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4:回想Ⅲ 鐘楼の告発


 館主ブルとの刺々しい面会を終えた後、ロッソとユキは老執事ジャッロに案内され、一階の客間へと通されていた。

 天井の低い部屋の壁面には、やはり幾つもの古い振り子時計が据え付けられ、不揃いな秒針の刻み音が部屋を満たしている。外の暴風雨はいよいよ狂暴さを増し、ぶ厚いガラス窓を荒々しく打つ雨粒が、まるで暗闇の中から無数の爪で館を引っ掻いているかのような不快な音を立てていた。


「……あんなにも怯え、苛立っておられるブル様を見るのは、初めてでございます」


 銀の給仕盆から温かい紅茶のカップを卓上へ並べながら、老執事ジャッロは悲痛な面持ちで息を吐いた。その手先はかすかに震えており、磁器のカップが小さなカタカタという音を立てる。


「ネロ商会……。その名を聞いた瞬間のブル様の狼狽ぶりは、尋常ではございませんでした。探偵様、あのお方は一体何にそこまで追いつめられているのでしょうか」

「保身と、逃れようのない絶対的な力への恐怖だよ、ジャッロ」


 ロッソはカップに手をつけず、脚を組んで深く椅子に身体を沈めた。

 薄暗いランプの光が、その鋭い鼻腔と冷ややかな瞳の輪郭を浮き彫りにしている。


「あの男は自らの手で何を招き寄せ、何を切り捨てようとしているのか、すでに自分でも制御できなくなっている。自死にも等しい暴走へと足を踏み入れる者の瞳——それが、今のブル殿の瞳だ」

「……ねえ、ロッソ」


 窓際に佇んでいたユキが、不意に振り返った。

 その白く滑らかな頬は緊張に引きつり、細い眉が痛ましげに寄せられている。


「時計の音が……さっきから、おかしいの。館全体の歯車の音が、何か悲鳴を上げているみたいで……」


 ユキの言葉が終わるか終わらないかの、その瞬間であった。


 頭上——二階の館主書斎の方向から、ズシンと重い物体が床を叩きつけるような鈍い衝撃音が響き渡った。

 続いて、澄んだガラスの割れる甲高い音と、人のものとは思えぬ、苦悶に満ちた絶叫が館の吹き抜けを伝って落ちてきた。


「な、何事だ……!?」


 ジャッロが給仕盆を落としそうになりながら叫ぶ。

 ロッソは一瞬の躊躇もなく立ち上がり、赤のコートの裾を翻して廊下へと飛び出した。


「ユキ、ジャッロ! 来い!」


 不吉な叫び声は、間違いなく先ほど面会を行ったブルの書斎から発せられていた。

 ロッソが階段を駆け上がり、二階の薄暗い廊下を突き進むと、不意に吹き抜けの物陰から飛び出してきた少年と衝突した。

 ヴェルデであった。数人の使用人たちが青ざめた顔で集まってくるのも視界に入った。


「ブル様の部屋から声が……!」

「退がっていろ!」


 ロッソは重厚な二重扉の前にたどり着き、力任せにドアノブを回した。

 ——動かない。

 金属製の重々しい鍵が、内側から固く下ろされている感触が手首に伝わってくる。


「ブル殿! ブル殿、開けたまえ!」


 扉を強く叩くが、返事はない。代わりに、扉の向こうからは「ガハッ……ッ、ヒュー、ヒュー……」という、気管に血や液体の詰まった異様な喘ぎ声と、床を掻きむしる爪の音が微かに漏れ聞こえていた。


