3:浅ましい我欲と群体の器
卓上の油ランプが、パチりと小さな爆ぜ音を立てた。
ネロの語った壮大な「歴史改竄の手法」――数百年の時を越えて紡がれてきたという「一言の伝達」。その重密な響きとは裏腹に、探偵事務所を包む空気は冷ややかに冷え切っていた。
ロッソは脚を組んだまま、長い煙管の吸い口を唇から離した。紫煙が静かに立ち上り、彼女の赤い瞳を揺らめかせる。
「……なるほど。天才の一撃ではなく、凡人どもの積み重ねか。果てしない時間をかけた一言の伝達、な」
ロッソの声には、称賛の色彩など微塵もなかった。あるのは、冷徹な観察者としての氷のような嘲笑だ。
「だが、ネロ。手段の回りくどさはよく分かった。ならば、その大層な『血脈の伝言ゲーム』の果てに、お前たち一族は何を望んでいる? 世界を裏から支配する王にでもなるつもりか? あるいは、世界そのものを自分たちの都合の良い理想郷へ塗り替えることか?」
ロッソの問いは、至極当然のものだった。
数百年にわたり、幾人もの人間の命を弄び、未来の技術や新食材という不純物を過去へ投げ込み、幾多の惨劇を引き起こしてきたのだ。そこには相応の、途方もなく巨大な「悪の理念」が存在しなければ説明がつかない。
だが、問いかけられたネロは、きょとんとした顔でまたたきを打った。
まるで、幼い子供が当たり前の疑問を尋ねられたときのような、拍子抜けするほど無垢で、どこか気弱そうな苦笑いを浮かべる。
「やだなあ、探偵さん。そんな大層な野心なんて、私たちにあるわけがないじゃないか」
「……何?」
「世界支配? 理想郷? 滅相もない。そんな面倒で責任の重いことをして、何が楽しいんだい? 王様になれば暗殺の恐怖に怯えなきゃならないし、世界を創り替えるなんて、想像しただけで肩が凝ってしまうよ」
ネロは心底おかしそうに肩をすくめると、冷めかけたお茶に再び口をつけた。
「我が一族の目的はね、もっと慎ましく、もっと身近なものさ。……そう、ただ『一族がいつの時代も裕福で、高い地位にあり、何不自由なく快適に暮らせること』。それだけだよ」
しんと、部屋が静まり返った。
傍らに立つユキが、小さく息をのむ音が聞こえた。
「……ただの、我欲か」
ロッソの低い声が、静寂を切り裂いた。その声には、怒りすら超えた深い不快感が滲み出ている。
「そうだとも。富と地位さ」
ネロは何の恥じる様子もなく、ごく自然な口調で頷いた。
「たとえば、ある時代で一族の商会が傾きそうになれば、過去の先祖へ『一言』を送り、利益の出る投資先を教える。ある時代で権力者とのコネクションが切れそうになれば、過去の先祖へ『一言』を送り、将来出世する人物へ取り入らせる。……そうやって、ほんの少しずつ歴史の糸を自分たちに都合よく手繰り寄せてきただけなんだ」
ネロは親しみやすい笑みをたたえたまま、卓上の焼き菓子の屑を指先でぬぐった。
「過剰な文明や異物が生まれてしまったのはね、私たちがわざと撒き散らしたわけじゃないんだよ。一族の利益を最大化しようと過去へ指示を出した結果、歴史の歪みが副産物として生み出してしまった『歪み』に過ぎない。君たちが解決してきた事件も、私たちにとっては単なる事業の副産物、あるいはかすり傷のようなものさ」
――反吐が出る。
ロッソの胸底で、泥のような厭悪感が急速に渦を巻いた。
これまでの旅で目撃してきた惨劇の数々。吹雪の山荘での悲劇、水上の館での領主の苦悩、工芸都市での愛憎劇、天文台での妄信、若き将校の歪んだ執着、湖畔の館で少年が抱えていた絶望と死の覚悟。
人間たちの生々しい愛憎や情念を利用し、踏みにじり、破滅へと追いやった元凶。その正体が、世界を揺るがす絶対の悪などではなく、ただの「一族の富と地位の維持」という、泥のように浅ましく、ありふれた我欲であったという事実。
「くだらない」
ロッソは冷ややかに吐き捨てた。
「数百年の時をかけ、幾人もの人間の尊厳と命を玩具のようにすり潰しておきながら、その理由が『一族の快適な暮らし』だと? ……呆れ果てて物も言えん。お前たちのやっていることは、歴史という厳粛な織物に、ドブ水をぶち撒けて喜んでいる豚の戯れと同じだ」
「ひどい言い様だなあ」
ネロは困ったように眉をひそめたが、その瞳には傷ついた気配すら見えなかった。まるで、自分以外の他人への罵倒を聞いているかのように他人事だった。
「だがね、探偵さん。君は私を『悪魔』か何かのように思っているかもしれないが、私はただのネロだよ。私個人には、君に恨みもなければ、歴史を壊したいという欲望もない」
「……ほう?」
「私には、個人の夢も、愛する人も、譲れない美学すらない。私はただ、先祖から、あるいは子孫から受け取ったものを次の世代へ渡すための『口』であり『手』に過ぎないんだ。……そう、一族という巨大な『血脈の存続』を滞りなく進めるための、ただの道具さ」
ネロの言葉には、嘘も偽りもなかった。
だからこそ、ロッソの背筋に冷たい戦慄が走った。
目の前にいる男には、「個」が存在しないのだ。
自分の意志で人を憎むことも、自分の意志で悪事を働くこともない。ただ「一族の繁栄」という群体としての目的を遂行するためだけに、淡々と、感情もなく『一言』を過去へ送り続けている。
この男は、悪人ですらない。
意思を持たぬ蜂の群れが、ただ巣を広げるために機械的に行動するように。一族という巨大な群体の意思を宿した、空虚で無個性な「器」――。
「……不純物の極みだな」
ロッソは細い煙管を指先で強く握りしめた。
目の前の男の、どこまでも無害で普通の顔をした裏側に潜む、底知れぬ「空虚な歪み」。
ロッソが最も忌み嫌う、意志なき不純物の蠢きが、この暖かなお茶の香りが漂う卓上で、静かに、そして禍々しくその輪郭を現し始めていた。
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