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7:歪みの検証

 外の暴風雨は衰えを知らず、窓ガラスをけたたましく打ち揺らしていた。

 一階の客間。薄暗いランプの光が壁面の振り子時計群をぼんやりと浮かび上がらせ、カチカチと不揃いな歩調で時を刻む音が充満している。


「……探偵様、ブル様がお待ちでございます」


 老執事ジャッロが深く頭を垂れ、ロッソに向かって静かに告げた。

 二階の書斎で館主ブルとの面会が設定された、まさにその直前であった。

 ロッソが朱のコートの裾を払い、立ち上がろうとした——その瞬間。


「……くっ……ぁ……ッ!」


 脇に佇んでいたユキが、突然胸元を激しく押さえ、その場に膝をついた。

 白く美しい顔立ちから一瞬にして血の気が引き、瞳は焦点を失って宙を彷徨う。華奢な身体を激しく震わせ、まるで全身の骨を軋ませるような強い苦悶の息が口から漏れ出す。


「ユキ様……!?」


 老執事ジャッロが驚愕して声を上げる。

 だが、ロッソは素早くユキの前に膝をつき、その肩を冷静に支えた。

 過去のロッソに惨劇の記憶はない。地下牢で繋がれていた絶望も、自分が密室殺人の犯人に仕立て上げられた過去の失敗も知る由もない。

しかし、この現象が何を意味するかを、探偵の頭脳は熟知していた。

ユキの肉体を境界として、未来からの「一言」が時空を越えて届けられたのだ。


「……ッ、敵……は……」


 取り憑かれたような状態に陥ったユキの、蒼白な唇が震える。

その口から漏れ出たのは、いつもの無垢な声ではなく、理を穿つ重々しい言霊であった。


「……敵は……己の、命を……棄てる……ッ」


 吐き出すようにそう紡ぐと、ユキはハッと大きく息を吸い込み、ロッソの腕の中に崩れ落ちるように倒れ込んだ。


「ユ、ユキ様……!? 一体今のは……」

「動くのではない、ジャッロ。……思考の邪魔だ」


 ロッソの冷酷な声が、動乱する客間の空気を一瞬で凍りつかせた。

ユキを深く椅子に横たえさせたロッソは、立ち上がり、自らの前髪をゆっくりと掻き上げた。その瞳の奥では、冷徹な演算回路が狂ったような速度で回転を始めていた。


(『敵は、己の命を棄てる』……か)


 未来の自分が、ユキの口を借りて送ってきた唯一の解。

惨劇の内容は分からない。だが、これから自分が向き合うべき事象の構造は、完璧に解開された。


(これから会う館主ブル……。あの男は私を殺すために殺し屋を差し向けたり、刃や毒をこちらに向けたりはしない。敵が使う『凶器』は暗器でも毒薬でもなく——自分自身の命そのものだ)


 思考が疾風のごとく駆け巡る。

自らの命を捨てることで、相手を殺す。

もしブルが、二人きりの面会を終えて施錠された密室の書斎で自ら服毒自殺を遂げたらどうなる?

死に際に自分を指さして告発し、外套のポケットに凶器を忍ばせられたら?

——いかなる弁明も通用しない、完璧な『密室毒殺の容疑者』が完成する。


「……くく、不条理な台本を用意してくれたものだね」


 ロッソの唇の端が、凶暴なまでの笑みに歪んだ。

敵の手口を事前に把握した探偵に、もはや隙など存在しなかった。


「ジャッロ、ユキを頼む。……私はブル殿の元へ行ってくるよ」


 ロッソは朱のコートを羽ばたかせ、階段を駆け上がった。

二階奥深くに位置する重厚な二重扉。ロッソは一切の躊躇なく、その木製扉を激しく押し開いた。


 書斎の内部。

壁面を埋め尽くす古書とからくり装置の向こうで、青いベルベットの衣装を纏った館主ブルがデスクに肘を突いていた。その表情には焦燥と、逃れようのない恐怖がへばりついている。

デスクの上には、蓋の開いた小箱と、不気味な黒ずんだ液体満たす小さな硝子瓶。


「何の用だ、女探偵! さっさとこの館から出ていけと言ったはずだ!!」


 ブルが立ち上がり、怒声を上げる。

ネロ商会の影、一族の威光と恐怖に追いつめられた男の正気は、すでに限界を迎えていた。

ロッソが面会に応じず、冷ややかな視線で自分を見つめていることに狂気的な焦燥を募らせたブルは、突如としてデスクの小箱へ手を伸ばした。


 不気味な黒い液体を満たした硝子瓶。

ブルは死人のような蒼白な顔でコルクを強引に引き抜き、それを自らの口元へ一気に運ぼうとした——自爆告発の惨劇を完成させるために。


だが——その自死の行いは、最初からロッソの計算の中にあった。


「させるかッ!」


 ブルが瓶を唇に触れさせるより早く、ロッソはデスクを飛び越えるかのごとき勢いで踏み込んでいた。

朱の袖口から閃いた細くしなやかな右腕が、容赦なく空を裂く。


ガシャァンッ!!


硬質音が室内を打ち壊した。

ロッソの手甲が、ブルの握る硝子瓶を側面から強烈に叩き落としたのだ。

手元から弾け飛んだ硝子瓶は暖炉の石淵に激突して砕け散り、ツンと鼻を突く酸性の異臭とともに、黒い劇薬が豪奢な絨毯の上へと撒き散らされた。


「な……な、な……ッ!?」


 ブルは奪われた手元と、床でシューシューと汚い泡を立てる劇薬の痕跡を交互に見つめ、声を失って床へへたり込んだ。


「……危ないところだったね、ブル殿。君の不格好な自爆に付き合わされるところだったよ」

「貴様……貴様、なぜ……! なぜ私が……!?」


 ブルは腰を抜かしたまま、恐怖に引きつった顔でロッソを見上げる。

自らの命を捨ててでも完成させようとした密室毒殺のシナリオを、実行に移す寸前で完全に阻止されたのだ。


「自分の命を捨て、私を密室殺人の犯人に仕立て上げて私刑に処させる……。物理トリックなど存在しない、心理の穴を突いた陰湿な罠だ。だが——君自身の頭脳から、そのような精巧な筋書きが生まれるとは到底思えなくてね」


 ロッソは冷酷な眼差しでブルを見下ろし、胸の前で腕を組んだ。


「さあ、お互いに仕切り直しと行こうか。……君にその毒薬を与え、自爆告発のシナリオを吹き込んだ『真の演出家』を、この部屋へ呼び出そうじゃないか」


 殺人が『未然に防がれた』瞬間であった。


感想いただけると狂喜乱舞しますので感想くださいください

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