8:Whyの解体と「個」の芽生え
石造りの壁を叩く雨音が、室内を包む重苦しい静寂を一層深めていた。
卓上に置かれた焼き菓子は冷め、油ランプの赤い炎が、対峙する二人の顔を不吉に揺らめかせている。
「……僕が、囮だと?」
ネロは力なく首を振り、困ったような、哀れみを乞うような弱々しい笑みを浮かべた。その表情は、市井の気弱な商人が無理に作り出した愛想笑いそのものだった。
「探偵、君の想像力には驚かされるが……買いかぶりすぎだよ。私にそんな大層な策略が巡らせられるはずがないだろう。私はただ、一族の先祖、子孫から受け継いだ『一言』を次の世代へ繋ぐだけの、どこにでもいる凡人に過ぎない。私個人に『囮』になるような大層な意志も、野心もないんだ」
「まだその仮面を被り続けるつもりか」
ロッソは脚を組み、組み替えた膝の上で指先を叩いた。トン、トン、と静かなリズムが、ネロの言い訳を軽蔑するように刻まれる。
「『自分はただの一族の道具だ』『個としての意志など存在しない』……フン、実に甘美で浅ましい自己欺瞞だな、ネロ」
「自己欺瞞……?」
「そうだ」
ロッソの赤い瞳が、相手の肉体を通り抜けてその魂の底を射抜くように鋭さを増す。
「お前は先ほどから、自分という存在の希薄さを声高に主張している。一族という巨大な『群体』の意思に従っているだけであり、自分個人には罪も感情もないと。……だが、ネロ。本当に『意志を持たぬただの道具』であるならば、なぜお前自身がここへ来た?」
ネロの呼吸が、ほんのわずかに乱れた。
「前線の戦争を成功させるための『時間稼ぎ』が目的ならば、手段は幾らでもあったはずだ。刺客を送り込んで私たちの館を包囲させることも、この建物ごと爆破して私たちを圧殺することもできた。一族の豊富な資金と異物を用いれば、物理的に私たちを拘束することなど容易かったはずだ」
ロッソは身を乗り出し、冷ややかに卓上の焼き菓子を指差しみせた。
「にもかかわらず、お前は自ら市井の菓子店へ足を運び、手土産を買い求め、雨に濡れながらこの事務所の扉を叩いた。そして穏やかにお茶を飲み、昔話を語り、私とユキに『無害で気さくな小市民』としての己を見せつけようとした。……なぜだ?」
「それは……私は平和主義者で、戦いが嫌いだから――」
「違うな!」
ロッソの断定の叫びが、雷鳴のように狭い事務所に響き渡った。傍らに立つユキが肩を揺らし、ネロの顔から血の気が失われていく。
「お前が戦いを避けたのではない! お前は……自分自身が犯している途方もない『罪』から目を背けるために、私という探偵を利用したのだ!」
「な……何を、言っているんだ……」
「お前は恐ろしかったのだ、ネロ!」
ロッソの理性の刃が、ネロが固く閉ざしていた心の泥沼を容赦なく抉り出していく。
「数百年にわたり、一族の手で仕組まれてきた無数の惨劇。歴史の裏で流された無辜の血。そして今夜、前線で引き起こされようとしている未曽有の大戦争。……それらすべての『最後の引き金』を引いたのは、他ならぬ今この時代に生きるお前自身だ!」
「私は……一族の続きの……ただの口であり……」
「言い訳をするな!」
ロッソは卓を強く叩いた。激しい音が室内に跳ね返る。
「『一族の意思』という都合の良い免罪符の陰に隠れ、自分はただの道具だと己を騙し、手を汚さずに巨大な破滅を引き起こす。……だが、お前の深層心理は知っていたはずだ。自分が行っていることが、どれほど途方もない悪行であるかをな!」
ロッソは冷酷な笑みを深め、逃げ場を塞ぐようにネロを凝視した。
「だからお前はここへ来たのだ。被害者であり、正義の象徴たる『探偵』の前に自ら躍り出て、温かい茶と菓子を分かち合うことで……『ほら見ろ、私はこんなにも無害で、普通で、優しい男だ。私は悪魔などではない』と、自分自身に言い聞かせて安堵したかったのだよ! 探偵から『無害な男』というお墨付きを得ることで、己の罪悪感を麻痺させようとした浅ましい自己正当化……それが、お前の来訪の真の動機(Why)だ!」
「あ……が……っ」
ネロの口から、掠れた悲鳴のような吐息が漏れた。
彼の手が激しく震え、胸元に抱えていた丸帽子が床へ落ちた。
ロッソが提示したのは、ネロ自身すら無意識の底に覆い隠していた、あまりにも生々しく醜悪な「人間としての自我」だった。
自分は一族という群体の一部であり、無個性の器に過ぎない――そう思い込むことで、数万の人間を殺し、歴史を歪める罪の重圧から逃れていた男。
だが、探偵の 情け容赦ない論理によってその「免罪符」は破り捨てられ、彼が逃げ続けてきた途方もない罪悪感の濁流が、ネロ個人という狭い精神へ一気に流れ込んでいく。
「違う……僕は……僕はただ……一族のために……」
ネロは両手で頭を抱え、床に膝をついた。
その瞳には、もはや先ほどまでの「無害で穏やかな小市民」の影はなかった。そこに現れていたのは、己の引き起こした罪の重さに押し潰され、恐怖と罪悪感に苛まれる、醜くも生々しい「ひとりの人間」の顔だった。
「見よ、ネロ」
ロッソは膝をついた男を見下ろし、冷酷に、しかしどこか慈悲すら感じさせる静かな声で告げた。
「お前には『個』が存在する。お前はただの蜂の巣の構成員ではない。感情を持ち、怯え、罪の重さに震える……血の通ったひとりの人間だ。……そして人間であるならば、お前が今夜犯そうとしている罪の恐ろしさを、その心で理解できるはずだ」
「ああ……あああ……っ!」
ネロの口から、慟哭が漏れ出した。
「群体」という殻を打ち砕かれ、剥き出しになった「個」の芽生え。それは彼にとって、どのような拷問よりも痛烈な、絶望的な目覚めだった。
探偵ロッソの解剖劇は、ネロの空虚な動機を完全に叩き潰し、彼の魂に「人間としての罪悪感」を鮮烈に刻みつけたのだった。
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