5:回想Ⅳ 逃れられぬ窮地
静寂を破ったのは、使用人の一人が発した甲高い悲鳴であった。
豪奢な大理石の床に落ちた小瓶が、カランと虚ろな音を立てて転がる。黒ずんだ液体の痕跡。それは、目の前で吐血し息絶えた館主ブルの口元を汚すものと、全く同じ色の劇薬であった。
「間違いない……! ブル様を殺したのは、この女だ!」
「私刑だ! 誰も来られないこんな嵐の孤島で、主人を殺されて黙っていられるか!」
湧き上がる憤怒と恐怖。殺気立った使用人たちが、各々に鉄製の燭台や暖炉の火かき棒を握り締め、ロッソを取り囲むように間合いを詰めてきた。
男たちの瞳に宿るのは、理性的思考の欠落した純粋なパニックと、主人を失ったことによる狂暴な自己防衛本能であった。
「下がりなさい!」
小柄な身体を投げ出すようにして、ユキがロッソの前に立ちふさがった。
華奢な両腕を広げ、震える声で怒号を遮ろうとする。
「ロッソは何もしていない! 毒薬なんて持っていなかった! 誰かがロッソのポケットに忍ばせたのよ!」
「戯言を言うな、小娘!」
男衆の頭張り役が、ユキを乱暴にはねのけようと手を伸ばした。
だが、その腕がユキの身体に触れる前に、ロッソの冷酷な声が室内の空気を氷付かせた。
「その薄汚い手に私の共犯者を触れさせるな。……死にたくなければ、引っ込んでいることだね」
ロッソはユキの肩を抱いて自らの背後へと引き寄せると、朱のコートの裾を悠然と払った。
捕縛の危機に直面しながらも、その立ち姿には一片の揺らぎも存在しない。冷徹なまでの尊大さと完璧主義者のプライドが、荒気立つ男たちを怯ませる。
「……探偵様」
崩れ落ちたブルの死体の脇から、老執事ジャッロが痛ましげな顔を上げた。
その銀髪は乱れ、皺の刻まれた顔は蒼白に引きつっている。悲劇の観測者となった老執事は、震える声でロッソへ問いかけた。
「どうして……どうしてこのようなことになったのですか。私は……私はあの子を救っていただきたくて、あなた様をお招きしたというのに……」
「言葉を飾るな、ジャッロ。君の目に映っている光景が全て真実であると、本気で信じているわけではあるまい?」
ロッソは冷ややかな眼差しで、絶命したブルの死体と、転がった小瓶を交互に指し示した。
「論理的に思考したまえ。私がブル殿を毒殺するとして、なぜ二人きりの面会を終えた直後という、最も疑われる時間を選んで決行する? なぜ施錠された密室で服毒させ、自分を指さして告発する余地を残す? そして何より——なぜ犯行の証拠である毒薬の瓶を、自らの外套のポケットに入れたまま現場へ戻ってくるのだね?」
あまりにも整いすぎた現場。あまりにもあからさまな状況証拠。
ロッソの指摘は、まさに事件の根幹に存在する『異常なまでの過剰さ』を突いていた。
だが——その論理的な反論は、暴走する群衆の感情を押しとどめるには、あまりにも無力であった。
「知るか! 探偵の考える異常な犯罪の心理など!」
「現に部屋は内側から施錠されていたんだぞ! ブル様と直前に二人きりだったのは貴様だけだ!」
「死に際のブル様が、ハッキリと貴様の名を呼んで指をさされたのだ! 凶器の瓶も貴様のポケットから出てきた! これ以上の証拠がどこにある!!」
突きつけられる、反論の余地なき「現実」。
施錠された完全密室。
直前の二人きりの面会時間。
死に際の被害者による、生々しく明確な指さしと口頭での告発。
そして、容疑者の所持品から発見された直接的な凶器。
一つ一つが、いかなる裁判であっても即座に有罪判決を下せるだけの強度を持っていた。これらが組み合わさった時、ロッソが自らの無罪を証明するために提示できる客観的な証拠は何一つ存在しなかったのだ。
群衆の陰で、館の使用人たちや少年ヴェルデが息を呑んで事態を見守っている。誰がこの筋書きを思いつき、いかにしてこの不条理な罠を完成させたのか。探偵であるロッソの頭脳をもってしても、この場の誰一人として明確な「真犯人」と断定できる決定的な不条理は見出せない。
(……見事な手際だよ。私を探偵としてではなく『殺人犯』として処刑させるために、この館の者たちの心理まで完全に計算し尽くしている)
ロッソの唇の端が、嘲笑うかのようにかすかに歪んだ。
「大人しくしろ! 暴れるならこの場で打ち殺すぞ!」
「ロッソ……! 放して、ロッソに触らないで!」
叫ぶユキもまた、他の使用人に押さえつけられ、引き離されていく。
重々しい鉄枷がジャリと音を立て、ロッソの両手首を容赦なく締め上げた。
「ジャッロ! 明朝の嵐が去ると同時に、この女を湖へ突き落とすか、鐘楼で吊るす! それまで地下牢へぶち込んでおけ!」
「あ、ああ……なんということだ……」
老執事ジャッロは膝をつき、頭を抱えて震えるばかりであった。
冷たい石造りの階段を引きずられるように下ろされていく。
薄暗い松明の光が揺らめき、湿り気と黴の匂いが深くなっていく。重い鉄格子が開かれ、ロッソとユキは暗闇の地下牢へと突き落とされた。
ガチャン、と不吉な音を立てて鉄扉が閉じられ、重々しい鍵が下ろされる。
逃れようのない、確定した破滅の結末。
こうして、記憶の針は周回を終え——処刑を翌朝に控えた、あの絶望の「現在」へと辿り着いたのであった。
感想いただけると狂喜乱舞しますので感想くださいください




