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10:惨劇の記憶と夜明けの出立

 一瞬、館内に満ちていた無数の時計の秒針音が、ぴたりと途絶えた。


 時間が凍りついたかのような密室の静寂の中、空気の位相が波打ち、目に見えぬ歪みが一気に収束していく。

 密室毒殺劇が未然に防がれ、少年ヴェルデの歪んだ動機が探偵の冷徹な論理によって完全に解体されたその瞬間——「歴史が書き換わった」ことによる巨大な因果の余波が、空間を揺らした。


「ぐ……っ、あぁ……ッ!?」


 老執事ジャッロが突然両手で頭を抱え、激しい眩暈とともにその場に膝をついた。

 悲劇の観測者であり、この館における唯一の「依頼人=証人」である老執事の脳髄へ、存在しないはずの、しかし確かに存在した「第一時間軸の惨劇の記憶」が一気に流れ込んできたのだ。


 暴風雨の夜。施錠された書斎で猛毒を煽り、血を吐いて倒れた館主ブル。

 駆けつけた使用人たちの前で、死に際に血塗られた指で探偵を指さし、『ロッソが……毒を……』と告発した生々しい声。

 そして——激昂した使用人たちとともに、無実の探偵ロッソの手首に冷たい鉄枷をはめ、湿った地下牢へ引きずり落とし、明朝私刑として処刑しようとしていた、絶望的な処刑前夜の記憶。


「ああ……なんということだ……ッ! 探偵様……! 私どもは……私は、あなた様を殺害しようとしていたのですね……! 救いを求めたはずのあなた様を、無実の罪で地下牢へ投獄し、湖の底へ沈めようと……ッ!」


 老執事ジャッロは床に額を擦り付け、涙と汗で顔をぐしゃぐしゃに濡らしながら慟哭した。

 時間の書き換えを観測する唯一の証人として、老人は「もし探偵の論理が届かなかった場合に訪れていたはずの破滅」のあまりの重みに押し潰されていた。


 一方、第一時間軸の記憶を継承しないブルとヴェルデは、ジャッロの突然の慟哭に困惑しながらも、自らの行いの過ちにただ打ちのめされていた。

 服毒自殺の寸前で企みを砕かれたブルは、己の保身と怯えの醜さに震え、膝をついて床を見つめている。そしてヴェルデもまた、ロッソの冷徹な論理によって「ネロの道具」という自己正当化の城を完璧に破壊され、一人の未熟な人間として立ち尽くしていた。


「涙を拭うといい、ジャッロ。……不純物は生じなかった。それで十分だ」


 ロッソは朱のコートの裾を悠然と払い、動じぬ佇まいで一同を見下ろした。

 だがその時、うつむいていた少年ヴェルデが、虚ろな瞳をロッソの傍らに佇む白き少女——ユキへと向けた。


「……ユキ。君は、自分が何者かを知らずに、その探偵の隣に立っているのかい?」

「え……?」


 ユキが不意に名を呼ばれ、華奢な身体を小さく跳ねさせた。

 ヴェルデの瞳には、かつてない悲哀と、同じ呪縛を背負う者への哀憫の色が浮かんでいた。


「教えにきてあげたんだ……。ネロ様が、君という『欠陥品』をなぜ放置し、そしてなぜいま排除しようとしているのかを」

「ヴェルデ……何を言っているの……?」


 ヴェルデは静かに息を吐き出し、鐘楼館の冷え切った空気のなかへ、一族の忌むべき血脈の真実を滑り込ませた。


「ネロ様たち一族の異能……過去へ『一言』を送る能力。そして……その『一言』を未来から過去へ受け継ぐための肉体の器、時間の干渉に耐えうる触媒として生み出されたのが……僕たちなんだよ」


 ヴェルデの指先が、真っ直ぐにユキを指さした。


「君も、ぼくも……ネロ様が完璧な歴史を創り出すための『試行の道具』として作られた、血の分身に過ぎない。……君のその『過去と未来を繋ぐ力』は、一族の血ゆえのものだ。君はネロ様の道具なんだよ、ユキ」


