プロローグ:解剖開始
白銀の光と熱量が引き破られ、狂ったように逆回転していた時間の針が、ふっとその激しい拍動を止めた。
視界を満たしていた眩い閃光が引いていくと、あとに残されたのは、石造りの壁を打つ重い雨音と、硝子窓を細かく震わせる嵐の咆哮だった。
探偵事務所の室内。
卓上に置かれた油ランプの黄色い焔が、風圧を受けてゆらゆらと揺れ、壁に投じられた幾つかの影を不吉に蠢かせていた。
「……ッ」
革張りの椅子に身を沈めていた探偵ロッソは、軽く目蓋を閉じ、すぐさまそれを押し開いた。
赤い瞳の奥で、いま時間軸を越えて脳裏に叩き込まれた「たった一言」が、雷鳴のような鋭さで反響し続けている。
少女ユキの幼い口唇を介し、境界の彼方にいる未来の己から届いた、思考を逆転させるための絶対の『言葉』。
第一時間軸において、自分たちは敗北した。
嵐の夜、厳重に施錠された事務所を訪れた一人の男。威圧感も殺気も纏わず、市井の裏通りですれ違っても三歩歩けば忘れてしまうような、圧倒的な「普通さ」を晒す凡人。
その毒気のなさに拍子抜けし、温かいお茶と手土産の焼き菓子を囲んだ「会食」に応じた隙こそが、奴らの仕掛けた最大の罠だったのだ。
――だが、意識は巻き戻された。
過去へ送られた一言を受領し、いま、物語は再び「会食の冒頭」へと解き放たれる。
「やあ、失礼するよ。実にひどい嵐だね。……ああ、床を濡らしてしまって申し訳ない」
入り口の扉の傍らで、濡れた黒の地味な外套を羽織り、安価な丸帽子を被った男が、恐縮したように肩をすくめていた。
念入りに靴の泥を落とし、小さな濡れた傘を立てかける一挙一動。手には老舗の菓子店で買ってきたような、紙で丁寧に包まれた小さな小箱が握られている。
どこからどう見ても、市井のありふれた小市民。敵意の欠片すら漂わせないその出で立ちに、傍らに立つ白い髪の少女ユキは、毒気を抜かれたように息を呑んでいた。
「君が『自分で来い』と言ってくれただろう? だから来たんだよ。せっかくの機会だ。少し落ち着いて『話をしよう』と思ってね。良ければ、この温かい焼き菓子でも食べながら、お茶でもいかがかな?」
男は紙包みを少し持ち上げ、人当たりの良い、気弱そうな笑みを深めた。
第一時間軸であれば、この言葉に促されるままユキがお茶を淹れ、男の語る「一族の足跡」という雑談に時間を奪われていたはずだった。
「……ロッソ、お茶の準備を――」
戸惑いながら動こうとしたユキの肩を、ロッソの細い指先が静かに、しかし強く制した。
「必要ない、ユキ」
ロッソの声は、嵐の風音すら凍てつかせるほどに冷ややかだった。
「え……?」
「……おや?」
男が、ほんのわずかに首を傾げる。
ロッソは深く組んでいた脚を解き、静かに立ち上がった。スーツが優雅にはためき、油ランプの青白い光が、その整った顔立ちに冷酷な探偵の陰影を刻み込む。
第一時間軸での「警戒」は、単なる手探りの疑心に過ぎなかった。
だが、第二時間軸のロッソの瞳に宿っているのは、相手の骨肉を断ち切り、隠された不純物の構造を根底から曝け出そうとする、絶対の理性そのものだ。
頭の中で『一言』が吼える。
目の前に立つ男は、あまりにも無害だ。あまりにも「普通の人間」の形をし過ぎている。
刺客を破られ、自らの一族の企みを脅かされているはずの黒幕が、なぜ単身で、何の手札も持たずに探偵の懐へ飛び込んでくる? なぜ殺気すら消し去り、へらへらと手土産などを抱えて現れる?
――無害であること。それ自体が、計算し尽くされた最大の異常なのだ。
「手土産を持って雑談に花を咲かせに来たわけではあるまい、ネロ商会の盟主」
ロッソは一歩、重厚な靴底で石畳に踏み出した歩を進めた。
卓上の油ランプの灯りを背に受け、ロッソは目を見開く男を見下ろした。
「――さあ、お前の浅ましい『歪み』を解剖してやろう」
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