10:歴史の確定と別れ
静けさが、部屋を支配していた。
地の底から鳴り響いていたはずの禍々しい地響きは、すでに影も形もない。窓の外を叩いていた激しい雨もまた、いつしか穏やかな小雨へと変わり、しとしとと石畳を濡らす水音だけが静かに落ちていた。
南の空を赤く染め上げていた不吉な火光は完全に消え去り、そこにはただ、本来あるべき静寂と雨の夜の闇が広がっている。
「……あ……っ……」
ユキが胸を強く押さえ、小さな吐息を漏らした。
彼女の白銀の瞳が、激しく明滅を繰り返す。彼女の回路を通じて、二つの歴史――前線で数万の命が焼き尽くされた「第一時間軸の惨劇の記憶」と、改竄が撤回され何事も起きなかった「第二時間軸の現実」が、重なり合い、そして一つへと収束していく。
「歴史が……書き換わりました……。前線の戦争は……起きていません……」
ユキは震える手でロッソの外套の裾を掴み、涙を浮かべて見上げた。
「誰も……殺されなかった……。過去の改竄は、未然に防がれました……ロッソ……!」
「ああ、分かっている」
ロッソは静かに煙管を持ち上げ、紫煙を細く吐き出した。その赤い瞳は、卓についたまま荒い息を吐く男――ネロから離れてはいない。
ネロの手からは、先ほどまで握られていた小刀と、血の滲む羊皮紙が滑り落ちた。
彼の顔色は泥のように蒼白く、全身から力が削ぎ落とされていた。自らの意志で一族の過去の命令を書き換え、再改竄を放った反動。そして何より、数百年にわたり身を寄せていた「群体」の庇護から、自らの手で完全に離脱したことによる圧倒的な孤独感。
「……終わったよ、探偵さん」
ネロは掠れた声で呟き、自らの血で汚れた手を見つめた。
「前線の要塞の火薬庫は封鎖された。狂気に駆られていた司令官も、過去に送った『一言』によって失脚したはずだ。……君たちが望んだ通り、歴史は正しく保たれたのさ」
「フン……お前が望んだ結果でもあるはずだ」
ロッソは冷ややかに言い放った。
「群体という器を捨て、ひとりの人間として己の罪を拭ったのだからな」
「ひとりの人間、ね……」
ネロは力なく自嘲の笑みを浮かべ、ゆっくりと立ち上がった。その足取りは、先ほどまで「無害な客人」を演じていた時とは異なり、重く、痛々しいほどに覚束なかった。
「……だがね、探偵さん。群体を捨てて『個』を取り戻した代償は、あまりにも重い」
ネロは落ちていた丸帽子を拾い上げ、愛おしそうにその泥を指先で払った。その目元には、己の未来を完全に悟った男の、静かで諦絶した陰影が刻まれていた。
「我が一族は、裏切り者を絶対に許さない。一族の悲願である繁栄を不意にし、血脈の伝達を途切れさせた私には……遠からず、相応の『報い』が下されるだろうね」
「報い、だと」
「ああ。いまこの瞬間も、一族の暗部が私の『裏切り』を察知しているはずだ。……明日か、あるいは数日後か。私は一族の放った刺客の手によって、どこかの路地裏で静かに始末される。死体すら残らないかもしれない」
ネロは静かに死を予感していた。
それは恐怖による脅えではなく、一族という血脈の恐ろしさを誰よりも熟知しているからこその、冷徹な確信だった。一族を裏切った人間に待っているのは、確実な破滅以外に存在しない。
「ねえ、ネロさん……!」
ユキが痛々しそうな声を上げ、一歩踏み出そうとした。だが、ロッソが手でそれを静かに制した。
「止めるな、ユキ。……それが、この男が『ひとりの人間』として背負うと決めた責任の重さだ」
「……探偵さんの言う通りだよ、ユキちゃん」
ネロは帽子を深く被り直し、気弱そうな、しかしどこか晴れやかな笑みを浮かべた。
「だが……覚えておいてほしい。私という『ネロ』が死んで消えたところで、我が一族の歴史改竄がこれで終わるわけではないのだよ」
ネロの声が、暗闇の中で静かに響く。
「私という端末が壊れれば、一族はすぐに新たな『器』を選び出し、次の『ネロ』を仕立て上げるだろう。そして再び、数百年の血脈を通じて『一言』を過去へ送り、歴史の綻びを紡ぎ始める。……私がいなくなっても、第二、第三のネロが、何度でも君たちの前に立ち塞がるはずだ」
ネロの言葉は、未来へ投げかけられた不吉な予言だった。
目の前の男を倒し、今夜の戦争を防いだところで、一族という巨大な群体の蠢きそのものが潰絶したわけではないのだから。
しかし――探偵ロッソの顔に、恐れや焦りの色は微塵もなかった。
「第二、第三のネロ、か」
ロッソは唇の端を吊り上げ、冷酷で不敵な笑みを深めた。赤い瞳に宿るのは、いかなる不純物も決して許さない、絶対の美学と自信の光。
「フン……笑わせるな。第二が現れようと、第三が現れようと、私にとっては等しく無価値な『不純物』に過ぎん。何度現れようと、その都度すべての論理を解剖し、叩き潰すまでだ。お前たち一族の歪んだ血脈が、歴史の泥の中に根絶やしになるまでな」
「……ふふ、実に君らしいな。冷徹で、美しく、傲慢な探偵だ」
ネロは心底感心したように小さく息を漏らすと、胸元に手を当てて深く一礼した。
「さようなら、探偵ロッソ。そして、ユキちゃん。……君たちと過ごしたお茶の時間だけは、僕の人生で唯一、自分自身の意志で味わえた『最高の時間』だったよ」
ネロは振り返ることなく、静かに探偵事務所の重厚な扉を開いた。
夜の冷たい風と小雨が室内に吹き込み、彼の手土産だった焼き菓子の香りを吹き去っていく。
男の背中は、雨の中へと消えていった。
己の犯した罪と、これから訪れる確実な死の予感をその肩に背負いながら――「個」を取り戻したひとりの人間として、彼は静かに去っていった。
パタン、と扉が閉ざされ、あとに残されたのは静けさだけだった。
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