9:改心と再改竄
石畳の床に落とされた涙の滴が、ランプの微かな光を浴びて鈍く反射していた。
頭を抱え、床に膝をついて嗚咽する男。そこにはもはや、歴史の裏で気丈に糸を巻き続けてきた「不気味な黒幕」の影など微塵もなかった。ただ己が犯してきた途方もない罪の重圧に押し潰され、呼吸すら満足にできなくなった、惨めで哀れなひとりの人間が横たわっているだけだった。
「あ……ああ……僕は何を……僕たち一族は、何を……」
ネロの震える指先が、床を無惨に掻きむしる。
彼がこれまで誇り、あるいは盾としてきた「自分は一族という巨大な群体の道具に過ぎない」という思想。探偵ロッソの容赦なき論理は、その甘美な免罪符を容赦なく引き裂き、彼個人という逃げ場のない精神の中に、数百年分の血の重みと罪悪感を一気に叩き込んだのだ。
群体の陰に隠れて犯してきた数々の惨劇。
今夜、前線で焼き尽くされようとしている無数の命。
それらすべての最後の引き金を引いたのは、他ならぬ「ネロ」という一個人の手であったという逃れようのない現実が、彼の魂を底から焼き苛んでいた。
「立ち上がれ、ネロ」
頭上から落ちてきたのは、どこまでも低く、氷のように冷徹なロッソの声だった。
「涙を流して被害者を気取れば、お前の罪が霧散するとでも思っているのか? 『自分は無害な凡人だ』と泣き喚くことで、再び思考を停止し、お前の不純物を私に拭い去ってもらおうなどと考えるな」
「ロッソ……」
ネロは血走った目を上げ、見下ろす探偵の顔を仰ぎ見た。
ロッソの赤い瞳には、一切の同情も、憐憫の色も浮かんではいなかった。あるのはただ、不純物を根底から解剖し、あるべき姿へと修正しようとする、冷酷で圧倒的な意志の光だけだ。
「お前は群体から引き剥がされ、たったいま『ひとりの人間』として目覚めた。ならば人間らしく、己の仕出かした醜行に対し、己の足で責任を果たしてみせろ」
「責任……? 僕に、何ができるというんだ……!」
ネロはかすれ声で叫んだ。
「前線の戦争は、我が一族が数百年の歳月をかけて仕込んだ最後の改竄(一言)によって、すでに確定してしまっている! ここから馬を走らせても手遅れだ! 僕がどんなに悔い改めようと、どんなに泣き叫ぼうと、もうあの火砲の惨劇を物理的に止める手段なんて――」
「言ったはずだ、ネロ。手段ならある」
ロッソは静かに一歩を踏み出し、膝をつくネロの前で視線を低くした。
「前線で起きようとしている惨劇の引き金を引いたのは、改竄者たるお前だ。ならば……その改竄の前提を崩し、戦争そのものを過去から撤回できるのも、世界でただ一人、お前しか存在しない」
「僕が……改竄を、撤回する……?」
ネロは息を呑み、己の震える両手を見つめた。
「そうだ」
ロッソは冷ややかに、しかし力強い言葉を刻みつける。
「お前たち一族が『血脈の伝達』を通じて過去へ一言を送り続けてきたのなら、その計略の現代の主柱(盟主)たるお前には、過去の一族へ向けて『打ち消しの一言』を放つ資格と伝達網があるはずだ。……違うか?」
ネロの全身が、電気でも流されたかのように硬直した。
言葉の伝達。
そう、彼の一族が数百年にわたって行ってきたのは、大規模な時空魔法などではない。血脈の記憶と独自の暗号化された伝達網を通じて、過去の同胞へ『たった一言』を渡す技術だ。
改竄の引き金を引いたのが現代のネロであるならば、その引き金を解き、過去の仕掛けを無効化する『再改竄の一言』を放つことができるのもまた、現代の盟主であるネロ個人をおいて他にない。
「だが……そんなことをすれば……!」
ネロの顔が恐怖で歪んだ。
「一族の数百年の悲願が……私たちが積み上げてきた富と地位の繁栄が、すべて瓦解してしまう! 一族の同胞たちが……先祖たちが黙ってはいない……! 僕は一族の裏切り者として――」
