇い」を見た。
彼が自らの手で一線を越えるには、まだ決定的な「最後の数式」が足りていない。彼が実際に動き出す前に、動機の裏側にある歪みを暴くための僅かな猶予がある――ロッソの天才的な頭脳は、そうプロファイリングしたのだ。
だが、それは彼女の生涯において最も致命的で、愚かな計算違いであった。
「――っ!?」
深夜の冷え切った空気を切り裂くように、西棟の奥――バルタザールの書斎から、鈍く重い物音と、何かが砕け散るような激しい破壊音が轟いた。
悲鳴すらなかった。それは完全に研ぎ澄まされた殺意が、一切の躊躇なく物理現象へと変換された、決定的な暴力の音だった。
「しまった……!」
ロッソは己の計算のミスを激しく呪いながら、朱い外套を翻して回廊を疾走した。少女ユキと、戦慄する侍従ベルンハルトがその後を追う。
ヴォルフが先ほど部屋へ戻ったのは、殺意を鎮めるためなどではなかった。むき出しの狂気を静かに冷やし、確実に標的の命を刈り取るための『武器』を手に取るためだったのだ。人間の情動を、論理という定規で測りきれると過信した己の傲慢さ。それがこの致命的な遅れを生んだ。
書斎の重厚なマホガニーの扉は、乱暴に蹴り破られ半開きになっていた。
ロッソが扉を蹴り開けて踏み込んだ瞬間、暖炉の赤い炎が、床に広がるどす黒い液体の海――まだ温かい鮮血を禍々しく照らし出した。
「あ、ああ……っ! 旦那様ぁぁッ!!」
背後でベルンハルトが悲痛な絶叫を上げ、膝から崩れ落ちた。
部屋の中央、血の海の中に立っていたのは、ヴォルフだった。彼の手には、先ほど手ぶらだった時にはなかった無骨な長剣が握られ、その刃からはポタポタと領主の血が滴り落ちていた。
そして、執務机の奥。領主バルタザールは、胸を深く貫かれ、まさに事切れる寸前だった。
だが、ロッソの冷徹な双眸は、凄惨な死の光景そのものよりも、彼らの『奇妙な挙動』に釘付けになっていた。
致命傷を負った直後であるにもかかわらず、バルタザールは逃げることも、助けを求めることもせず、自身の背後にある大理石の壁へと後退した。そして、最後の力を振り絞るように両腕を広げ、壁に嵌め込まれた巨大な鋼鉄のレリーフ――『交差した二振りの剣と盾』の紋章を、自らの血濡れた身体で必死に覆い隠したのだ。
自分の命よりも、ただその『壁の紋章』を守り抜くかのように。
「……終わった。これで、俺たちの部隊の恨みは……っ」
ヴォルフがうわ言のように呟きながら、長剣を取り落とした。復讐を果たしたはずの彼の顔に歓喜の色はない。そこにあるのは、取り返しのつかない虚無と、目的を喪失したただ黒い絶望だけだった。
その時、荒い呼吸を繰り返すヴォルフの胸元が、ロッソの視界に入った。
バルタザールが最後の抵抗として掴みかかったのか、ヴォルフのシャツは胸元から大きく引き裂かれていた。これまで彼が執拗に庇い続けてきた左胸。その下の皮膚に刻み込まれた『痕跡』が、赤々とした暖炉の光の中に完全に暴き出されていた。
それは戦場で負った無秩序な傷などではない。
高温の鉄を押し当てて意図的に焼き付けられた、精緻な『烙印』。
その形状は――交差した二振りの剣と盾。
「……ッ」
ロッソの脳内で、バラバラだったピースがかつてない速度で結合し、同時に、自らが犯したミスの巨大さに打ちのめされた。
ヴォルフの胸の傷。そして、バルタザールが死の直前まで自身の身体で隠そうとしていた、壁の巨大な紋章。二つの形は、寸分違わず完全に一致している。
(この男は領主に虐げられ、恨みを抱いてここへ殺しに来たはずだ。それなのに、なぜ加害者であるはずの領主の家の紋章を、自らの心臓の上に刻み込んでいる……?)
その矛盾の奥底に潜む、あまりにも悲しく不格好な「事実誤認」の正体。
この殺人の前提は、根底から狂っている。被害者と加害者の間にある因果関係は、決して『恨み』などという単純な数式ではない。
ドサリと、バルタザールの身体が壁から滑り落ち、事切れた。
遅かった。
ロッソは血だまりの前で膝をつき、拳が白くなるまで固く握りしめた。計算の完璧さを誇っていた探偵の顔から、一切の色の気が失せている。
自らの洞察の遅れが引き起こした、最悪の計算エラー。目の前で失われた命。それは探偵としての尊厳をへし折られる、最大の屈辱だった。
「……許し難い」
血だまりの中で打ち震えるヴォルフと、物言わぬ屍となった領主を見据え、ロッソは奥歯を砕かんばかりに噛み締めた。
「二度と……二度とこの下劣なエラーを存在させはしない」
彼女に残された唯一の選択肢は……傍らで待機する少女ユキの異能を介して、過去の自分へメッセージを飛ばすこと。
ロッソは苦渋の決断と共に振り返り、ユキの華奢な肩を力強く掴んだ。
「……頼む、ユキ。私のこの致命的なミスを、次の私へ繋いでくれ」
ユキの無垢な瞳が、青白い超常の光を帯び始める。
だが、その代償はあまりにも重い。時間の壁を越えて送れる情報は、極限まで圧縮された「たった一言」だけ。具体的な解決策や状況説明などを送ろうものなら、凄まじい次元の負荷によってユキの小さな脳と肉体は完全に焼き切れてしまうだろう。
過去の自分へ送るべき、たった一つの言葉。
過去の自分は、まだ事件が起きる前、ヴォルフの胸の傷の正体も見ていない。
その無知な過去の自分に、この強烈な『物理的矛盾』を瞬時に悟らせ、壁の紋章と彼の傷を結びつけて全ての動機を看破させるための、極限まで圧縮された一言。
ロッソは血だまりの中で、己の論理の敗北を噛み締めながら、一つのフレーズを演算し終えた。
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