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5:潜む悪意

 跳ね橋が上がり、外界から切り離された『孤影荘』の夜は、文字通りの深淵のような静寂に包まれていた。しかし、その静寂は平穏なものではなく、沸騰寸前のマグマを閉じ込められた地殻のように、いつ亀裂が入ってもおかしくない危うい緊張感を孕んでいる。


 ロッソは、侍従ベルンハルトを従え、石造りの冷え切った城内回廊を静かに巡回していた。彼女の足音は靴底の音が響かないほどに軽く、その双眸は闇の向こうに潜む微細な兆候をも逃さぬよう、鋭く研ぎ澄まされている。


「……各々の客人の自室の位置は確認済みだね、ベルンハルト」

「は、はい。西棟の二階に建築家のヴィクター様と商会主のモルガン様。そして、東棟の旧い客室に元傭兵のヴォルフ様が滞在されております。東棟はかつて先代の当主が書斎として使っていた一角で、城のなかでも最も古い構造をしておりますが……それが何か?」


 ベルンハルトの問いかけに、ロッソは答えず、ただ冷ややかに唇を歪めただけだった。


 西棟の扉の奥からは、嵐の音に怯えて酒を煽るモルガンの不機嫌な足音や、城の設計図を検分するヴィクターの不気味な呟きが漏れ聞こえていた。彼らの容疑も排除はできないが、今最も『歪んだ熱気』を放っているのは――東棟だ。


 東棟。バルタザールの執務室である書斎のすぐ近く、そしてあの重厚な金属製の紋章――『交差した二振りの剣と盾』が壁面に刻まれているエリアだ。


 ロッソたちの足取りが、東棟の長い回廊へと差し掛かったときだった。

 闇の奥から、かすかな足音が聞こえてきた。


 コツ、コツ、コツ、と硬質なブーツの靴音が石畳を叩く音。


 ロッソはベルンハルトに制止の合図を送り、自らは身を翻して回廊の影へと身を潜めた。少女ユキもまた、音もなくロッソの背後に寄り添う。


 闇のなかから姿を現したのは、元傭兵のヴォルフだった。

 彼は外套を羽織ることなく、シャツ姿のまま荒い息を吐いていた。その双眸には、夜の闇よりも深い苦悩と、抑えきれない何かの執念が渦巻いている。彼の両手には何も握られていないが、その歩みは異様なほどに張り詰めていた。


 ヴォルフは歩みを進めるたび、どうしても隠しきれないように、自身の左手をきつく左胸のあたりに押し当てて庇っていた。呼吸をするたびに、その胸元がわずかに痙攣し、苦痛に歪む。


 見据える先にあるのは、書斎――領主バルタザールの部屋へと続く重厚な扉だった。


 ヴォルフはバルタザールの部屋の前で足を止め、その扉をしばらくじっと見つめた。その表情には激しい葛藤の色が浮かんでいる。何かを決意しかけ、しかし踏みとどまるかのように、彼は固く拳を握りしめた。やがて、彼は決心したように踵を返し、足早に自室の方へと引き返していった。


(……今のは)


 ロッソは影からその一部始終を静かに観測し、彼のすべての挙動を脳内の座標に記載した。

 ヴォルフが抱いているのは明確な殺意か、あるいは別の何かか。現時点では彼は凶器を手にしているわけでもなく、具体的な犯罪行為に及んだわけでもない。ここで無闇に介入すれば、かえって歪んだ数式を刺激し、予測不能なエラーを誘発する恐れがある。


(まだ動機の構造が見えていない。彼が実際に動き出す前に、この城の隠された数式をすべて暴かなければならない)


 ロッソは冷徹な眼差しを光らせ、影のなかで静かに息を整えた。外の猛吹雪はますます激しさを増し、城の窓ガラスを激しく打ち鳴らしている。運命の歯車が狂い始めるその瞬間は、もうすぐ目の前まで迫っていた。


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