「鍵がかかっている……! 探偵様、これは内側からしか施錠できない頑強な錠前です!」


 息を切らせて追いついたジャッロが、顔を蒼白にして叫んだ。


「押し破るぞ! 使用人、身体を貸せ!」


 ロッソの鋭い号令に応じ、体格の良い男衆二人が扉へ肩をぶつけた。

 ドスン、ドスンと、重厚な木製扉が悲鳴を上げる。三度目の衝撃で、古びた真鍮の錠前が弾け飛び、扉が豪快に内側へと跳ね開いた。


 踏み込んだ室内を満たしていたのは、立ち込める強い酸気と、耐えがたい血の臭気であった。


「ひっ……! ブ、ブル様……!?」


 ジャッロが悲鳴を上げた。

広大な書斎の中央、ひっくり返ったデスクの脇で、青いベルベットの衣装を纏った館主ブルがもがき苦しんでいた。

男の口からは、黒ずんだ暗赤色の血と泡が激しく吐き出され、豪奢な絨毯を汚している。胸元を掻きむしる指先は紫に変色し、見開かれた両眼は血走って天井の異様なかたちを映し出していた。デスクの上には、先ほどの面会時には無かった、カラになった小さな硝子瓶が転がっている。


「毒……服毒だ! 誰か、すぐに吐き出させる湯を——」


 ロッソがブルの元へ駆け寄ろうと足を踏み出した、その時であった。


「……ッ、ガ……ハッ……!」


 床に倒れていたブルが、最期の狂乱のような力を振り絞って上半身を起こした。

 血塗られた口から溢れる泡を撒き散らしながら、男の見開かれた瞳が、真っ直ぐにロッソの姿を捉える。

 そして——ブルは震える右腕を高く突き上げ、紫に腫れ上がった指先で、毅然とロッソの胸元を指さした。


「ろ……ロッソ……ッ! 奴が……奴が……私に……毒を……ッ!!」


 絶叫にも似た最期の告発。

 ブルは口から大量の血を吐き出すと、そのまま糸が切れた人形のように絨毯へ倒れ伏し、二度と動かなくなった。


 静寂。

 館内に鳴り響く時計の不協和音だけが、残された者たちの鼓膜を冷たく打っていた。


「ブ……ブル様……? ブル様ぁっ!?」


ジャッロが崩れ落ちるように駆け寄り、ブルの頸脈に手を当てる。だが、老執事はすぐに絶望に満ちた顔でかぶりを振った。絶命であった。


集まった使用人たちの視線が、ゆっくりと、恐ろしいほどの恐怖と疑惑を孕んでロッソへと向けられる。


「今……ブル様はなんとおっしゃった……?」

「ロッソが……毒を盛ったと……」

「馬鹿な言いがかりだ!」

ロッソは冷酷な声を張り上げ、立ち尽くしたまま使用人たちを睨みつけた。


「私が毒を盛る理由など存在しない! 私は面会を終えて一階へ降り、ずっとジャッロやユキと共にいたのだぞ!」

「ですが……探偵様」


物陰から静かに歩み出たのは、緑の上着を着た少年ヴェルデであった。

ヴェルデはブルの死体を見下ろすこともなく、ただガラス玉のような瞳をロッソへ向け、感情の失われた低い声で呟いた。


「直前に、伯父様と二人きりで部屋におられたのは……あなたです。伯父様は、あなたと会った直後に毒を煽られた。……そして、死に際にあなたを指さした」

「何だと……?」

「おい……探偵の服のポケットを見ろ! 何か入っているぞ!」


取り乱した男衆の一人が、ロッソの警戒を掻い潜って強引に外套のポケットへ手を突っ込んだ。

ジャリ、と硬い硝子が擦れ合う音が響き、男の手から転がり出たのは——ブルのデスクの上に転がっていたものと寸分違わぬ、不気味な黒ずんだ液体の痕跡が残る小瓶であった。


「これだ……! ブル様を殺した毒薬の瓶だ!」

「そんな……! ロッソがそんなものを持っているはずがない!」


ユキが叫び、ロッソの前に立ちふさがろうとしたが、使用人たちに押しのけられた。


施錠された密室。

直前の二人きりの面会。

息絶える直前の、被害者による生々しい告発。

そして、外套から発見された決定的な凶器の小瓶。


何ひとつとして弁明の余地が存在しない、あまりにも完璧すぎる「罠」が、探偵ロッソの全身を完全に捉えていた。


感想いただけると狂喜乱舞しますので感想くださいください

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