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9:諦念の解決

 静寂は、時を刻む真鍮の歯車が奏でる不快な旋律によって破られた。

 指名された少年ヴェルデは、緑の上着の袖口をゆっくりと整え、探偵ロッソの眼差しを正面から受け止めた。

 その顔には怒りも焦燥もなく、ただ水底のように深く、冷たい虚意だけが漂っている。


「何を証拠にそんなことを?」

 ヴェルデは問う。ロッソは眉ひとつ動かさず、答える。

「私に罪を被せるつもりなのであれば、証拠が必要だろう?君が持っているはずだ。私が毒を盛ったと見せかけるための、小瓶をね……大方、偶然を装いぶつかった拍子にでも私のポケットに滑り込ませるつもりだったかな?何にせよ、隙を見計らって私に証拠を押しつけるために常に持ち歩いているはずだ、今も」

 ヴェルデは表情ひとつ変えず、答えた。


「……見事です、探偵様。物理的な仕掛けを探すのではなく、伯父様の浅薄な心理を解き明かし、僕という演者にたどり着くとは」


 ヴェルデの声は透き通り、幼さの中に気味の悪いほどの冷静さを孕んでいた。ポケットに手をやると、ロッソの言うとおり、黒ずんだ液体の痕跡が残る小瓶を取り出して見せた。

 老執事ジャッロは悲痛な面面でヴェルデを見つめ、震える声で叫んだ。


「ヴェルデ様……! なぜです、なぜこのような恐ろしい真似を!? ブル様を唆して毒杯を煽らせ、探偵様を陥れるなど……!」

「なぜ、ですか」


 ヴェルデは薄く唇を歪め、初めて自らの感情——血の凍りつくような冷笑を浮かべた。


「ジャッロ、あなたは何も分かっていない。僕たちの命も、この館も、この世界で繰り広げられる営みも……すべてはネロ様が積み上げる膨大な試行の一つに過ぎないんだ。正解にたどり着くための、使い捨ての駒に過ぎない」


 ヴェルデのガラス玉のような瞳が、ロッソの朱いコートへと向けられる。


「伯父様は、ネロ様の威光に怯え、捨てられることを恐れるあまり正気を失っていた。……だから僕は、あの方に救いを与えてあげたんだよ。『要塞での計画を狂わせた厄介な探偵がここに来る。自らの死を以てその女を探偵ではなく密室殺人犯として葬り去れば、ネロ様はお前の一族としての価値を認め、絶望から救ってくださる』とね」


「正気ではない……! 自分の伯父を捨て駒にし、自死へ誘導することが救いだとでも言うのか!」

「ええ、救いですよ」


 ヴェルデの言葉には、深淵のごとき諦念が満ちていた。


「どう足掻いても、僕たちはネロ様の盤面の上でしか生きられない。どれほど抗おうと、未来は『一言』によって書き換えられ、失敗した歴史は廃棄される……。なら、自らの意思を捨て、完璧な道具として機能することだけが、僕たちに許された唯一の存在理由だ。あの地でネロ様の計画を阻害したあなたという不確定要素を、自爆の罠で葬り去る……。それこそが、僕がネロ様に示せる唯一の価値だったんだ!」


 少年の叫びは、自らの命や運命を諦めきった者だけが放つ、悲痛なる歪んだ肯定であった。

 自らを道具と定義し、他者の死すら盤面の駒として扱い、探偵の論理そのものを社会的処刑によって塗り潰そうとした狂気。


 だが——ロッソの瞳には、哀愍も同情もなく、ただ氷のように研ぎ澄まされた冷酷な論理の光だけが灯っていた。


「……くく、不快だね。反吐が出るほどに不快な論理だ」


 ロッソは芝居がかった手つきでコートの裾を払うと、ヴェルデへ向けて一歩を踏み出した。


「君は自らを『ネロの完璧な道具』だと誇り、すべて諦めきったかのように装っているが……その実、君の頭脳が弾き出した動機(Why)は、破綻した事実誤認と矛盾に満ち満ちているよ、ヴェルデ」

「矛盾……? 僕の何が矛盾しているというのです!」


 初めて、ヴェルデの静かな声に微かな苛立ちが混ざった。

 ロッソは冷ややかな嘲笑を浮かべ、細い指先を少年の胸元へ突きつけた。


「君が真に『意思を持たぬ道具』であり、ネロの試行に絶対の服従を誓っているなら……なぜ君自身が毒を飲み、私を道連れにして死ななかったのだね?」

「な……ッ!?」

「自爆告発の役目を伯父であるブル殿になすりつけ、自分は高みの見物を決め込もうとした。……君のその『自己保身』は、どこから湧いて出たものかね? 道具なら、自らが凶器となって砕け散ればよかったはずだ。なぜ君は、自らの生を残そうとした?」


 ロッソの鋭い指摘が、ヴェルデの理屈を容赦なく穿つ。


「答えは明白だ。君はネロの道具であることを諦容したフリをしながら、その裏で『生きたい』という強烈で生々しい執着を抱いているからだよ。自らの手で死ぬ恐怖から逃げるためにブル殿を騙し、私を私刑に処させることでネロに認められ、自らの生の安寧を得ようとした……。君の行いは、道具の献身などではない。ただの醜く、浅ましい『生の奪い合い』に過ぎないのだ!」


「違う……! 僕は、僕はネロ様のために……!」

「言葉を飾るな!」


 ロッソの声が、雷鳴のごとく書斎を揺らした。


「『一族の宿命』や『ネロの試行』という巨大な不条理を言い訳にし、自ら思考することを放棄したお前の不誠実さが、この密室毒殺劇という過剰で不細工な不条理を生んだのだ。……お前は道具ではない。ただの、自らの足で立つことを恐れた臆病な『人間』に過ぎんよ!」


 ロッソの冷徹な論理が、ヴェルデが自らを破滅から守るために築き上げていた「道具としての諦念」という概念の城を、完璧に打ち砕いた。


 ヴェルデの身体が激しく強張る。

 ガラス玉のようだった少年の瞳から、無機質な輝きが剥がれ落ち、そこには己の身勝手さと弱さを暴かれた、一人の未熟な子供としての動揺と屈辱が溢れ出していた。


「あ……あぁ……っ……!」


 少年の膝が折り曲がり、緑の上着を濡らして絨毯へ膝をつく。

 血の呪縛、そしてネロという絶対者への諦念によって塗り固められていた少年の「歪んだ動機」は、探偵の容赦なき論理によって、跡形もなく崩壊したのであった。


感想いただけると狂喜乱舞しますので感想くださいください

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