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9:動機の解体

 暖炉の炎が爆ぜる音だけが、沈黙の落ちた書斎に虚しく響いていた。

 探偵ロッソの冷徹な宣告を受け、老いた領主バルタザールは諦観したようにゆっくりと立ち上がった。彼はヴォルフの鋭い視線とロッソの無機質な眼差しを背中に浴びながら、壁に掲げられた巨大な『交差した二振りの剣と盾』の紋章へと向き直る。


 震える指先で紋章の特定の意匠を押し込むと、カチリ、と重々しい金属音が鼓膜を打った。

 強固な鋼鉄のレリーフが音もなく横へとスライドし、大理石の壁の奥から、冷気を帯びた隠し金庫がその姿を現した。


 バルタザールはその中から、厳重に封をされた一本の古い筒を取り出し、ひどく重いものを手放すかのように、ロッソの差し出した手の上にそれを置いた。


「開きたまえ、元傭兵殿。それが、君が自らの命と魂を懸けてまで殺そうとした男の『真実』だ」


 ロッソは受け取った筒から丸まった羊皮紙を引き抜き、ヴォルフの胸元へと無造作に突きつけた。


 ヴォルフは警戒するように、しかしどこか引き寄せられるようにその羊皮紙を受け取った。紙面には色褪せたインクで何事かが記されており、末尾には先代領主の署名と、バルタザール自身の署名、そして――赤黒く変色した、血の拇印が押されていた。


「そ、れは……」

 羊皮紙に目を落とした瞬間、ヴォルフの屈強な両腕がカタカタと痙攣し始めた。血走った瞳が文字の上を滑るたび、彼の顔から怒りの熱が急速に奪われ、代わりに信じ難い事実に対する強烈な戦慄が広がっていく。


「読めないのなら、私が要約してやろう」

 ロッソは冷ややかに、だが部屋の空気を完全に支配する声で告げた。


「数年前の国境紛争。君たち傭兵部隊は、王国の中央軍から『反逆の温床』として目をつけられ、全員の処刑が秘密裏に決定されていた。辺境の領主であるバルタザール卿に、君たちを庇い立てする政治的な力はなかった」


 ロッソの言葉が、氷の刃のようにヴォルフの認識を切り裂いていく。


「もし君たちを正面から逃がせば、この『孤影荘』と領民すべてが王国の反逆罪に問われ、根絶やしにされていただろう。だから彼は、君を――傭兵部隊の長である君を『追放』し、『裏切った』という芝居を打つしかなかったのだ。悪逆非道な領主として君たちから憎悪されることでしか、君たちの命を盤外へ逃がす数式は成り立たなかった」


「嘘だ……! なら、なぜ俺の胸にこんな烙印を!」

 ヴォルフは喉から血を吐くような声で叫び、自らの左胸を強く掴んだ。


「まだ分からないのか? 彼はただ君を逃がしたのではない。君の心臓の上にこの城の『紋章』を刻み込むことで、君が国境を預かるこの家の『盟約者』であることを物理的に証明したのだ。もし君が他国で捕らえられ、奴隷として殺されそうになった時、その紋章が君の身分を保証し、命を救う最後の盾となるように」


 ロッソは一歩踏み込み、ヴォルフの眼前に冷徹な顔を近づけた。


「バルタザール卿は君を裏切ったのではない。領民を守る重圧と、君たちを救うための罪悪感をたった一人で背負い込み、孤独に耐え続けながらこの城に縛られていた最大の恩人だ。……『バルタザール卿が君を裏切った』という復讐の数式は、ここに完全に破綻した」


 パサリ、と。

 ヴォルフの手から羊皮紙が滑り落ち、血塗られた因縁の証が床に転がった。


「あ……ああ……」


 ヴォルフの口から、獣のような呻き音が漏れた。

 彼はよろめきながら後ずさり、やがてその場に膝から崩れ落ちた。彼の胸の内を占めていたどす黒い殺意の炎は、あまりにも残酷で、あまりにも遅すぎた真実の奔流によって完全に鎮火させられていた。


 もし、この探偵が介入していなければどうなっていたか。

 自分は復讐という名の狂気に身を任せ、自分たちを救うためにすべてを犠牲にした恩人の胸に、あの軍刀を突き立てていたのだ。そして、その死の直前にこの壁の紋章の真意を知り、永遠の悔恨と絶望の中で自ら命を絶つか、狂人として生き地獄を彷徨うことになっていただろう。


「お前は……俺たちを、見捨てたんじゃなかったのか……。俺はずっと、お前を憎むことでしか……生きてこられなかったのに……ッ!」

 ヴォルフの目から、大粒の涙がとめどなく溢れ出した。それは復讐者の涙ではない。迷子になった子供のような、圧倒的な慟哭だった。


 バルタザールは口元を震わせ、崩れ落ちたヴォルフの元へ歩み寄ると、その震える広い肩を、不器用な手つきで静かに抱き寄せた。主従の間にあった致命的な相違が、長い年月を経てようやく修復された瞬間だった。


「――論理的解決は、これにて完了した」


 ロッソはその光景を冷ややかに、しかしどこか満足げに見下ろしながら、懐中時計の蓋をパチンと閉じた。


 第一時間軸で確定していた「死」という名の計算違いは、過去の自分への極限の演算と、一言のパスワードによって見事に修正された。この閉ざされた雪山の密室から、被害者も、加害者も、もはや一人も出ることはない。


「……う……ん……」


 ロッソの外套の裾の横で、小さな呻き声が上がった。

 侍従ベルンハルトの腕の中で、激しい疲弊のために気を失っている少女ユキ。


「ご苦労だったね、ユキ。因果の数式は、正常に戻ったよ」


 ロッソは滅多に見せない微かな微笑を浮かべ、外の白銀の世界へと目を向けた。猛威を振るっていた吹雪は、いつの間にかその勢いを弱め、分厚い雲の隙間から、冷たくも美しい夜明けの月明かりが『孤影荘』の窓を静かに照らし始めていた。


感想いただけると狂喜乱舞しますので感想くださいください

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