6:遡行――会食の冒頭へ
視界が白銀の光と熱量によって激しく潰された。
世界の骨組みが悲鳴を上げ、時間の針が狂ったように逆回転していく。遠くで響いていた轟音も、南の空を赤く染めていた禍々しい火光も、すべてが巨大な渦の中に呑み込まれ、過去の闇へと溶けて消えていく。
『――目の前の悪を見よ――』
ユキの悲痛な叫び、未来の探偵ロッソが時空を越えて叩きつけた抽象的な「一言」が、意識の深淵で激しく反響していた。
なぜその言葉が必要なのか。未来でどのような惨劇が起きたのか。第一時間軸の失敗の記憶をまだ持たない「過去のロッソ」の脳裏に、その具体的な意味は存在しない。
だが、その抽象的な言葉は、探偵の卓越した直感と冷徹な論理の引き金を、あまりにも鮮烈に引き絞った。
ふっと、浮遊感が途切れた。
石造りの壁を濡らす重い雨音。
叩きつける風が硝子窓を揺らし、卓上に置かれた油ランプの火が揺らめいて、壁にふたつの影を投じている。
そこは、再び嵐の夜の探偵事務所だった。
革張りの椅子に深く身を沈めたロッソは、脚を組み、指先で細い煙管を遊ばせている。傍らに佇む白い髪の少女、ユキは、胸元で硬く指を組み、嵐の向こうへ怯えた視線を向けていた。
「……ロッソ。気配が、近づいています」
ユキの小さな声。第一時間軸と寸分違わぬ光景。
重い靴底が石畳を噛む音がひとつ。足音は扉の目の前で止まり、静寂が流れたあと――トントントン、と、拍子抜けするほど軽いノック音が三回、木製扉を叩いた。
「……ふん」
ロッソは煙管を灰皿の縁で叩き、ゆっくりと立ち上がった。
「鍵は開いている。入ってくるといい」
ギィ、と重厚なヒンジが軋み、扉が内側へ開かれる。
激しい風雨とともに足を踏み入れたのは、黒色の地味な外套を羽織り、安価な丸帽子を被った小柄な男だった。
殺気もなく、敵意もなく、市井の裏通りですれ違っても気にも留めないような圧倒的な「普通さ」。手には老舗の菓子店で買ってきたような、紙で丁寧に包まれた小さな小箱が握られている。
「やあ、失礼するよ。実にひどい嵐だね。……ああ、床を濡らしてしまって申し訳ない」
男――ネロは、恐縮したように肩をすくめ、念入りに靴の泥を落とした。
第一時間軸のロッソとユキであれば、この男のあまりの毒気のなさ、命を懸けた決戦の場には不釣り合いな「無害さ」に毒気を抜かれ、一瞬の隙を作っていたはずだった。
しかし――。
(『目の前の悪を見よ』)
ユキの口を介して受領された「一言」が、過去のロッソの脳内で雷鳴のように爆ぜた。
(……ほう?)
ロッソの眼光が、氷のように冷たく研ぎ澄まされる。
目の前の男は、あまりにも隙だらけだ。あまりにも無害で、あまりにも「普通の市井の人間」の形をし過ぎている。
刺客を破られ、自らの本拠地や計画を脅かされているはずの黒幕が、なぜ単身で、何の手札も持たずに探偵の懐へ飛び込んでくる? なぜ殺気すら消し去り、へらへらと手土産などを抱えて現れる?
普通(無害)であること。それ自体が、計算し尽くされた最大の異常(悪)ではないのか。
「お前が、ネロか?」
「いかにも。私がネロだよ、探偵ロッソ。……そして、そちらがユキちゃんだね。初めまして」
ネロは帽子を脱いで胸元に当て、気弱そうな、親しみやすい笑みを浮かべて深く一礼した。
「君が『自分で来い』と言ってくれただろう? だから来たんだよ。……せっかくの機会だ。これまで君たちには色々と苦労をかけてしまったし、少し落ち着いて『話をしよう』と思ってね。良ければ、この温かい焼き菓子でも食べながら、お茶でもいかがかな?」
ネロは手に持った紙包みを持ち上げ、人当たりの良い笑みを深めた。
第一時間軸では、この言葉に応じる形で「静かな会食」が始まり、雑談と語られる一族の歴史に意識を削がれ、前線で惨劇が引き起こされるまでの時間を完璧に稼がれてしまったのだ。
だが、第二時間軸の探偵は、すでにその「盤面」の異彩を見抜いていた。
「……ユキ、お茶を淹れる必要はない」
ロッソは静かな、しかし鉄の冷たさを含んだ声で制した。ネロに毒気を抜かれ、お茶の準備をしようと動いていたユキが、ぴくりと肩を揺らして足を止める。
「え……ロッソ……?」
「手土産を持って雑談に花を咲かせに来たわけではあるまい、ネロ商会の盟主」
ロッソは一歩、踏み出した。
外套の裾が優雅にはためき、油ランプの青白い光が、彼女の美麗な顔立ちに冷酷な探偵の陰影を刻み込む。その赤い瞳には、第一時間軸のときにはなかった、相手の魂の髄までを解剖するような鋭利な理性が宿っていた。
「……やだなあ、探偵さん。私はただ、君たちと打ち解けて話がしたかっただけなんだがね」
ネロは困ったように眉をひそめ、苦笑いを浮かべた。その表情には相変わらず、一切の害意も見えない。
「打ち解ける、か」
ロッソの唇の端が、滑らかな弧を描いて吊り上がった。それは歓喜の笑みではなく、不純物を追い詰めた捕食者の笑みだった。
「嵐の夜、厳重に施錠された探偵の事務所に単身で乗り込み、菓子を広げて茶をねだる。……フン、一見すればただの気弱な小市民の無知な振る舞いだ。だが、ネロ。お前はその『毒気のなさ』という皮を被ることで、私に何を行おうとしている?」
ネロの微笑みが、ほんのわずかだけ硬直した。
「……何を行おうとしている、とは?」
「問いに問いで返すな。……お前のその圧倒的な無害さ、それこそが私が解剖すべき『目の前の悪』そのものだ」
ロッソは卓上の油ランプの傍らに歩み寄り、冷ややかにネロを見下ろした。
「さあ、席につくといい、客人。お前の持ち込んだ菓子を味わう暇はないが……お前がその無個性な頭蓋の裏に隠している浅ましい『歪み』を、初手から徹底的に解剖してやろう」
会食の場として用意された卓上は、時間遡行の「一言」によって、一瞬にして冷徹な取り調べの盤面へと反転した。
ネロの目元に刻まれた柔和な小皺の奥で、初めて、説明のつかない不穏な揺らぎが走り始めていた。
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