7:対話と論理の攻勢
卓上に置かれた紙包みから、甘く香ばしい焼き菓子の匂いが立ち上っていた。
だが、その温もりある香りは、もはや探偵事務所の静寂を和らげる役目を果たしてはいない。ランプの赤白い光が、対峙する二人の影を石造りの壁へ不吉に引き伸ばしていた。
「……ロッソ?」
ユキは困惑の声を漏らし、伸ばしかけた手を引っ込めた。
先ほどまでのロッソの醸していた気迫とは、明らかに質が異なっていた。第一時間軸でのロッソが抱いていたのは、嵐の夜に訪れた不気味な客人に対する「警戒」と「不快感」に過ぎなかった。
しかし、今のロッソの瞳に宿っているのは、相手の骨肉を断ち切り、隠された不純物の構造を根底から曝け出そうとする、冷酷で完璧な「探偵の理性」そのものだった。
ネロは脱いだ丸帽子を胸元に抱えたまま、気弱そうに眉を下げた。
「やだなあ、探偵さん。解剖だなんて、物騒な言葉を使わないでおくれよ。私は本当に、ただ君たちと打ち解けて話がしたかっただけなんだ。数百年にわたる我が一族の足跡や、君たちが解決してきた事件の思い出話をしながら、温かいお茶を飲もうじゃないか」
ネロの言葉、その声のトーン、目元の柔和な小皺。それらはすべて、第一時間軸でロッソたちの毒気を抜き、見事に時間を稼いでみせた「無害な男」の演技そのものだった。
「ふん……どこまでも白々しい男だ」
ロッソは脚を組み替えると、細い煙管を指先で弄んだ。その赤い瞳は、ネロの微細な表情の動き、指先の呼吸ひとつ分すら見逃さないように固定されている。
「雑談と手土産か。なるほど、実に魅力的な提案だな。……だが、ネロ。お前はそのおぞましいほどありふれた無害さの裏で、私に何を期待している?」
「期待、かい? 私のような凡人が探偵ロッソに期待できることなんて、何もないさ。ただ、少しばかりの平和な時間をお互いに共有できればと――」
「嘘をつくな」
ロッソの声が、ネロの穏やかな言葉を氷の刃のように叩き切った。
「お前は凡人などではない。ましてや、気まぐれで探偵の事務所を訪れた物好きな客人でもない。……お前はいま、この瞬間も『仕事』をしている最中なのだからな」
ネロの目が、かすかにまたたきを打った。ほんの一瞬、その柔和な表情の奥に、説明のつかない微かな硬直が走る。
「……仕事、かい?」
「そうだ。お前たち一族が数百年にわたって脈々と繋いできた『血脈の伝達』。その最後の総仕上げの仕事だ」
ロッソは煙管をゆっくりと卓上に置き、両手を組んで肘を突いた。
「考えてもみろ。なぜネロ商会の盟主たる存在が、自ら単身で、何の手札も持たずに探偵の懐へ飛び込んでくる? 刺客を破られ、一族の企みを脅かされている黒幕が、なぜ殺気すら消し去り、市井の焼き菓子など携えて現れるのだ?」
「それは……私が戦いを好まない性格だからだと、先ほども――」
「違うな」
ロッソは冷ややかに首を振った。
「理由はただ一つ。お前自身が『囮』だからだ」
……しんと、室内が静まり返った。
壁を打つ激しい雨音だけが、不気味なノイズを刻み続けている。
ネロの顔から、親しみやすい笑みが波が引くように消えていく。その目元に刻まれていた柔和な皺が平坦になり、ただの乾いた皮膚の凹凸へと変わっていく。
「……囮、ね」
「そうだ」
ロッソの理性の刃は、容赦なく肉を削ぎ落としていく。
「お前たちが過去へ送り続けてきた膨大な『一言』の累積。それによって仕込まれた破滅の種は、今まさにこの瞬間、遠く離れた前線の地で爆発しようとしているのだろう? 国境の要塞、狂気に駆られた軍司令官、過剰な火砲……。お前たちが数百年間温めてきた最大の改竄の火蓋が、落とされようとしているのだ」
「……っ!?」
傍らで聞いていたユキが、息を呑んで目を見開いた。
まだどこからも届いていないはずの情報。地響きすら鳴り始めていない段階で、ロッソが前線の惨劇の存在を正確に言い当ててみせたからだ。
「そして」
ロッソはネロの虚無の瞳を射抜くように指を突きつけた。
「お前がこの事務所を訪れた唯一の目的は、私とユキの意識をこの部屋へ縛り付けることだ。無害な男を装い、手土産を広げ、くだらない思い出話やお茶で時間を稼ぐ。私たちが前線の異変に気づき、過去へ『一言』を送って改竄を阻止する隙を与えないための……時間稼ぎの身代わりだ!」
ネロは沈黙した。
その顔から「気弱そうな小市民」の仮面が剥がれ落ち、そこにはただ、言葉を失った男の空虚な顔だけが残されていた。
ネロにとって、この展開は理解の範疇を超えていたはずだ。
自らが何者であり、どのような意図を持ってこの部屋の扉を叩いたのか。それを、出会って数分の、まだ何の情報も与えられていないはずの探偵に、初手ですべて見抜かれ、暴かれてしまったのだから。
「な……なぜだ……?」
ネロの薄い唇から、掠れた声がこぼれ落ちた。
「なぜ……君がそれを知っている? 前線の計画は、我が一族の中でも極一部の者しか知らされていない絶対の機密だ。君たちがここに届くはずのない情報を得られるわけが――」
「言ったはずだ、ネロ」
ロッソは不敵な、そして冷酷な笑みを口元に浮かべた。
「お前のおぞましいほどの『無害さ』、それ自体が計算し尽くされた最大の不純物なのだとな。……お前がどれほど凡人を装おうと、私を騙せると思うな」
ロッソはゆっくりと立ち上がり、卓上の油ランプの灯りをその背に受けた。
第一時間軸では、ネロのペースに呑まれ、雑談に応じ、前線で惨劇が確定するまで時間を稼がれてしまった。
だが、時間遡行を経て『目の前の悪を見よ』という一言を手にした第二時間軸の探偵は、最初から会食の卓上を「逃げ場のない取り調べの盤面」へと変貌させていた。
「さあ、客人。囮としての時間は終わった」
ロッソの赤い瞳が、夜の闇よりも深く、冷たく光る。
「前線の戦争などどうでもいい。私が解剖すべきは、いま私の目の前にいる『不純物の器』――お前個人だ。……さあ、お前のその浅ましい『歪み』を、根底から解剖してやろう」
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