4:惨劇の勃発と囮
冷めきった紅茶の表面に、かすかな波紋が広がっていた。
ネロは優雅とすら言える手つきでカップをソーサーに戻すと、口元を白いハンカチーフで丁寧に拭った。その動作には微塵の急ぎも、恐れも、あるいは達成感すら存在しなかった。ただの習慣を実行するだけの、機械的な滑らかさ。
「ごちそうさま。実に美味しいお茶だったよ、ユキちゃん。……さて、名残惜しいが、そろそろお暇させてもらうとしようかな」
ネロは丸帽子を手に取り、立ち上がった。濡れた外套の裾が重たく垂れ下がり、石畳の床に滴をこぼす。
「待て」
ロッソの低い声が、部屋の温度を一段と氷点下へ引き下げた。
外套の内側に忍ばせたナイフの柄に、ロッソの細い指先がかけられる。赤い瞳には、獣を射殺すような冷酷な殺意が宿っていた。
「自分たちの浅ましい我欲のために歴史を弄び、無数の命をドブに捨てておきながら、お茶を飲み終えたからと無傷で去れると思っているのか? ……お前をここで殺し、その一族の『口』を永遠に塞ぐという選択肢を、私が選ばないとでも?」
「おや、恐ろしいな」
ネロは困ったように眉をひそめたが、その足取りに躊躇はなかった。彼は帽子を被り直し、気弱そうな笑みを崩さない。
「殺したければ殺すといい、探偵。私という肉体が滅びても、我が一族の『血脈の伝達』は何一つ止まらない。次の世代の誰かが『ネロ』の名を継ぎ、淡々と『一言』を過去へ送り続けるだけだ。私個人を殺すことに、何の意味もないのさ」
「……ちっ」
ロッソは苛立ちを隠さず、小さく舌を打った。
ネロの言う通りだった。「個」を持たない群体を相手にする際、目の前の「器」ひとつを破壊したところで、群れの行動そのものを止めることはできない。この男はただの末端であり、働き蜂の一匹に過ぎないのだ。
「それにね」
ネロは扉の取っ手に手をかけ、振り返った。
その目元に刻まれた柔和な小皺の奥で、底知れぬ空虚な暗闇が、かすかに揺らめいた気がした。
「君が私をここで引き留めても、もう遅いんだよ」
「……何だと?」
次の瞬間――。
ズズ……と、地の底から響くような重い不協和音が、探偵事務所の石造りの床を揺らした。
卓上の油ランプが大きく傾き、黄色い焔が狂ったように暴れる。壁に掛けられた時計の針が震え、棚に並べられた古書がカタカタと乾いた音を立てて鳴り響いた。
それは単なる嵐の雷鳴でも、落雷の衝撃でもなかった。大地そのものが軋み、世界の骨組みが悲鳴を上げているかのような、禍々しく不吉な地響き。
「きゃっ……!?」
ユキが悲鳴を上げ、倒れそうになる卓にしがみついた。
ロッソは素早く身を躍らせ、ユキの肩を抱き寄せると、窓の外――激しい雨が叩きつける闇の彼方へと視線を走らせた。
遠く、南の国境線が位置する方角の空が、重い雨雲を透かして不気味な赤黒い光に染まっていた。
風の咆哮に混じって届くのは、巨砲の爆音、城壁が崩れ去る轟音、そして何千何万という人間が上げる絶叫の残響。
「これは……戦争、だと……!?」
ロッソの顔から、完全に余裕が削ぎ落とされた。
「いかにも」
地響きの中で、ネロだけが揺らぐことなく、静かに佇んでいた。
「我が一族が数百年にわたり、血脈の伝達を通じて仕込んできた最後の『一言』。国境の要塞でくすぶっていた過剰な火薬、王宮の裏で蠢く暗殺の予兆、軍司令官の胸に植え付けた狂気……それらすべての『歪み』が今、この瞬間に結実した」
ネロは淡々と、天気予報でも告げるかのような平坦な口調で言葉を紡ぐ。
「今頃、前線では戦端が開かれていることだろう。溢れ出た過剰な文明の火砲が大地を焼き、数万の兵と市井の民が殺し合っている。一度始まった大戦の渦は、もう誰にも止められない。歴史は今、私たちが望んだ通りの『巨大な変革と繁栄』へと大きく舵を切ったのだよ」
「貴様……!」
ロッソの胸中で、憤怒が泥のように跳ね上がった。今までのすべてはこの大規模な「破滅」を引き起こすための前奏曲に過ぎなかったのだ。
「なぜ……なぜわざわざ私の前に姿を現した、ネロ!前線で歴史を壊す指揮を執るわけでもなく、なぜこんな場所へ来た!?」
ロッソの怒号に対し、ネロはただ、申し訳なさそうに肩をすくめた。
「決まっているだろう。君たちが邪魔だったからさ」
「……なに?」
「探偵ロッソ、そして媒体のユキちゃん。君たちの持つ『過去へ一言を送る力』は、我が一族にとっても唯一の脅威だった。前線で改竄の引き金が引かれる瞬間、君たちに察知され、過去へ一言を送られて未然に防がれては困る」
ネロは静かに扉を開いた。激しい雨風が室内に吹き込み、彼の外套を大きくはためかせる。
「だから私が来たんだ。……市井の無害な男として君たちの元を訪れ、手土産を広げ、くだらない思い出話やお茶で時間を稼ぐ。君たちの意識をこの部屋に釘付けにし、前線の異変に気づかせないための『足止め』。……そう、私は最初からただの『囮』だったのさ」
「……っ!」
ロッソは息を呑んだ。
完璧な手口だった。目の前に現れた男の圧倒的な「普通さ」と「毒気のなさ」に一瞬でも気を取られ、会話に応じてしまったこと。それ自体が、ネロの一族から仕掛けた巨大な盤面の上での敗北を意味していた。
「あいにく、ここから前線までは馬車を飛ばしても三日はかかる。君たちが今から何を察知しようと、もう物理的に手遅れだ。破滅の火蓋は落とされた」
ネロは雨の中に一歩踏み出し、帽子に手を添えて深く一礼した。
「素晴らしい時間をありがとう、探偵。君たちの論理は美しかったが、勝ったのは我が一族の積み重ねだ。……さようなら」
パタン、と軽い音を立てて扉が閉ざされた。
足音は雨音の中に消え、ネロの気配は完全に途絶えた。
あとに残されたのは、揺れるランプの火と、地の底から鳴り響き続ける不気味な地響き。
そして、確定してしまった「第一時間軸の破滅」という、絶望的な現実だけだった。
「……ロッソ……どうすれば……世界が……前線が……!」
ユキが震える声でロッソの服の裾を掴んだ。
探偵ロッソは、暗闇の中で激しく歯噛みした。
遠く離れた前線で起きている惨劇。物理的に到達不可能な距離。原因となる改竄は数百年前から張り巡らされており、どの「一言」をどこへ送ればこの戦争を止められるのか、手がかりは皆無だった。
盤面は、完全なる詰みを迎えていた。
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