10:因果の同期
書斎の冷たい空気が、静寂の中に溶けていく。
ヴォルフが己の無知と過ちを悔いて慟哭する、その時だった。
パチパチと暖炉の薪が爆ぜる音を合図に、世界の境界線が固定され、時間が完全に「追いついた」。
「うっ……!」
ロッソは思わず片手で額を押さえ、激しい眩暈に身を震わせた。
物理的な痛みではない。因果律の書き換えが完了したことによって発生する、時間遡行探偵特有の現象――『未来との同期』である。
今この場所に存在している「事件を防いだ過去のロッソ」の意識の中に、別の時間軸、すなわち「バルタザールが血塗られた死体となり、ヴォルフが絶望の中で立ち尽くしていた、あの破滅の第一時間軸」の全記憶が、凄まじい濁流となって流入し、融合していく。
むせ返るような濃厚な血の匂い。
ペルシャ絨毯を汚していたどす黒い赤。
死の間際まで壁の紋章を必死に覆い隠そうとしていたバルタザールの悲壮な背中。
それらの映像が、まるで自分がたった今体験してきた確固たる事実であるかのように、脳内の論理回路に上書きされていく。
「あ、あああ……っ! うあああああッ!」
同じ瞬間、ロッソの背後で、侍従ベルンハルトが突然狂ったように叫び声を上げ、その場に激しく泣き崩れた。
密室の条件として探偵の観測に同席した『証人』である彼にもまた、第一時間軸の記憶が同期されたのだ。
「旦那様! 旦那様が、血を流して……私が、私が旦那様の死体の前で……っ!」
ベルンハルトは自身の両手を見つめ、そこに付着していないはずの「主人の血」の感触に戦慄していた。彼の脳裏には、自分が主の遺骸に取りすがって絶望の声を上げていた光景が、消えない焼き印のように刻み込まれている。
彼は恐怖と混乱に歯の根をガタガタと震わせながらも、目の前で五体満足のまま困惑している生きているバルタザールの姿を見て、這いつくばるようにしてその足元へすがりついた。
「旦那様……生きて、いらっしゃる……本当によかった……!」
「ベルンハルト? 一体どうしたというんだ、急に泣き出して……」
当事者であるバルタザールとヴォルフには、未来の記憶は同期されない。彼らにとって、この世界は「探偵に裏の金庫の古文書を見つけ出され、殺意が未然に瓦解した」という平穏な歴史の延長線上でしかないからだ。自分たちがどれほど恐ろしい破滅の崖っぷちに立たされていたのか、彼らは一生知ることはない。
ロッソは深く息を吐き出し、脳内の全データを整理・統合した。
第一時間軸での敗北の記憶と、この第二時間軸での完全なる勝利の記憶。二つの異なる可能性を処理し終えた彼女は、冷徹で傲慢な表情を取り戻す。
「……ハッピーエンドというのは、どうにも脳の演算領域を無駄に圧迫するね。ひどく美しくない頭痛だ」
ロッソは懐中時計を取り出し、パチンと蓋を閉じた。
床に伏したまま動けないヴォルフに向かって、冷ややかな視線を投げ下ろす。
「ヴォルフ。君の復讐という名の計算違いは、これにて完全に修正された。君が今背負っているその絶望と悔恨は、君が犯すはずだった『大罪』の重さだ。恩人を殺め、一族の誇りを文字通り踏みにじるはずだった最低の結末を、君は今、奇跡的に回避したのだよ」
「……俺は……俺は……」
「これ以上の言葉は不要だ。君の動機は解体された。後は、君たちを救うために自ら悪名を被り続けたこの愚直な領主と、生きて話し合うといい」
ロッソはそう言い放つと、バルタザールに向き直った。
「バルタザール卿。貴方の『守護の意志』は、死をもって完遂されるべきではなかった。生き延びて、この男たちと共に王国の脅威から領地を守る数式を組み立て直すこと。それこそが、探偵の導き出した唯一の正解だ」
バルタザールは唖然としながらも、自らのために涙を流し続けるベルンハルトの肩を抱き、やがて深く頷いた。
「……う……ん……」
ロッソの外套の裾の横で、小さな呻き声が上がった。
ベルンハルトの腕の中で、少女ユキがゆっくりと長い睫毛を持ち上げ、その無垢な瞳を開いた。彼女の顔にはまだ時間遡行の激しい疲弊が色濃く残っていたが、その瞳の奥には、ロッソと全く同じ『第一時間軸の惨劇を書き換えた』という確信の光が静かに宿っていた。
ロッソはユキの小さな手をそっと取り、優しく引き起こした。
「ゆっくりおやすみ、ユキ。そして、お帰り。君が繋いだ因果の糸は、完璧に美しい形に編み上がったよ」
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