「まだ群体の顔色を窺うか!」
ロッソの怒号が室内に響き渡った。
「お前はまだ、一族というぬるま湯の器に逃げ込もうとするのか! 命を奪われ、歴史を弄ばれた無数の犠牲者たちの叫びよりも、自分の保身と一族の都合を優先するというのなら……良かろう、ネロ。お前はただの浅ましい豚として、ここで私がその喉笛を断ち切ってやる!」
シュッ、と鋭い金属音が鳴り響いた。
ロッソの袖口から滑り出た鋼のナイフが、ネロの喉元へ寸分違わず突きつけられる。冷たい刃の感触が、ネロの皮膚に微かな血の点を浮かび上がらせた。
「ひっ……!」
「選べ、ネロ」
ロッソの赤い瞳が、逃げ場を完全に塞ぐ。
「道具として私の刃に倒れ、永遠に不純物として歴史の泥に沈むか。あるいは……『ひとりの人間』として立ち上がり、自らの手を汚してでも、己が撒き散らした破滅を、自らの意志を修正してみせるか!」
死の刃。そして、突きつけられた命題。
傍らで見ていたユキが、痛々しそうに胸を押さえながら、静かにネロへ向けて歩み寄った。
「ネロさん……」
ユキの無垢な瞳が、膝をつく男を見つめていた。
「わたしも……ずっと一族の『道具』として生まれてきました。でも……ロッソは、わたしをひとりの『人間』として、共犯者として受け入れてくれた……。あなたにも、選べるはずです。一族の道具ではなく……あなた自身の意志で、正しさを選ぶことが……!」
「ユキちゃん……」
ネロの目から、涙が溢れてこぼれ落ちた。
自分をただの器として利用し続けてきた一族。だが、目の前には、自分をひとりの意志ある「人間」として糾弾し、そして「責任」を果たすチャンスを突きつけている探偵と少女がいる。
ネロは大きく息を吐き出すと、喉元のナイフを静かに手で押し除け、力強く立ち上がった。
彼の背筋が、初めて一人の男として真っ直ぐに伸ばされる。その顔からは気弱な小市民の怯えが消え、己の罪と向き合う覚悟の色が宿っていた。
「……分かったよ、探偵ロッソ。君の勝ちだ」
ネロは胸ポケットから、古びた羊皮紙と、小刀を取り出した。
彼は迷うことなく小刀で自らの指先を切り裂き、血の滴で羊皮紙の上に、一族だけにしか解読できない特殊な暗号文を素早く走り書きしていく。
「我が一族が前線で戦争を引き起こすために送ったのは、『要塞の火薬庫の施錠を解除せよ』という一言だった。……それを、ここで打ち消す」
ネロは血で染まった羊皮紙を握りしめ、目を閉じた。
彼の体から、血脈のネットワークを通じて過去の時空へと干渉する、かすかな因果の波動が放たれる。
「――『要塞の火薬庫を即座に封鎖し、火種を投棄せよ』!!」
ネロの叫びが、探偵事務所の天井へと突き抜けた。
その瞬間――。
遠く南の空を赤く染め上げていた不吉な火光が、まるで最初から存在しなかったかのように、音もなくと黒い闇の中へ消えていった。
地の底から鳴り響いていた禍々しい地響きが、ピタリと止まる。
風の咆哮が去り、窓を叩く雨音だけが、静かに、そして穏やかに室内を包み込んでいく。
第一時間軸で確定していた「前線での未曽有の大戦争」という破滅。
それが、改竄者ネロ自身の手によって放たれた「再改竄の一言」によって、過去の因果から完全に打ち消され、未然に防がれた瞬間だった。
ネロは膝から崩れ落ちるように卓に手をつき、荒い息をついた。『一言』の負荷の大きさを物語るように、瞳孔は定まらず、額には脂汗が浮いている。
だがその顔には、一族の器であった時には決して浮かぶことのなかった、どこかすがすがしい「ひとりの人間」としての安らぎが広がっていた。
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