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8:偽りの告発

 割れた硝子片から立ち上る刺激臭が、密閉された書斎の空気を汚していた。

 床の絨毯は黒い劇薬を吸い込んでシューシューと見苦しい泡を立て、豪奢な部屋に不吉な紫煙を漂わせている。

 青いベルベットの衣装を纏った館主ブルは、腰を抜かしたままへたり込み、自らの手が届かなくなった毒薬の残骸と探偵ロッソを交互に見つめていた。その瞳は恐怖と絶望に痙攣し、顎はガタガタと情けなく震えている。


「な……な、ぜだ……。なぜ貴様がそれを知っている……!?」

「静かにしたまえ、ブル殿。叫ぶのは、すべての演者がこの部屋へ揃ってからにするんだね」


 ロッソは冷ややかな声で告げると、書斎の重厚な二重扉を自ら大きく開け放った。


 異音と異臭、そしてブルの怒声を聞きつけて、廊下にはすでに人々が集まりつつあった。

 先頭に立つのは、顔を蒼白にした老執事ジャッロと、体調を回復させつつも硬い表情を浮かべたユキ。その背後には、暖炉の火かき棒や燭台を手にした館の使用人たちが、恐る恐る室内を窺っている。

 そして——群衆の最後尾、薄暗い廊下の影の中に、緑の上着を纏った少年ヴェルデが、相変わらず感情の削ぎ落とされたガラス玉のような瞳で佇んでいた。


「探偵様……! ブル様! 一体何事です!? 部屋から凄まじい音が……」


 老執事ジャッロが血相を変えて室内に飛び込んでくる。床に撒き散らされた不気味な黒い液体と、床にへたり込む主人の姿を見て、老執事は息を呑んだ。


「ジャッロ、全員をこの部屋へ入れなさい。扉を閉め、誰も外へ出さぬように」

 ロッソの冷酷な命令が、室内の乱れた空気を一瞬で統制する。

「探偵様、これは……この不気味な臭いは毒薬でございますか……!?」

「そうだ。間一髪だったよ、ジャッロ。もう少しで、この館で実に不愉快で、社会的にも完璧すぎる『密室毒殺劇』が完成するところだった」


 使用人たちがざわめき、お互いに顔を見合わせる。

 ロッソは朱のコートの裾を悠然と払い、部屋の中央、ひっくり返ったデスクの脇へ腰を預けた。


「みなに説明してあげたまえ、ブル殿。君がほんの数分前まで、どのような『演出』を演じようとしていたのかをね」

「う……、くっ……」


 ブルは顔を歪め、かぶりを振るばかりで言葉を発することができない。

 ロッソはふっと冷ややかな溜息を漏らし、集まった者たちへ視線を向けた。


「では、私が代弁しよう。……この館の主人であるブル殿はね、私との面会を終えて私が部屋を出た直後、内側からこの二重扉に頑強な鍵を下ろすつもりだったのだ。そして、デスクの上にあったこの劇薬を一気に飲み干す」

「なっ……服毒……!? ブル様が自ら!?」


 ジャッロが絶句する。使用人たちからもどよめきが上がった。


「そうだ。劇薬は一瞬で内臓を焼き、吐血をもたらす。苦悶の絶叫を聞いた君たちが扉を破って踏み込んだ時、ブル殿は血の海のなかで絶命しかけている。そして——息絶える直前、駆けつけた君たちの目の前で、私の胸元を強く指さして告発するのだ。『ロッソが……私に……毒を……』とな」


 ロッソの描く「起こるはずだった未来」の光景。

 それはあまりにも暴力的で、生々しく、そして逃れようのない現実味を帯びて集まった者たちの脳裏に刺さった。


「さらに、私の外套のポケットには、知らぬ間にブル殿が飲んだものと同型の毒薬の小瓶が忍ばされている……。施錠された密室、直前の二人きりの面会、被害者自身の生々しい指さしと死に際の告発、そして容疑者の所持品から発見された凶器。……どうだね? これ以上ないほど完璧な『密室毒殺犯ロッソ』の誕生だ。何人(なんぴと)も呼べぬこの嵐の孤島で、興奮した君たちは私を弁明の機会すら与えず捕縛し、私刑として殺害していただろうね」


 静寂が部屋を支配した。

 使用人たちはゴクリと唾を飲み込み、自分たちが知らず知らずのうちに、恐ろしい私刑の片棒を担がされようとしていた事実に背筋を凍らせている。


「そんな……。なぜブル様が、自らの命を捨ててまで探偵様を陥れねばならないのですか……!?」

 ジャッロが震える声で問う。


「それこそが、この不条理な罠の核だよ、ジャッロ。……物理的な隠し扉や糸など、この密室には一切存在しない。存在したのは『自らの死そのものを武器にして相手を道連れにする』という常軌を逸した心理の盲点だ」


 ロッソは冷酷な笑みを深めると、床で震えるブルからゆったりと視線を外した。


「だが、ここで自問自答せねばならない。……ブル殿、君という男の小ささだ。君は保身に狂い、ネロ商会の影に怯える卑屈な臆病者に過ぎない。そのような男が、自らの命を投げ打ってまで探偵を葬り去る壮絶な自爆劇を、己の頭脳と胆力だけで思いつき、決行できると思うかね?」

「ひ……っ……」

「そう……君には無理だ。君にできたのは、誰かが用意した不条理な台本に従い、哀れな演者として毒杯に手を伸ばすことだけだ。……君にその劇薬を手渡し、『探偵を服毒告発で葬ればネロ様への忠義となり、お前の命と地位は保証される』と甘い毒を囁いた真の支配者……。わざわざ君の口から言わせるまでもない」


 ロッソは朱のコートを鮮やかに翻し、まっすぐに腕を伸ばした。

 その細く美しい指先が指し示したのは、部屋の入口近く、薄暗い影の中に立つ人物であった。


「——緑(ヴェルデ)の名を持つ少年。君だよ」


 室内の一同の息が止まった。

 ジャッロが、使用人たちが、信じられないものを見るかのように、入口に立つ少年へと一斉に視線を注ぐ。


「ヴェルデ様が……!? 馬鹿な、あの子はまだこんなに小さく、館主様に虐げられていた可哀想な……」

「外見に惑わされるな、ジャッロ」


 ロッソの冷徹な声が、ジャッロの悲鳴を途中で切り裂いた。


「伯父であるブル殿が怯え、取り乱し、自死の決断すら他人に委ねるほどの愚者であるのに対し、この少年の瞳を見たかね? 己の肉親が目の前で毒を仰ぎ、客人が処刑されようとする現場においても、この少年の瞳には微かな動揺も、恐怖も、涙の一滴すら浮かんでいない」


 ロッソは静かに歩みを進め、少年ヴェルデの前で立ち止まった。


「ネロ商会の真の窓口であり、この館に不条理な劇薬を持ち込んだ者……。ブル殿を『捨て駒』として操り、私を探偵としてではなく『殺人犯』として処刑させようと画策したシナリオライター……。真犯人(Who)は、君以外に存在しえないのだよ、ヴェルデ」


 指名された少年ヴェルデは、指一本動かさなかった。

全存在の疑光を向けられてもなお、そのガラス玉のような瞳でロッソを見つめ返し、ただ静かに、冷たい息を吐き出した。


感想いただけると狂喜乱舞しますので感想くださいください

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