5:未来からの演算と一言の受領
地鳴りは止まない。
南の空を赤く染める禍々しい光線が、雲の切れ目からうねるように漏れ出し、探偵事務所の窓硝子を不気味に震わせていた。遠い前線で爆発する火薬の匂いすら、湿った夜風に乗って漂ってくるかのようだった。
「……ロッソ……っ、前線が……!」
ユキは胸を強く押さえ、床に膝をついた。
彼女の白い肌は陶器の滑らかさを失い、不吉な青紫色の血線が浮き出ている。未来からの膨大な情報と、書き換えられつつある世界の因果が、境界たる彼女の幼い肉体を激しく打ちのめしていた。
「大勢の人が……兵士も、街の民も……炎の中で……。歴史が、ものすごい力で捻じ曲げられていく……っ!」
「鎮まれ、ユキ」
ロッソは膝を折り、ユキの細い肩を力強く抱き寄せた。だが、その手にもかすかな震えが走っていることを、ロッソ自身隠すことはできなかった。
詰み。まさに完全なる詰みだった。
ここから前線までは、どれほど俊足の馬を走らせても数日はかかる。物理的な距離が、探偵の手足を完全に封じ込めていた。
仮に前線へ辿り着けたとして、そこに広がるのはすでに始まってしまった数万の軍勢による大殺戮だ。一人の探偵が乗り込んだところで、飛び交う砲弾や狂気に駆られた兵士たちを止める術など存在しない。
ネロの手口は完璧だった。
数百年に及ぶ「一言の伝達」で仕込まれた破滅の種。それを前線で一気に爆発させ、自らは市井の無害な男として探偵の元を訪れ、手土産のお茶を嗜みながら雑談に興じる。
ロッソたちの意識をこの部屋へ釘付けにし、初動を遅らせるための「囮」。
(……クソが)
ロッソは歯を食いしばり、胸の底から湧き上がるドブのような怒りを噛み殺した。
自分はまんまと嵌められたのだ。
あの男の圧倒的な「普通さ」、殺気も意志も感じさせない「毒気のなさ」に一瞬でも気を抜かれ、対話という盤面に付き合ってしまった。その猶予こそが、前線で開戦の火蓋を切るための最後のピースだったというのに。
「……いや、待て」
暗闇の中で、ロッソの赤い瞳が冷たく光った。
思考の回転が、破滅のスピードを追い抜くように加速する。
(ネロは『自分はただの囮だ』と言った。一族の意思を実行するだけの『個を持たない器』だと)
(前線の戦争を物理的に止める手段はない。だが……本当にそうか? この巨大な歴史改竄の『引き金』を引いたのは誰だ?)
ネロだ。
数百年の血脈の伝達の終着点として、今夜、この時代で最後の改竄を完成させたのは、紛れもなくあの「無害な男」ネロ本人なのだ。
(前線で起きている大戦は、ネロが行った改竄の『結果』に過ぎない。ならば……結果を叩き潰すのではなく、原因を絶てばどうなる?)
ロッソの頭の中で、複雑に絡み合っていた因果の糸が、一本の明瞭な筋となって解けていく。
(前線の戦争を止められる人間は、世界にただ一人しか存在しない。……改竄を行った、ネロ本人だ。奴自身の手で、もう一度『再改竄』をかけさせ、この戦争の前提そのものを過去から撤回させる以外に、この詰み盤面を覆す術はない!)
だが、あのような空虚な男が、自分から改竄を撤回するはずがない。
奴は「自分には個人の意志も夢も罪悪感もない」と嘯いていた。一族という巨大な群体の道具として、機械的に歴史を歪めることになんの疑問も抱いていない。
(……フン、笑わせるな)
ロッソの唇に、冷酷で不敵な笑みが刻まれた。
(『個』が存在しない人間など、この世にいるものか。奴がわざわざここに足運び、手土産を広げ、自分を『無害な囮』として誇示してみせたこと自体――奴個人が抱える浅ましい『自己正当化』であり、自我の証明だ!)
(奴は一族の道具という仮面を被ることで、自分が犯している途方もない罪から目を背けているに過ぎん。奴の動機、その空虚な精神の偽善を徹底的に解剖し、叩き潰す。奴に『ひとりの人間』としての罪悪感と自我を芽生えさせ、自らの手で己の不純物を拭い去らせる!)
決まった。
ターゲットは前線の軍隊ではない。
今しがたまで、この卓上でお茶を飲んでいた「目の前の男」ネロその人だ。
「ユキ……! 演算を始めろ!」
ロッソはユキの体を力強く抱き起こし、その蒼白な顔を凝視した。
「前線を見るな! 遠くの惨劇に惑わされるな! 我々が解剖すべき悪は、前線の火砲の中にいるのではない!」
「ロッソ……っ……ぐぅう……!」
ユキの口から、悲痛な呻きが漏れた。
彼女の瞳の焦点が結び直され、白銀の光が瞳孔の奥で激しく渦を巻き始める。未来の時空に存在するロッソからの膨大な演算結果が、媒介たるユキの回路を通じて、過去の時空へと叩き込まれていく。
ギギギ、と世界の軸線が軋む音がした。
ユキの体から凄まじい熱量が放出され、卓上のランプの火が青白い閃光となって弾けた。彼女の幼い唇がガタガタと震え、血の混じった吐息とともに、未来の探偵が導き出した唯一の解――過去の自分へと送る「たった一言」が紡ぎ出される。
「つ、伝えるよ……ロッソ……! 未来のあなたが……導き出した……反撃の『一言』を……!」
ユキはロッソの外套を強く掴み、最後の力を絞り出すように叫んだ。
「――『目の前の悪を見よ』!!」
ドオン! と、世界が弾けるような衝撃波が探偵事務所を包み込んだ。
時間軸の歪みが限界を迎え、視界のすべてが眩い白光の中に呑み込まれていく。
地の底からの地響きも、嵐の咆哮も、前線の惨劇も、すべてが過去の闇へと巻き戻されていく――。
時空を越えて届けられた一言。
それは、目の前の無害な男に毒気を抜かれ、手遅れになるまで会話に応じてしまった第一時間軸の「過ち」を打ち砕き、会食の冒頭からネロの不純物を解剖するための、絶対の言葉だった。
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