2:語られる歴史
卓上に置かれたのは、素朴な紙包みだった。
ネロは慣れた手つきで紐を解き、包装紙を押し広げる。中に収められていたのは、こんがりとやさしい新緑色に焼き上げられた、小さな焼き菓子だった。バターと香辛料の甘く香ばしい匂いが、湿気と紫煙に満ちていた探偵事務所の空気を柔らかく押し広げていく。
「急な訪問で申し訳なかったね。冷えた体には、甘いものと温かいお茶が一番だ。おや、ユキちゃん、淹れてくれるのかい? すまないねえ、気を遣わせてしまった。噂通りの気立ての良い子だ」
ユキは引きつった表情のまま、器用に陶器のカップへ湯を注ぎ、三つの湯気を立てるお茶を用意した。だが、彼女の視線は一時たりともネロの手元から離れることはなかった。毒でも忍ばせられるのではないかという警戒。
ネロはそんな二人の重苦しい視線を意に介さず、差し出されたカップを手に取ると、ふうふうと息を吹きかけて美味そうに一口啜った。
「ふう……素晴らしいお茶だ。探偵の事務所というのは、もっと殺伐としたところかと思っていたよ」
「お世辞はいい」
ロッソは出されたお茶にも焼き菓子にも一切手を触れず、組んだ脚を組み替えた。油ランプの青白い光が、彼女の冷ややかな横顔を鋭く浮かび上がらせている。
「手土産を持って雑談に花を咲かせに来たわけではあるまい。お前は何者で、我々に何を語りに来た? ネロ商会の盟主」
「盟主、か」
ネロは苦笑し、頭を掻いた。その仕草すら、どこにでもいるうだつの上がらない中小商人そのものだった。
「大層な肩書きだね。だが、期待を裏切るようで悪いが、私はただの『ネロ』だよ。特別な魔力があるわけでも、人を平伏させる権力があるわけでもない。ただ……そうだな。我が一族が数百年にわたって紡いできた『仕事』の責任者を、今たまたま務めているに過ぎない」
ネロは焼き菓子をひとつ摘み、口へ運ぶ。サク、と軽い音が室内に響いた。
「君たちには、我が一族が大変なご迷惑をおかけした。……雪山の密室での悲劇。湖上の領主の自殺騒ぎ。時計職人の跡目争い。天文台の望遠鏡。要塞での暴走……そして、あの湖畔の『鐘楼館』」
ネロの口から、淡々と紡がれる地名と事件の数々。
それらはすべて、探偵ロッソとユキがこれまでに遭遇し、間一髪でその破滅の因果を叩き潰し、修正してきた惨劇の記録だった。
「あの子……ヴェルデといったかい。私の遠い親戚の少年だが、随分と君に打ちのめされたようだね。『探偵ロッソの論理には勝てない』と、泣き言を残していったよ。……彼に『自爆告発』の入れ知恵をしたのは我が一族の者たちだったのだが、君の鋭い観察眼と『一言』によって、見事に防がれてしまった」
ネロはまるで、親戚の子供が近所の腕白相撲で負けて帰ってきた話でもするように、穏やかに語る。そこには怒りも、落胆も、殺意すら存在しない。
だが、その無感情な平穏さこそが、ロッソの神経を不快に逆撫でした。
「あそこまで大層な『異物』を各地に撒き散らし、歴史の針を無理やり進めようとしておきながら、随分と他人事だな」
「他人事、ではないさ。ただ、事実を述べているだけだ」
ネロはカップを卓上に静かに置いた。
「君たちは不思議に思っていたはずだ。なぜ一斉に、異なる場所で、過剰な技術や新食材、未来の兵器が市場へ流れ込んだのか。なぜ、それらがまるで周到に計算されたかのように『特定の惨劇』を引き起こす引き金となったのか」
ロッソは黙って紫煙を吐き出し、ネロの瞳の奥を凝視する。
「カラクリは実に単純なのだよ、探偵さん」
ネロは少しだけ身を乗り出し、親指と人差し指で小さな隙間を作ってみせた。
「私たちは、たった『一言』を渡してきただけなのだから」
「……なに?」
「巨大な時空魔法も、世界を書き換える悪魔の儀式も存在しない。我が一族は数百年前から数百年後に至るまで、血脈のつながりを通じて、過去の先祖や一族の者へ『たった一言の情報』を淀みなく渡し続けてきただけなんだ」
ネロの声が、わずかに熱を帯びる。だがそれは狂信者の熱量ではなく、淡々と業務報告を行う事務員のそれに近かった。
「たとえば『何年何月、あの港でこの食材を買い付けろ』。たとえば『あの技師に無尽蔵の資金を与えよ』。あるいは『あの助手にこの数式を見せろ』……。ほんの些細な『一言』を過去へ送り、歴史のわずかな綻びを作る。するとどうだ?数十年後、数百年後には膨大な技術と資本がそこに集積される」
ロッソの頭の中で、これまでの事件の点と点が、悪夢のような一筋の線となって繋がっていく。
自分たちが過去へ送ってきた「一言による修正」。ネロの一族は、それを数百年前から数百年後まで、歴史を歪めるために組織的かつ継続的に行い続けているというのだ。
「私たちは、特別な天才の集団ではない。一人の天才が世界を変えるのではないんだ」
ネロは己の胸を軽く叩いた。
「数百年にわたる無数の凡人たち――我が一族という巨大な血脈が、ただ愚直に『一言』を繋いできた結果が、今のネロ商会であり、君たちが目撃してきた過剰な文明の正体なんだよ」
石造りの壁の外で、嵐がひと際大きく咆哮した。
ランプの灯りに照らされたネロの顔は、どこまでも普通で、どこまでも無害な男のそれだった。しかしその背後に透けて見えるのは、数百年間にわたって暗闇の中で蠢き、歴史の糸を撚り合わせてきた、途方もなく不気味な「血脈」そのものだった。
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