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1:来訪

 石造りの壁を濡らす雨音が、絶え間なく重い水膜を打っていた。

 外は吹き荒れる嵐だ。叩きつける風が窓枠をきしませ、硝子窓の向こうの闇をいびつに歪ませている。卓上に置かれた油ランプの火が、風圧の煽りを受けて細かく揺れ、壁に投じられた二つの影をゆらゆらと蠢かせていた。


「風が強くなってきたね、ユキ」

「……はい、ロッソ」


 革張りの椅子に深く身を沈めたロッソは、脚を組み、細い煙管から紫煙をくゆらせていた。赤い瞳は、揺らぐ焔の向こう――厳重に施錠された探偵事務所の重厚な木製扉へと向けられている。

 彼女の傍らに佇む白い髪の少女、ユキの肌は、寒さゆえか、あるいは別の緊張ゆえか、陶器のように白く冷え切っていた。彼女の華奢な指先は、胸元で硬く組み合わされている。


 張り詰めた空気。それは単に嵐の夜がもたらす物理的な閉塞感によるものではなかった。

 湖畔の『鐘楼館』で起きた惨劇の幕引き。あの刺客の少年を打ち砕き、破滅の因果を修正した際、ロッソが言い放った言葉。

――『ネロに伝えろ。次は自分で来い、とね』

 あれは挑発であり、明確な挑戦状であった。

 数百年にわたり歴史の裏で「一言」を過去に渡し、過剰な文明や技術、そして理不尽な死を撒き散らしてきた不気味な組織『ネロ商会』。その絶対的な盟主たる存在。

 あの一言を受けて、奴がどう動くか。刺客を送り込んでくるのか、あるいは時空そのものを歪めるような圧倒的な暴力を行使してこの事務所ごと我らを圧殺しに来るのか。


 ロッソのスーツの内側には、冷ややかな鉄の感触が忍ばせてある。卓上の袖口には、いつでも間合いを詰めた敵の喉笛を断ち切れるよう、鋼のナイフが配されていた。ユキの演算能力を待つまでもなく、ロッソ自身の手札と知謀のすべてを、今夜訪れるかもしれない「最悪」に向けて研ぎ澄ませていたのだ。


「……ロッソ。気配が、近づいています」


 ユキが低く、小さな声で呟いた。その声にはかすかな震えが含まれている。

 ロッソは煙管を灰皿の縁で静かに叩き、立ち上がった。音もなく足を進め、部屋の中央、ランプの光が届くか届かないかの境界線に立つ。瞳の奥で、冷酷な探偵の理性が青白い炎となって揺らめく。


 ズ、と重い靴底が外の石畳を噛む音がした。雨音に紛れ、足音はひとつ。

 やがて、足音は扉の目の前で止まった。


 流れる静寂。嵐の咆哮すら、一瞬だけ遠のいたかのような錯覚。

 ロッソは指先をナイフの柄へ滑らせる。ユキは息を呑み、ロッソの背中に隠れるように体を縮めた。

 来るか。歴史を歪め続ける黒幕、絶対の死を象徴する悪魔の来訪が――。


 トントントン、と。


 控えめな、拍子抜けするほど軽いノック音が扉を叩いた。

 荒々しい破壊の音でも、威圧的な打撃音でもない。ごく普通の訪問者が、人の家の門を叩くような、どこか気遣いすら感じさせる慎ましい三連打。


「……ふん」


 ロッソは鼻で小さく鳴らすと、警戒を解かぬまま冷ややかな声を投げかけた。


「鍵は開いている。入ってくるといい」


 ギィ、と重厚なヒンジが軋み、扉がゆっくりと内側へ開かれた。

 激しい風と雨粒が吹き込み、ランプの火が一瞬大きく揺らぐ。嵐の闇を背にして、そこに一人の男が立っていた。


 ロッソの鋭い視線が、男の頭から足先までを一瞬で走査する。

 ――そして、探偵の思考は、わずかな困惑と共に一瞬だけ停止した。


 そこにいたのは、怪異でも、冷酷な暗殺者でも、威圧感を纏った悪のカリスマでもなかった。


 濡れた黒色の地味な外套を羽織り、頭には市井の仕立て屋で安価に手に入りそうな丸帽子を被った男。年齢は三十代半ばか、四十手前か。取り立てて背が高いわけでもなく、引き締まった体躯をしているわけでもない。

 帽子を取った髪は少し薄く、目元には柔和な小皺が刻まれている。肌色はどこかくすみ、街の裏通りですれ違っても三歩歩けば顔を忘れてしまうような、圧倒的な「普通さ」。


「やあ、失礼するよ。実にひどい嵐だね。……ああ、床を濡らしてしまって申し訳ない」


 男は恐縮したように肩をすくめると、入り口で念入りに靴の泥を落とし、小さな濡れた傘を立てかけた。その一挙一動には、殺気はおろか、敵意の欠片すら漂っていない。

 手には、老舗の菓子店で買ってきたような、紙で丁寧に包まれた小さな小箱が握られている。


 ロッソとユキの二人は、突きつけられた圧倒的な「ギャップ」に、ただ毒気を抜かれて佇むしかなかった。

 命を賭けた決戦の場。あらゆる仕掛けと罠、血煙を想定していた空間に足を踏み入れたのは、どこからどう見ても「市井のありふれた小市民」だったのだから。


「……お前が、ネロか?」


 ロッソは警戒の眼光を緩めぬまま、低く問いかけた。

 男――ネロは、脱いだ帽子を胸元に当てると、気弱そうな、だがどこか親しみやすい笑みを浮かべて深く一礼した。


「いかにも。私がネロだよ、探偵ロッソ。……そして、そちらがユキちゃんだね。初めまして、と言っても、君たちにとってはあまり気持ちの良い対面ではないかもしれないけれど」


 ネロの声は、どこまでも穏やかで、聞き取りやすいトーンだった。耳障りの良い、路地裏のパン屋の店主が客に声をかけるような気さくさ。


「……何をしに来た。刺客を破られた腹いせに、自ら死に場所を探しに来たわけではなさそうだな」

「まさか! 私のような男が君と拳を交えたり、刃を交えたりできるわけがないだろう。私は戦いなんて大嫌いだし、血を見るのも得意じゃないんだ」


 ネロは困ったように苦笑しながら、手に持った紙包みを少し持ち上げてみせた。


「君が『自分で来い』と言ってくれただろう? だから来たんだよ。……せっかくの機会だ。これまで君たちには色々と苦労をかけてしまったし、少し落ち着いて『話をしよう』と思ってね。良ければ、この温かい焼き菓子でも食べながら、お茶でもいかがかな?」


 嵐の音だけが、不気味に二人と一人の間に響いていた。

 拍子抜けするほどの無害さを装うこの男の裏に、どのような「歪み」が潜んでいるのか。探偵ロッソの胸に、底知れぬ違和感と冷たい警戒の芽が、静かに膨らみ始めていた。


感想いただけると狂喜乱舞しますので感想くださいください

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