エピローグ:クロワッサンが食べたい
嵐は、完全に過ぎ去っていた。
石造りの壁を打ち鳴らしていた激しい雨音はいつしか絶え、窓枠を軋ませていた暴風も凪ぎ渡っている。分厚い雨雲がゆっくりと引き去り、雲の切れ目から覗いた蒼白い月光が、硝子窓を透かして床の上に長い光の帯を投げかけていた。
静寂が、探偵事務所を深く満たしている。
卓上には、冷めきった三つの陶器のカップと、ネロが手土産として持ち込んだ焼き菓子の包みが取り残されていた。甘い香辛料の香りはすでに薄れ、代わりにロッソがくゆらせていた紫煙のほろ苦い残香だけが、部屋の隅に薄く漂っている。
歴史を揺るがす未曾有の大戦争。数百年にわたり暗闇の中で紡がれてきた、血脈の伝達による過剰な改竄。
それらすべての因果が、目の前で「ひとりの人間」として解剖された男の手によって、未然の過去へと書き換えられた。地の底からの不吉な振動も、炎に包まれるはずだった前線の惨劇も、いまや存在しない「幻影の記憶」として、時の彼方へと消え去ったのだ。
「……ロッソ」
静寂を破って、細い声がこぼれ落ちた。
卓に小さく手をついていたユキが、深く、長く呼吸を吐き出した。
白銀の髪が月光を受けて柔らかな光を打ち返し、その陶器のように白い頬に、かすかに朱の気が戻り始めている。未来からの膨大な演算結果を受信し、書き換わる時空の歪みを直接その身に引き受けていた過酷な負荷から、彼女の幼い肉体はようやく解放されたようだった。
「気分はどうだね、ユキ」
ロッソは組んでいた脚をゆっくりと解き、革張りの椅子から立ち上がった。
彼女は優雅な足取りでユキの傍らに寄ると、細く白い指先で少女の髪を静かに撫で下ろした。その動作には、いつもの冷酷な探偵の仮面の下に隠された、確かな温もりが宿っていた。
「……はい。胸の奥の不協和音が……消えました。前線で起きていた惨劇の記憶も、第二時間軸の平穏の中に溶けて……ひとつに重なっていきます」
ユキは胸元で小さく手を握りしめ、静かに目を閉じた。
「誰も死にませんでした。街も、人も、歴史も……あるべき姿のまま、明日を迎えます」
「当然だ」
ロッソは鼻で小さく鳴らし、卓上の煙管を手に取ると、灰皿の縁で静かにトントンと叩いた。
「不純物を取り除き、歪んだ因果を正しく補正する。それが私と君の行ってきた『修正』だ。どれほど大層な血脈や歴史の重みが立ちはだかろうと、事実に反する醜い戯れ言など、私たちの論理の前に砕け散る以外にない」
「……ネロさんは、去っていきましたね」
ユキの言葉に、ロッソの赤い瞳がわずかに細められた。
去り際に男が残した言葉。一族を裏切り、「個」を取り戻したことへの代償。遠からず彼を襲うであろう一族からの確実な報い。そして、彼という端末が消えたあとに現れるであろう「第二、第三のネロ」の予言。
「怯えているのかい、ユキ」
「いいえ」
ユキは首を振った。その瞳には、かつて「一族の道具」として生み出され、絶望の淵にいた頃の影はどこにもなかった。
「ネロさんが言った通り……あの一族はまた、新しい『器』を選び、過去へ『一言』を送り続けてくるかもしれません。でも……わたしはもう、怖くありません」
ユキはまっすぐにロッソの顔を見つめた。
「ロッソがいてくれる限り。……わたしたちが『共犯者』である限り」
その言葉を聞いた瞬間、ロッソの滑らかな唇の端が、傲慢で、不敵で、そしてどこまでも誇り高い弧を描いて吊り上がった。
「フン……よく言った」
ロッソはユキの額に軽く指先を当て、悪戯っぽく弾いてみせた。
「そうだ。第二のネロであろうと、一族の数百年の執念であろうと関係ない。どのような不純物が歴史を汚そうと試みようが、私がその動機(Why)を徹底的に解剖し、すべて未然に叩き潰すまでだ。……君という媒介が、私の手札として存在する限りね」
「はい……探偵ロッソ」
ユキの口元に、小さく、柔らかな笑みが浮かんだ。
二人の間に、静かで揺るぎない絆が確かめられる。
それは世界を救う正義のヒーローのような高潔な盟約ではない。歴史という織物に紛れ込む不純物を許さず、二人だけの冷徹な論理で未来を修正し続ける――永遠に続く、美しい共犯関係の再確認だった。
カチ、コチ、と。
壁に掛けられた古びた大時計が、規則正しい振り子の音を刻み直していた。
時空の歪みによって乱れていた時間の刻みが、本来の平穏なリズムを取り戻した証拠だった。窓の外を見やれば、闇の底から白み始めた夜明けの気配が、街並みのシルエットをうっすらと浮かび上がらせ始めている。
激しい対話と時間遡行の緊張が解け、部屋の中には心地よい疲労感と、取り戻された「日常」の空気が静かに満ちていった。
「ふあ……」
ユキが小さな口を開け、可愛らしい欠伸を漏らした。長時間の緊張から解放されたことで、急激な眠気が襲ってきたらしい。彼女のまぶたは重たげに垂れ下がり、身体が揺ら揺らと舟を漕ぎ始めていた。
「おや、限界のようだね」
ロッソは苦笑し、ユキの華奢な肩を優しく支えてやった。
「さあ、部屋へ戻って休むといい。長旅と今夜の茶会で、君の回路もすっかり冷え切ってしまっただろう」
「……ロッソは……休まないのですか……?」
とろんとした瞳で尋ねるユキに、ロッソは卓上の散らかったカップや小箱を横目で見やりながら、肩をすくめてみせた。
「この散らかった卓上を片付けたらね。……なに、大した手間ではないさ」
ロッソは椅子の背から自分の外套を取り上げ、ユキの小さな身体を優しく包み込んでやった。暖かな生地の感触に包まれ、ユキは満足そうに小さく鼻を鳴らすと、ロッソの差し出した手に導かれるようにして、奥の寝室へと足を進めていった。
「明日の朝はクロワッサンが食べたい」
功労者はささやかな願いをロッソに残して眠りについた。
部屋に残されたロッソは、油ランプの芯を少しだけ小さく絞った。
青白い光が和らぎ、室内に暖かな橙色の影が落ちる。
ロッソは窓辺に歩み寄り、冷えた硝子に額を寄せた。
雨上がりの風が街を吹き抜け、遠くの路地裏には、清々しい朝の訪れを告げる鳥の声がかすかに響き始めていた。
幾多の事件、幾多の破滅、そして幾多の歴史改竄の影を追い続けた過酷な戦い。だが、どれほど凄惨な惨劇が訪れようと、自分たちの手で修正された世界は、こうして何事もなかったかのように平穏な朝を迎えるのだ。
ロッソは静かに目を閉じ、深く胸を膨らませた。
「……フン」
短く息を吐き出すと、彼女は卓上のカップを片付け始め、ゆっくりと自らの寝室へと向かって足を踏み出した。
静かなベッドに横たわり、心地よい疲労感に身を委ねる。
今から眠りにつけば、次に目が覚める頃には、ちょうどいつものパン屋が店を開け、焼きたての香ばしいパンと温かいミルクの香りが街に漂う時間になっているだろう。
日常への帰還。
探偵ロッソは、静かな寝顔を見せる少女の姿を愛でて、ゆっくりと深い眠りの中へと沈んでいった。
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