「っ……あ……!」


 ユキの顔から、完全に血の気が引いた。

あまりにも残酷な血脈の開示。

自らが何者なのか、なぜ過去へ「一言」を届ける力を持っているのか。その根底にあったのは、黒幕ネロと同じ「世界を弄ぶ不条理な一族の道具」という絶望的なルーツであった。

ユキの膝が揺れ、眩暈を起こしたように倒れかけそうになる。


だが——その身体が床へ落ちる前に、朱く美しい影が力強くユキの肩を抱き寄せた。


「戯言を」


ロッソの冷酷で、しかし鋼のように揺るぎない声が、激動する室内の空気を一瞬で薙ぎ払った。

ロッソはユキの華奢な肩をしっかりと抱き抱え、不快そうにヴェルデを見下ろした。


「生まれや血脈がどうあろうと、そんな不純物は私の論理に何の影響も与えないよ。……ユキ、君が誰の血を引いていようと関係ない。君が私に『一言』を届け、私が不純物たる死を排除する。君は、私の『共犯者』だ。それ以上に真実など存在しない」


「ロッソ……」


ユキは自らを抱きしめるロッソの腕の温もりを感じ、見上げる。

探偵の瞳には、一切の迷いも無かった。運命や血の呪縛などという曖昧なものを認めず、ただ「今、ここに存在する論理」だけを信じる女の、絶対の傲慢。


ユキは目元に滲んだ涙を、白い袖口で力強く拭った。

自分のルーツがどれほど暗く、歪んだものであろうと——自分を「道具」ではなく一人の人間、「共犯者」として必要としてくれる探偵がここにいる。


「……うん。私、もう逃げない。……ロッソと一緒に、行く」


少女の瞳に、確かな決意の火が灯った。

ヴェルデはそれを見つめ、力なく笑うと、静かに目を閉じた。


     *


 猛烈な勢いで館を揺らし続けていた暴風雨は、夜明けとともに嘘のように静まり返っていた。

 書斎の窓から差し込む薄桃色の朝光が、濡れた硝子片や黒い劇薬の痕跡を柔らかく照らし出す。館内に鳴り響いていた無数の振り子時計の不協和音は、いつしか規則正しく穏やかな、本来の時を刻む音へと調律し直されていた。


 部屋の隅で、館主ブルが深く頭を下げた。


「……探偵様。私は自分の命すら道具のように扱い、一族の恐怖から逃れようとしていた。……愚かでした。私はこの館で……ヴェルデとともに、一からやり直します。二度とあの方の影に怯え、身内を投げ出すような真似はいたしません」

「ヴェルデ様、ブル様……私もお二人をお支えいたします。ネロ様の道具としてではなく、この鐘楼館の人間として」


 老執事ジャッロが涙を拭い、二人の傍らに立った。

 ネロによって与えられていた自爆劇の台本は完全に破棄され、この館に生きる人間たちの新たな時間が動き出そうとしていた。


 二人はジャッロたちに見送られ、館の重厚な鉄の扉を後にした。

朝靄の晴れゆく桟橋。嵐の去った湖面には、対岸へと渡るための小さな一艘の舟が繋がれている。


 ロッソは舟に乗り込む直前、ふっと足を止め、ゆっくりと振り返った。

朝日に照らされる館の前に立つ、青い衣装のブルと、緑の上着を纏った少年ヴェルデ。

ロッソは朱のコートの裾を鮮やかに翻し、冷酷で凶暴なまでの不敵な笑みを二人に向けた。


「——ネロに伝えろ。次は自分で来い、とね」


 その言葉は、一族の影に怯えていた二人への引導であり、同時に時空の奥底に潜む黒幕ネロへの、明確な挑戦状であった。


 ロッソとユキを乗せた舟が静かに桟橋を離れ、金色の光が踊る湖面へと滑り出していく。

遠ざかっていく鐘楼館を見つめながら、ユキは強く、探偵の朱い袖口を握り締めた。

世界の理を揺るがす黒幕ネロとの最終決戦へ向けて、運命の針が、静かに進み始めていた。


感想いただけると狂喜乱舞しますので感想くださいください

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